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48 

 言葉では言い表わせないような妙な感覚というものがある。俺が今感じているのは、まさにそれであった。
 しかし俺が何を感じていようと仲間たちは気にもとめてくれない。いや今はそんな余裕がないのだ。だから何も聞かれないし何も言い出せない。
 ただひたすら黙って歩く。俺は最後尾で、前を歩く同じくらいの背丈の外人の背中を追っていた。
 虚しさが胸を支配する。
「止まって」
 沈黙を破ったのはジェラーだった。言われたとおり俺を含む全員が足を止める。
 何事かと思ったらその直後に前方で爆発が巻き起こった。もしあのまま進んでいれば確実に巻き込まれていたところである。
 ごくりと唾を呑む。汗が出てくるのが分かった。
「道を変えた方がいいみたいだね」
 ジェラーは歩く方向を変え、それに続いてロスリュとリヴァも歩きだす。俺は置いて行かれそうになって慌てて後を追った。
 ふと空を見上げると暗い雲が空を支配していた。雨は降っていないみたいだが今にも降りそうな雰囲気を醸し出している。そしてそれと同時にあることに気づいた。
 街は静まり返っている。それは誰もいないからであり、滅ぼされたからだ。だが以前は少ないとは言えども音があった。それは物が燃える音。静かになった今、炎は完全に消えていた。
 この国にはもう何もなかった。あれだけ大きく目立っていた城も焼けて崩れ、街の中の家々は元からなかったように影も形もない。あるのは真っ黒になった何だかよく分からないものばかりだった。
「ここに来れば、全てが分かると思ってたのに」
 全てが終わると思っていたのに。
 結局は真相も分からないまま一人の青年に追い出され、仲間の安否すら分からずに国を出なければならなくなった。こんなことがあっていいのだろうか。
「誰かいる」
 藍色の髪の少年の言葉にどきりとした。誰からも何も言われなかったが自然と足が止まる。
 前方の視界は開けていた。何もなくなった国に障害物はなく、遥か遠くまでよく見渡すことができる。だからその人物の後ろ姿を見た時には、一瞬で誰だか理解できた。
 地面を蹴り、走りだす。同時に雨が降ってきた。
「――アレート!」
 その人物の名前を呼ぶと前方で立ちつくしていた黄色い髪の少女はゆっくりと振り返った。青い瞳がかすかに歪み、大きく開かれる。
 傍まで駆け寄ると嬉しさのあまり笑みがこぼれた。
「アレート、よかった。無事だったん――」
「どうしてあなたはそんなに笑っていられるの?」
 飛んできたのは厳しい言葉だった。思わず言葉を失う。
「見て」
 少女は目を細め、前を向く。そこには何もない。
「国は滅んだ」
 噛み締めるようにゆっくり言う。
「私が馬鹿だったから、私が国を捨てたから」
 瞳に宿るのは光ではなく、深い深い闇であって。
 くるりと振り返り、俺の顔を覗き込む。その顔には悲しみと怒りと絶望とが入り混じっていた。
「これを見てどうしてあなたは笑えるの? 私の目の前では炎に焼かれている人がたくさんいたのに!」
 俺は、俺は。
 悲しくないわけじゃない。嬉しいわけじゃない、けど、俺が笑う理由は。
「そんな言い方することないでしょ!」
 聞こえてきたのは子供のように怒る外人の声だった。驚いて声が聞こえた方へ目を向ける。
「あんたは知らないかもしれないけど、樹は、ずっとあんたのことを心配してたんだよ!」
 リヴァは珍しく大きな声を出してアレートに言い寄っていく。アレートは何も言わずに外人を睨んでいたが、本当に怒っているようには見えなかった。
「樹だけじゃない、ぼくだって心配してたんだから」
 次第に声に張りがなくなっていく。雨はより激しくなり、人の声をかき消す力を発揮してきた。
 俺は何も言えない。
 だってアレートの言っていることは嘘ではなかったから。
 目の前で苦しんでいる人がいて、自分の故郷の国が滅ぼされて。それで笑えという方が無理だ。
 俺はもしかして彼女にひどいことをしたのか?
 胸が高まる。嫌われたんじゃないだろうかと思うととんでもなく悲しくなった。
 悲しくて、見捨てられたくなくて、傍に誰でもいいからいてほしくて。アレートにも、リヴァにも、ジェラーにもロスリュにも嫌われたくない。そう思うのはわがままなのか? そう思うのは弱虫なのか?
『樹、君は物事を大げさに考えすぎる傾向があるよ。もう少し落ち着いたら?』
 頭の中に響いてきたのは少年の、ジェラーの声。彼の小さな手は俺の服を掴んでいた。
 ああ、そうだ。俺はどうやら大げさに考えすぎるらしい。自分では意識してないけどジェラーがそう言うのならそうなんだろう。自分で分からないなら他人に聞くしかないんだ。
『違うよ。それはあってるけど僕は君の考えを否定しているわけじゃない』
 そう言って手を放す。そのまま何も言わずに前へ歩きだした。
 どういう意味だか理解できない。俺の考えって何なんだよ?
「伏せて」
 それは何度も聞いた言葉だった。体が意志に関係なく勝手に反応し、地面に伏せる姿勢になる。
 次に聞こえたのは大きな爆発音だった。真上から聞こえたらしく、音がやんでも頭の中でしばらく響いている。
「相手に見つかってるね、これ」
 落ち着いて言う少年。俺は体を起こし、何度かまばたきをしてから前方を見つめた。
 視線を感じる。
 見つかったというのは嘘ではないらしい。だけど何だろう、俺はこの視線を知っている。
 この視線はあの人のものだ。あの人の、あの。
「なんで……あんたがここに?」
 たった一人で破壊された国の地面の上に立っていたのは、慈善家の青年だった。貧相そうな布を頭から被り、同じように貧相そうな布で全身を隠している。その姿は以前と全く変わっていなかった。
「また、お会いしましたね」
 表情も前と変わらない。だけどその青年の持っている気配が以前と全く違っていた。
「シンさん。あんたがなぜ」
「以前申しませんでしたか? 私はこの国に向かっていたのですよ」
 相手は一歩踏み出す。ゆっくりと少しずつ、こちらに近づいてきた。
 赤い瞳は俺を捕らえて放さない。
「何か私がいれば不都合なことでも?」
 そういうわけじゃない。
 頭の中では言葉があふれるのに相手の視線が痛くて口に出して言えなかった。どうして。
 どうして。あの人はとてもいい人なのに。
 一緒に行動してようやく分かったこと。それはシンさんはただひたすら優しい人だということだった。いや、優しいだけじゃなく強くもあった。スーリとは正反対だという印象を受けた。傍にいると安心できて、心が落ち着いて、冷静になることができた。話をすると笑みがこぼれた。まるで兄のように頼りになって、父のように守ってくれる人だった。
 そんな人からどうして恐怖を感じることがあるんだよ? 俺はどうかしている、おかしいんだ!
 頭が痛い。ずきずきして、くらくらして。おまけに何かが耳に入ってくるようだ。それは幾つもの音が重なりあった複雑で重々しいメロディで。
「え?」
 何だこれ。
 何なんだこれは。
 時間が止まったように感じられる。過去の記憶が鮮明に蘇ってくる。
 暗く光のない闇の中。誰だか分からない人が挨拶をしてきて。
 答えていたら気分が悪くなって、妙な気持ちがあふれて止まらなくなって。聞こえてきたのはこのメロディであって。
 まさか。
 いやそんなはずがない。だってあの世界は閉ざされていたんだから、この世界から行くことは不可能だったんだ。違う。絶対に違うはずだ。
「樹、駄目。その人に近寄っちゃ駄目!」
 追いうちのように聞こえたのはアレートの声。同時に、歩いていたシンさんの足が止まった。
「アレート、どうして」
「あの人だもの」
 聞きたくない。
「この国を滅ぼしたのはあの人だもの!」
「嘘だ!」
「嘘じゃない!」
 少女の顔は歪んでいる。俺も同じような顔をしているのだろう。
 認めたくなかった。けど分かっていた。正しいのはきっとアレートなんだ。
 俺が間違っているんだ。俺が、間違っていたんだ。
「嘘だ……」
 裏切られた気がした。
 俺は信じたくなくて、ただ否定することしかできなかった。
「何を悩んでいるのです」
 降ってきた雨に声が混じる。
「あなたの頭は飾りですか」
 俺は、何も言い返せない。
「私がこの国を滅ぼしたのか? いいでしょう、話しましょう。その話に関してはその通りだと言っておきましょうか」
 相手は微笑む。それはスーリの笑みとひどく似ていた。
 分からないことだらけだ。雨に打たれて歯を食いしばる。
 心の中に表れたのは憤りだけだった。
「お前は俺たちを騙したのか、シン!」
「騙される方が悪いんだよ!」
 相手の、シンの顔に深い闇が見えた。それでも笑みは消えない。
「騙した? ひどい言い様だな川崎樹。俺が本気でお前らを騙そうとしていただなんて思っているのか? このクソ野郎どもが!」
 まるで人が変わったようにシンは言う。
 違う。もうこの人は俺の知っている慈善家ではない。俺の知っている慈善家はもうどこにもいないんだ。
「何が目的だ、シン」
「うるさい奴だな、お前も」
 まともに会話が成り立たない。相手は俺を見下して、俺は相手を見上げていた。
「目的を話してもお前なんかには理解できない」
 そうかもしれない。けどこのままじゃ駄目なんだよ。
「どうしてガルダーニアを破壊したの!」
 俺の代わりに声を上げたのは一番の被害者だった。アレートは俺の背中に隠れていたが身を乗り出し、感情もあらわにシンに訴えかける。
「どうしてこんなひどいことをするの、どうして私だけを生かしたの!」
「騒ぐんじゃねえ。このクソうるさい奴が」
 赤い瞳が細くなる。顔に見える闇は時間が経つにつれて深まるばかりだった。
「てめえらに話すことは何もない。俺の前から消えろ」
 隣を何かが通り過ぎたのが分かった。しかしそれは速すぎて何だったのかは分からない。
 振り返ろうとすると後方で爆発が起きた。思わず動けなくなる。
「殺してやる。殺してやる――」
 シンは片手を開いて前に出していた。その手から先程と同じものが放たれる。
 今度は横に逸れることもなくまっすぐこちらに向かってきた。俺は体を横に倒し、ぎりぎりのところでなんとか回避する。が、その反動で地面に転んでしまった。
 相手がこの隙を逃すだろうか。いやそんなはずがない。
 すぐにシンは呪文を俺に向けて放つ。しかし俺は転んでバランスを崩していたので避けられない。
 ぐっと目を閉じる。聞こえてきたのは何かが弾かれるような乾いた音だった。
 少ししてから目を開くと俺に背中を向けて立っているジェラーとリヴァの姿が前にあった。二人とも片手を前へ出し、薄い透明の壁のようなものを作っている。
 俺がそれを見てぽかんとしていると急に後ろから引っ張られた。地面に引きずられたまま後退していく。
 なんとか自力で立ち上がって自分の足で歩けるようになると、俺の服を掴んでいるのが黄色い髪の少女だということが分かった。
「ここにいちゃ駄目。逃げないと」
 少女は、アレートは俺の手を握り走りだす。隣をジェラーとリヴァが走り抜けていくのが分かった。前方ではロスリュが長いスカートのために走りにくそうに走っているのが見える。
 握られた手が痛い。アレートは思ったより力が強く、正直手を放してほしかったほどだった。
「樹、君大丈夫? 疲れてない?」
 振り返って走りながら外人は聞いてきた。しかしそう言った本人の方がひどく疲れているように見える。
「お前こそ無理すんなよ?」
「分かってるよ」
 小さな言葉のやり取り。それだけでも多くの神経を使ってしまう。なぜなら今はそんなに落ち着いていられる状況ではないから。
 どうしてこんなことになったんだろう。
 あの人は慈善家だったのに。あの人はこの上なく優しかったのに。
 違う。そうじゃない。
 これはただの俺の偏見だった。偏った見方しかできていなかったのだ、俺は。
 俺はあの人のことを信じすぎていた。あの人のことを信じて疑わなかった。
 信じることがいけないことだと言っているのではない。だけど何事にも限度というものはあるし、何より俺は何も考えずにただ信じていただけだったのだ。
 今はこの状況を受け入れなければならない。
 分かってる。分かってるけど、どうしてもそれが嫌だった。
 裏切られて絶望したわけではない。ただ、認めたくなかったんだ。
 俺が相手のことを信じていたことを認められたくて、相手の本性を俺にとって都合のいいものに変えてしまいたくて。
 だから認めたくても認められなかった。
 それはわがままなのか? それはとんでもなく愚かなことなのか? 分からない。
「止まって!」
 聞こえてきた声に反応し、反射的に足が止まる。
 はっとして顔を上げて前方を見ると、空に何かが舞っているのが見えた。
 一枚、二枚とそれは風に乗って舞う。雨に打たれてすぐに地面に落ちたが、俺にはそれが何なのかが理解できた。
 知っている。いいや、俺はこれを持っている。
 はらはらと降ってくるそれは銀色に光る鳥の羽だった。
 それを眺めていると一塊の光が見えた。光の中には鳥がいて、雨に打たれながら地面に降り立つ。同時にその銀色の体が大きくなり、俺たちの前に立ちふさがるには充分な大きさになった。
 誰かが何かをするよりも早く鳥は翼を広げる。そこからあふれたのはシンと同じような呪文の光であって。
 いいや、同じじゃない。これはシンのものより数倍大きなものだ。
 それでもそれを防いだのはシンの時と同じ方法だった。ジェラーとリヴァが前に立ち、壁のようなもので光を弾く。
 駄目だ、これじゃあ逃げられない。
「ジェラー、移動呪文はできないのか?」
「こんな状況じゃ無理」
 あっさりと答えられて落胆する。
 前方には鳥が、後方にはシンがいる。どういう訳かは知らないが両者とも俺たちを逃がしてはくれないのだ。どちらへ逃げても、もっと別の方向へ逃げてもどちらかが追って来ることは目に見えて分かっている。逃げられない。ここから動けなくなった。
 どうするか。戦って勝てるような相手じゃない。今回ばかりはどうすることもできない。
「シフォン!」
 後ろから声が響く。
「来い、シフォン」
 呼ばれていたのは鳥らしい。ばっと翼を広げて空中に浮き、元の大きさに戻って光を纏いながら後方へと舞うように飛んでいった。
 後方に目をやるとシンがいた。シンは飛んできた鳥に片手で触れ、鳥は青年の肩に音もなく静かにとまった。
 また痛い視線を感じる。
 俺は動けなくなっていた。
 突き刺さる視線が痛くて、深い憎悪が伝わってくるようで。
「何しに来やがった」
 声が飛ぶ。
「コソコソしてんじゃねえ。さっさと出てきやがれ、このクソ野郎が!」
 違う。相手は俺を見ているんじゃない。俺じゃなく、もっと遠くの何かを見ているんだ。
 それでも体の硬直は続いていた。相手は俺を見ているのではないけど視線は突き刺さったままなのだ。赤い瞳に捕らわれると動けない。俺の手を握ったままだったアレートの手がかすかに震えているのが分かる。
 雨はより激しくなり、静寂が訪れることさえ許してくれなかった。誰も何も言わず動けなかった。普段はあんなに自信過剰だったジェラーやロスリュでさえ何も言ってくれない。それほどまでに今のこの状況が危ないものになっているのであった。
 風が吹いて雨が体を打ちつける。何もかもが雨に濡れていたけど、痛さも、憎悪も、憤りさえも残ったまま洗い流してはくれなかった。
「……あまり悪い言葉を使うなよ、シン」
 雨の中から聞こえたのは俺にとって聞き覚えのある声であって。
「まさかこの国を滅ぼしたのがお前だったなんてな。その理由は聞かないでおいてやるが、俺に迷惑をかけるようなことだけはやめてくれないか」
「クソが……」
 シンの視線の先に現れたのは、青い髪の青年、スーリだった。

 

 驚くようなことじゃない。当然のことなんだ。だって俺はついさっきまでスーリと話をしていたのだから。だからあの青年がここにいても何もおかしくないわけであって。
 それでも驚きを隠せないのは二人の間で交わされる会話に親しみがこもっているからだった。
 親しみと言ってもそれは仲良しの人が持っている親しみのことではない。現に二人は相手のことを嫌っているかのように互いに睨み合っている。こんな状態で仲良しだなんて呼べるはずがない。
 もっと違う、別の意味での親しみ。俺にはそれがあるように思えたのだ。
「また邪魔をしに来たのか、スーリ」
 間に挟まれたまま二人の会話が始まる。
「邪魔だって? 邪魔をしてるのはそっちだろう、シン」
「俺はてめえの意見なんざ聞いちゃいない」
 空気が重くなるのを感じる。こんな状況になったらもう逃げ場なんてないように思えてならなかった。
「いつもいつもてめえは、俺のことを見下しやがって」
 シンは少し俯き、表情が見えなくなる。そして彼の持つ空気がさらに重々しくなったことに気づいた。
「そうだ……てめえは俺のことをただの餓鬼だと思って、俺も、あいつも、あの欠陥品野郎のことも見下して……あんなクソ野郎のことばかり崇拝して、馬鹿みたいなことを必死にやり遂げようとして。お前は知らねえのか、川崎樹、おい?」
「えっ? な、何」
 突然名前を呼ばれて面食らう。自分でも情けないほど動揺してしまった。
「知らねえのかって聞いてんだよ! この馬鹿野郎!」
 何も言えないでいると罵声を浴びた。だけどそんなこと言われたって仕方がないじゃないか。
 素直に何も知らないと言ってしまってもよかった。けど、どういうわけかそう言ってはいけないような気がしたのだ。
「シン、馬鹿な真似はやめろ」
 落ち着いた声がシンに向けられる。
「もうこれ以上お前は何もするな。もうお前は」
「うるせえっつってんだろ!」
 半ばやけになったような青年の声。俺には何の話をしているのかは分からなかったが、それがとんでもなく大事なことのような気がした。なんでだろう。
「俺に命令すんじゃねえ、俺をくだらないもんで縛るんじゃねえ、俺を道具のように使うんじゃねえ!」
「シン! まだそんなことを言っているのか!」
「黙れ!!」
 大地に響くような大きな叫び。それはあのスーリでさえ一瞬引いたほど重いものだった。俺は情けない奴のようにびくびくして何もできない。
「殺す」
 静かな、雨にかき消されそうな声。
 それでも痛々しいほどよく響く声でもあって。
「てめえも、お前らも、お前も……、全員殺してやる!!」
 それは怒りだった。
 どうしてこんなことになるのか分からない。どうして俺があの人に殺されそうになるのか分からない。どうしてあの人は俺を殺そうとするのか分からない。
 何も分からないんだ。
 相手は何もかもを知っているのに。相手は何もかもを理解しているのに。
 気づけば視界には光しかなくて。
「樹!」
 誰かが俺の名前を呼ぶ。そして誰かの手が俺の服を掴んだのが分かった。
 もう何も見えない。光しかないんだ、自分の影さえない。

 俺にはもう何もできないのですか?
 俺の命は、ここで終わるのですか?

「仕方がない。お前の……記憶を借りる」
 かなり近くから声がした。だけど辺りには光しかなくて、その声の主は影さえも見えない。だけどそれが誰なのかははっきりと分かった。
 急に額に何かが触れる。それはさっきの声の主の、スーリの手であって。そのまま押されて地面の上に倒れ――、
「え?」
 まばたきをすると俺は見たこともない場所の地面の上に寝そべっていた。
 どこかの街なのか、多くの家々に囲まれている。空には電線が張り巡らされ、それは各々の家に集められている。その光景はまるで日本のようで。
「ここ、は?」
 隣から声が聞こえる。そこにはちゃんと全員が揃っており、あの場にいた人でここにいない人はスーリとシンだけだった。
「飛ばされたみたいだね」
 冷静に判断するのはジェラーで。
「助かったんだからよかったんじゃなくて?」
 もっともな意見を言うのはロスリュだった。
 助かったのは事実だ。あんな場所でいたら助かる可能性なんて無に等しい。だから飛ばしてくれたことに感謝しなくてはならない。
 だけど、でも。
「多分、俺たちをここに飛ばしたのはスーリだと思う」
 俺は仲間にさっきあったことを話す。
「あいつが俺の傍まで来て、なんか……俺の記憶を借りるだとかなんとか言ってた」
「樹の、記憶?」
 黄色い髪の少女は首を傾げる。俺も同じように首を傾げたい気持ちだった。
 ここは一体どこなんだろう。妙に俺の世界と似ている気がするけど、まさかそんなはずはないだろう。俺の世界じゃないよな。ないよな?
「ああ、なるほど!」
 何がなるほどなのか知らないが、外人の何かが分かったような声にびくりとしてしまった。何だか分からないが嫌な予感がするのだ。ひどく嫌な、それこそ俺の最も恐れているようなことがありそうな。
「分かったよ、ここがどこなのか」
 なんだかその先を聞きたくなかった。
「ここ、樹の住んでる世界だね。間違いないよ」
 間違いなくていいです。
「よかったねぇ。これでやっと君、家に帰れるよ」
 嬉しそうに笑う顔は今の俺には嫌味のようにしか見えなくて。
「どこがいいんだよっ!」
 なんでこんなことになるんだ。
 俺だけが帰ってくるなら文句なんて一つもない。けどこんなに大勢で帰ってくるなんて一体誰が予想するだろうか? いや予想とかそういう問題でもないだろ。
 とにかく俺はこの展開が嫌だった。
 なぜならこれによって俺の平凡が完全に崩れ去ってしまうからである。

 

 

――第三幕へ続く

 

 

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