52
話は思ったより長引かず、青い髪の男が全てを理解するのは早かった。師匠は話をずっと黙って聞いていたが聞き終わると大きなため息を吐いた。
「俺が向こうから離れてる隙にそんなことがあったのか。ガーダンに、魔物ねえ」
そう言ってうなだれる。どうやら少なからずショックを受けたらしい。
「あーちょっと待っててくれ。ラザーを呼んでくるから」
師匠は片手で頭を押さえ、そのまま椅子から立ち上がった。俺の隣を通りぬけて部屋を出ていく。
残された俺たちは何もすることがなかったので俺は話でもしようかと口を開くことにした。
「なあ、アレートってガルダーニアを出たんだよな?」
黄色い髪の少女は俺の瞳を見た。
「え? そうだけど」
「なんで出ていったんだ? 城が嫌だったとか?」
アレートはひとつまばたきをする。それから首を横に振って、ゆっくりと話し始めた。
「嫌いじゃないよ。だけど私は知ったの。城に近づいている人が何か企んでいるという事を」
その場にいる誰もが少女の話に耳を傾けていた。アレートは周囲の視線を集めたまま話し続ける。
「その人の話は父さんにも、兄さんにも認められていた。だけどそれは騙されているだけ。私はそう言ったんだけど二人とも私の言葉には耳を傾けてくれなかった。だから私は城を出て、どうにかしてその企みを止める方法を探そうとしたの」
なるほど、そういうわけで城を出たんだな。でも確か俺が会ったのはオーアリアの世界だった気がしたんだけど。
「だけどその時、私が城を抜け出した時。空に異変が起こった」
少女の話には続きがあった。
少し顔を俯けて、それでもはっきりとした口調で言う。
「空に見たこともない模様が現れた。それは光を放っていた。だけど誰にも見えていなかった。私はそれが見えた。これがどういう意味かは分からない。それでも私には、確かにそれが見えた。そして気がつけば私は知らない街の広場にいた」
「それって……」
「そう。そこで私はあなたに出会った」
それだけを言うとアレートは黙った。
また分からないことが増えた。なんでこんなに分からないことばかり増えていくんだよ。俺は自分の無知を呪いたくなる。
「川君。川くーん」
いきなり扉が開いてのんきそうな声が聞こえた。あまりにも急だったのでもう少しで腰をぬかすところだった。まったく心臓に悪い。
現れたのは言うまでもないだろうが師匠だった。しかしラザーラスを呼ぶとか言ってたのに一人である。何やってんだろう。
「ごめんなぁ、なんかラザーの奴どっかに出かけちまったらしいんだ。まったくあのわがままちゃんには困ったもんだ。というわけで!」
「は、はい!?」
やはりこの人は心臓に悪い。予想もしなかったところで大声を出されて思わず答えてしまった。
「ちょっとばかし捜しに行ってくるから。まあゆっくりとくつろいでいてくれや。では!」
「あ……」
師匠は勝手に現れて勝手に出て行ってしまった。部屋に残されると虚しさがあふれてくる。
くつろげと言われてもなあ。どうしろってんだよ。
「ねえ」
「ん?」
どこか奥の方から声が聞こえた。よく考えてみるとそれは外人のものであって、本人はまだベッドの中である。
「ちょっとさぁ。この人どうにかしてくれない?」
この人? って誰のことだよ?
俺が悩んでいると布団の中からリヴァは起き上がる。ベッドに座って床に足をつけると、何やら迷惑そうに親指で後ろを指差した。
「もう師匠いないよな?」
そこからは、やや抑え気味の声がした。ほとんど聞いたことのなかった声だがそれが誰のものかはすぐに分かった。
「ラザーラス?」
俺の呟きと同時に青年、ラザーラスは姿を見せた。外人のベッドの後ろから出てきて俺の前に立つ。
赤い瞳は俺を睨んでいるように細くつり上がっていた。
「あいつは世界の秩序を守ろうだなんて言うようなお人好しなんだ。あいつの言うことはあまり気にするな。俺はあいつの強さは認めるが、生き方だけは認められない」
それは冷たい言葉。そう言った相手は腕を組み、静かに俺たちを見据えている。
「どんな理由があるかは知らないが、もう世界に関わってくるな。もうあの男を追おうなんて考えるな。分かったら帰れ」
次に飛んできたのは命令だった。何もかもを拒絶する、深く冷たい深淵(しんえん)のような声。そこから聞こえる命令は、誰にも逆らえないような響きを持っていた。
俺はその威圧感に圧されて言葉を失ってしまう。
「ま、待ってよ」
慌てて困ったような外人の声が聞こえた。床の上に立ち上がり、後ろからラザーラスに言葉をかける。
「そんな勝手な話認められないよ。まだ師匠さんとの話だって終わってないんだから」
「だったらお前は死にたいのか?」
あまりにも唐突な残酷な言葉に外人も俺と同様何も言えなくなった。いつもより大きく目を開き、何か言いたそうに口を動かすがそれだけで言葉は出てこない。
「あの男を甘く見るな。お前らは本当の絶望というものを知らないんだ。あんなに人を見下して塵みたいに扱う奴はそういるもんじゃないんだ。あんな奴が、あんな奴がいるから世界はおかしくなる」
先程よりも混乱と恐怖を含んだ声だった。そう言う姿からは深い憎しみを感じ取ってしまう。
「だけど私たちはその人を追わなければならないの。その人はきっと全てを知っているから、その人はもしかしたら、私たちの力になってくれるかもしれない、し……」
アレートは突如として予想だにしなかったことを口走っていた。それにはラザーラスだけでなく、俺や他の連中でさえ目を見張ったほどだった。
スーリが力になってくれるだなんて考えられないことだった。そりゃあ妙な穏やかさを持ってはいたけど、あいつは人を誘拐したり、街を壊したり、挙げ句の果てには人殺しにまでなるような奴なんだ。そんな奴が味方をしてくれるとは考えにくいし、第一味方になってほしくもない。そんなことはこっちから願い下げしたいほどだ。
今のこの瞬間だけは少女の考えがさっぱり理解できない。それでもアレートはその瞳に強い意志を宿していた。
「私にはどうしても、あの人が本当の悪人のようには思えない」
ざわり。
「今は悪人だけど、きっと心の中では優しい人なんじゃないかなって、思ってしまうの」
ざわり、ざわり。
「だから私は――」
切れ、る。
「黙れ!!」
膨れ上がった感情が爆発したように、ラザーラスの怒声が部屋に響いた。
少女は言葉が続かなくなる。驚きが顔に現れていた。俺だって驚きたい。でも、どうしてだろう、俺にはこうなることが分かっていたんだ。
「何も知らないくせに分かったような口を利くな! あいつの悪事でどれだけの人が狂わされたと思ってるんだ!」
真正面からの怒り。だけど俺にはどうしてそこまでこだわるのかが分からなかった。
「そうだ、あいつのせいで人がたくさん死んだ、俺の人生も殺された! あいつさえいなければ今も普通の人間でいられたはずなのに、あいつさえいなければ!」
「待って、あなたってもしかして――」
突然口を挟んだのはロスリュだった。いつもとは打って変わって落ちつきがないように見える。身を前へ乗り出し、詰め寄るようにラザーラスに聞いた。
「もしかして、ふ――」
言葉は最後まで続かなかった。なぜなら少女の首に刃物が突き出されていたからだ。そうしているのは白銀の髪の青年であって。
「それ以上言うな」
短く冷たい命令に、少女は口を閉ざした。
首に刃物を突きつけられてもロスリュは顔色一つ変えない。そればかりか相手を軽く睨みつけているようにも見える。
そのまま時間が経過していく。静寂のまま、誰も動かない。
こんな時、俺はどうしたらいいんだろうかと考える。二人の今にも始まりそうな喧嘩を止めるべきなのか、それともこのまま何かが起こるのを見ているだけがいいのか。俺には何の知識もないので迂闊(うかつ)に行動できないのだ。だからどうしていいか困ってしまう。
「……それじゃあ、あなたの口から教えて」
長い静寂を破ったのは水色の髪の少女で。
ロスリュは手を突き出された刃物にのばす。そしてためらいもなく、それを握っているラザーラスの手に触れた。
青年は一瞬だけ顔をしかめる。
「あなたはどんな職業?」
「どうして俺がそんな質問に答えなきゃならないんだ」
少女の問いに青年はすぐに反発した。
しかしそれによってロスリュのスイッチが入ってしまった。触れていた手をぎゅっと握り、相手の手を刃物ごと無理矢理下へ下ろす。小さな風が部屋の中に生じて両者の髪がふわりと浮いた。それほどまでに少女の行動が唐突で素早かったのである。
「だったらどうしてほしいって言うの? あなたは私が言うことも拒むし自分で言うことも許さない。それ以外にどうやってあなたのことを知ればいいのよ? 私たちはただ、あなたのことが知りたいと思っているだけなんだから!」
まるで痺れが切れたようにロスリュは言った。俺はロスリュのこんな姿を見たことがない。他の皆も同じなのか、呆然として誰も口出しできなかった。
「俺がお前らに自分のことを知らせる義務なんてない。勘違いするなよ、俺とお前らは他人なんだ」
唯一反発したのはラザーラスであって。だけど彼の意見は厳しいものだが正しくもあった。まだ会ってから数時間しか経っていないのに自分のことを全て教えることを拒むのは当たり前だろう。ロスリュだってそのことは分かっていると思うんだが、どういうわけか今日はいつもと様子が違っていた。
「何よそれ。私はあなたのことが知りたいだけなのよ、あなたには自分の事情を隠す理由なんてないわ。どうせばれてもどうにもならない、くだらない過去の出来事なんだから!」
「お前っ!」
完全に頭に血が上ったのか、ラザーラスは下ろされていた手を乱暴に振りほどき、そのまま刃物を再び突きつける。しかし今回は首元で止まらずに少女の白い肌を傷つけるまでに至った。
「危ない人ね。それが職業かしら?」
「黙れ!」
それでもロスリュは不敵に笑っていた。少女の傷は大したものではなく、かすった程度のものだった。だが相手の行動をいち早く察知して避けていなければ、もしかしたら死んでいたかもしれないほど危なかったのだ。
床に赤い血が落ちる。
思わず目をそらしたくなった。見ていたくなかった。力が抜けていきそうだ。
「その刃物で何人の人を傷つけたの?」
「黙れ、俺は――」
「あなたは何もかもを拒んでばかりいるのね」
冷たい声だったが、それによってラザーラスはさっと表情を変える。
怒りや憎悪に満ちた厳しいものではなく、はっとした何かを発見した時のような顔になっていた。そこからはもはや負の感情は感じられない。
「どうして」
かつん、と靴の音が響く。
それは青年が一歩前へ踏み出したから。
「どうして、いや違う、そうじゃない。そうじゃなくて……」
「覚えてなくて? 私はあなたの名前を知っているのに」
青年は顔を下へ向けた。
この二人の間でどういう話が繰り広げられているかなんて第三者の俺にはさっぱり分からない。だけど、それに口出しできないほど度胸がないわけでもなかった。
一つ息を吸って気合いを入れる。
「なあ、二人――」
「ラザー!」
……はい?
俺の気合いの一言はあまりにも簡単にかき消されてしまった。そうしたのは真後ろから現れた青い髪の男の人であって。
「こら! どこに行ったのかと思ったらちゃんと家にいるじゃないか! 俺がどれほど苦労して捜し回ってたと思ってんだこの嘘つきめ!」
いや、嘘はついてないと思うんだけど。ラザーラスは部屋の中に行っただけだったし。
しかしそんなつっこみが今の俺にできるわけがなく。師匠は涙目でラザーラスに言い寄っていた。それだけならまだいいが、なぜか片手には椅子をしっかりと握っている。
「え、ちょっ」
「問答無用!」
がんっ。
かなり響きの良い音が聞こえた。なんとも痛々しいことに、師匠は思いっきり椅子を振り上げてラザーラスの頭を殴ったのだ。殴られた青年は歯を食いしばって頭に手をやり、地面に座り込む。そうとう痛かったらしい。
「こ、この力馬鹿……っ」
それでも文句は忘れずに言っているあたりが彼らしい。いや、それもどうかと思うことは思うが。
「ごめんなぁ。またこのわがままな弟子が迷惑かけたみたいで」
「誰が弟子だっ!」
「ほんっとごめん」
見事な無視っぷりである。後ろで怒っている青年を爽やかに無視して師匠は軽く頭を下げてくれた。
「いや、迷惑だなんてそんな」
「そうね、迷惑だったわね、かなり」
またしても俺の言葉は遮られる。今度そうしたのはすました顔のロスリュだった。
そりゃあ迷惑だったかもしれないけど。だからってそんなはっきり言わなくても。俺は心の中で軽く文句を言ってやった。
「あれ、お嬢ちゃん怪我してんじゃん。どうした?」
今になって気づいたのか、師匠はロスリュの怪我を心配し始めた。少女の前でしゃがみ込んで注意深く見ている。
「……はぁん。そういうことかいラザーラス君?」
そして師匠は怪しくにやりと笑った――ように見えた。
すっと傷口に手をのばすとそこから光があふれ出す。その光が消える頃には師匠はすでに立ち上がっていた。片手には椅子を握ったまま。
「ま、待て――」
「言語道断!」
ごんっ。
さっきよりいくらか強い衝撃音が部屋中に響いた。
白銀の髪を持つ青年は、しばらく何も言えないほど必死になって痛みを堪えていたらしい。
すっかり暗くなった空には幾千もの星が輝いている。しかしそれらの星の並びは全て日本で見られるものではなかった。
「まさか俺がアメリカにいるなんて、姉貴も想像できないだろうなぁ」
それ以前に俺だって想像できないし。なんで飛行機にも乗らずに海外旅行ができるだろうか。そりゃ今してるけどさ。
結局あれから話したことはこれからのことについてだけだった。これからのこと、つまりどうやって世界の扉を開くかである。
オーアリアの時ははっきりとした原因が分かっていたためすんなりと扉は開いたけど、今回は詳しい原因が分からないのだ。分かっているのはスーリが関わっているということだけ。それだけでは原因でも何でもないのだ。だから迂闊に行動できない。
しかしそうだからといって諦めるわけにもいかないので、原因は無視して扉を開く方法だけを考えることとなった。それについては師匠もジェラーもロスリュも分からないらしく、とにかく調べるしかないらしい。
俺とリヴァは学校があるから調べられないので仕方がないらしい。他の三人はしばらく師匠の家にお世話になるそうだ。ラザーラスはかなり嫌がっていたが、文句を言うとすぐに師匠の物投げ攻撃が炸裂して渋々と承諾(しょうだく)していた。
そして今日は師匠の家で泊まらせてもらうことになったのだが。姉貴への言い訳が友達の家に泊まってくるというものなのが無性に気にくわない。
「なんでここ、アメリカなんだろ。どーせならイギリスとかドイツがよかった」
俺は一人でベランダに出てのんびりと空を眺めていた。
別にアメリカが嫌いというわけではない。ただ単にヨーロッパの国々の方が好きであるというだけだ。
「あーあ。なんで俺ってこんなにお人好しなんだろう」
呟いたら虚しくなってくる。が、後ろの部屋から聞こえてきた大きな音によってそんな虚しさなどすぐに飛んでいってしまった。
「ええい、まだやってんのかあいつらは」
これで何時間になるだろうか。師匠とラザーラスの意見の食い違いは喧嘩を巻き起こしていた。それが今もずっと続いている。とにかく周りに被害を及ぼすような喧嘩だったので俺は避難してきたのだ。他の三人はどうしたか知らないが、不憫(ふびん)なことに外人は師匠にベッドから出してもらえなかった。可哀相に。きっとあいつは今頃被害者になってるだろうな。
「しっかし賑やかだよなー、あの二人組」
どちらか一方だけならかなり静かになるのに、二人揃えばすぐにあれだ。賑やかと言うよりうるさいと言った方が適切だろうか。
そんな二人にすっかり慣れてしまった俺もどうかと思うが、あの二人は恐いところはあるけど悪い人には見えないことは紛れもない事実であった。
しかしまあ、世の中にはいろんな人がいるもんだな。ちょっと昔までは異世界の存在なんて知らずに生きていたのに、巻き込まれたらすぐにこれだよ。俺は普通の高校生だったはずなのに今ではすっかり異世界人扱いだ。なんだってそんなに俺に注目してくるんだよ。ほっといてくれりゃあいいのに。
なんて言ってるけど本当にほっとかれたら虚しいんだよな。はあ。
けどさぁ。なんつーかこう……なあ。
「疲れたなぁ」
誰もいないベランダで一人呟く。が、その直後。
「いっ……てぇ」
勢いよくベランダに飛び込んできた奴がいた。いや、飛び込んできたと言うより飛ばされてきたと言うべきか。
「ったく! なんで今日はあんなに物投げてくるんだよ! こっちの気も考えろ――って」
立ち上がった相手と目が合ってしまった。相手の動きが一瞬止まる。
「ど、どうも……ラザーラスさん」
俺は相手、ラザーラスに軽く挨拶した。この上なく気まずかったが。
「あ、あんたは確か学校の」
「そ。とりあえずクラスメイトってやつです」
そう言うとなぜか頭を下げてしまった。なんだか相手が年上のように見えてしまって仕方がないのだ。それでも相手は少しも動じずにこちらを見ている。
「あー、その。大丈夫っすか? なんか傷だらけになってますけど」
「ん?」
小さな声を出して青年は自分の体を見た。ラザーラスの体はしばらく見ないうちに傷だらけになっていた。それこそ見てるこっちが痛いほどに。
「これくらい大丈夫だ。けど、その――敬語とかさん付けとかやめてくれないか。名前も、ラザーでいい」
突然の申し出に目を丸くする。なぜなら相手の口からそんな言葉が出てくるなんて思いもしなかったからだ。
本当にいいんだろうか。いや、そりゃ自分で言うんだからいいんだろうけど。
「そういう風に堅苦しくされることが嫌になることだってあるんだ。人はそれぞれ違う事を考えているから」
ベランダの手すりに持たれかかり、青年はどこか遠くを見つめる。白銀の髪が風で揺れていた。
俺も真似をして空を見上げてみる。空は雲一つなく晴れ渡り、輝く星々がよく見えた。
「あんたはなんで向こうへ行った?」
「ラザーはなんでこっちへ来たんだ?」
わけもなく声がかぶってしまった。思わず顔を見合わせてしまう。だがそれは一瞬だけで、ラザーラスはすぐに顔を俯けてしまった。
「…………」
そして黙ってしまう。そんなことをされたら俺は困ってしまうのに。
「あの……さ」
黙っていたら身が持たないので口を開く。
「俺は元々平凡な高校生だったんだけどさ、あいつ――リヴァがいきなり家の中におしかけてきたんだよ。なんか人違いしてんのに全然気づいてなくって。それで雇い主がどうとか、上官がどうとか言ってたんだけど――」
言っているうちに虚しくなってくる。これじゃあ全ての責任があいつにあるみたいで、俺はただ逃げているだけのように思えて自分が情けない。本当は、あの時言い返せなかった俺だって悪いのに。
「俺は異世界なんて夢物語だと思ってたんだ。それなのにちゃんとあって、そこでは呪文とか、精霊とか、剣とかゲームみたいなものがいっぱいあって。そんな中でいろんなことを知って、でもそれはよく考えたら俺には全く関係ないことで。けど、でも俺は……」
それでも。
関係なくたっていいから、どうしてもまだ向こうでやりたいことがあった。
未練だとか、そういうことじゃないとは思う。今でも本当なら家に帰って寝ているだろうけど、それでもやりたいことがあるからここにいる。
「俺はやっぱりお人好しなんだよ。すぐにでも逃げ出せるのにここにいるのはきっと、守りたい人がいるからなんだ」
その人の名前は言わない。
だってそれは一人じゃないから。
隣で俯いている青年は聞いていただろうか。それは俺には分からない。
ただ黙っていてくれたことが嬉しかった。聞いてくれていなくても構わない。胸の内に抱えていたものが全て吐き出せたようで、清々しくってすっきりとした。
「ラザー?」
ふと気づけばラザーラスは空を見上げていた。赤い瞳が闇に紛れて黒く染まっている。そこからはもはや恐怖なんて感じられない。
「俺が言うことは何もない。俺は本当はまだ迷っているから」
聞こえてきたのは静かな声で。
「そっか」
当然だよな。誰だって迷う時はあるんだ。完全な人なんていないんだから。
青年の口から出る言葉は激しいものだったり厳しいものだったりするけど、こんな穏やかなものだってたくさん聞くことができると知れて嬉しい。なんだか俺のことを認めてくれたようで、傍にいると安心できた。
それっきり会話を交わすことはなかったが、俺はしばらくぼんやりと空を眺め続けていた。