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54 

 アメリカの何もない草原の中を歩くこと三十分弱。俺は外人に腕を掴まれたまま黙々と歩き続けていた。相手は何を言っても答えてくれなかったので、体力的にも精神的にもすっかりまいってしまった。
 俺って一体どうなるんだろう。こいつはスイネって奴を追いかけていると言っていた。そして俺はそのスイネの知り合いという奴に似ているらしく、相手は俺をその本人だと思い込んでいる。こっちとしてはいい迷惑なのだが、初めて相手に会った時は恐怖のあまり勘違いさせてしまった。だってあいつ、脅してきたりするんだもんよ。あれじゃあ反発なんてできないだろ。
 いやちょっと待てよ。もしかしたら今から言ったら誤解は解けるかも。もう相手なんか怖くないし、このままだとなんかやばいし。
「なあリヴァ」
 相手は答えずに黙っている。
「聞いてほしいんだけどさ」
 やはり黙って歩き続けるだけ。
「俺、お前が探してる奴じゃ」
「ぼくは何も間違ってない」
 代わりに飛んできたのは強張った言葉だった。
 思わず足を止めると、相手も合わせるかのように立ち止まる。手はまだ放してくれなかったが。
「いや間違ってないって言っても」
 実際間違ってるわけだし。
「スイネの知り合いはこの世界の日本という国にいて、田舎の町に住んでいて」
 田舎ってか。いやそりゃあ間違っちゃいないけど。
「だから俺はそのスイネって奴なんて」
「姉と二人暮らしで、よく家事をしていて、成績は普通くらいで」
「そんな奴知らないって」
「十五歳で、五月十二日生まれで、髪は黒、目は茶色を帯びた黒」
「…………」
 聞いてくれない。いや聞くまいとしているのか。
 相手は俺の言葉をかき消すかのごとく喋り続けていた。だけどそれは自分自身に言い聞かせているようにも聞こえる。
 けど仕方ないじゃないか。俺は本当に何も知らないんだから。
「おい」
 呆れているわけでもないのにため息が出てくる。
「聞いてくれよ。俺は本当に知らないんだ、スイネって奴なんて」
「そんなことない」
「そんなことあるから」
 そもそもそっちが勝手に話を進めて勘違いしただけなんだから。俺は最初はちゃんと違うって言ったんだからな。
 リヴァは納得のいかない顔をする。表情をむっと歪ませて、握っている手に力が加わっていくのがよく分かった。
「どんなに文句言われたって違うもんは違うんだ。この意見は変えられないからな」
「……世界が」
「え?」
「世界が違うからって、自分とまったく同じ人がそんなにたくさんいると考えられる?」
 何を言い出すのかと思いきや。
 相手は俺の目をまっすぐ見ていた。少し、その視線が痛い。
「まあ、自分と同じ奴がいたらびびるよな」
 これは本心。でもそう思うのが当然だろ。
 だけど。
「異世界には変なものがいっぱいあるんだろ。だったらそれを使って他人になりすますことだってできるんじゃないのか?」
「無理だ、そんなこと」
 間髪いれず反論してくる相手。はっきりと言われてしまったら俺には何も言えなくなると思ったのかもしれない。
「確かに俺は何も知らないけどさ。こっちの世界でも人ってのは何を考えてんのか分かんないものなんだよ。その上そっちの世界には呪文だの魔法だのがある。だったら、変装くらいする奴だっているんじゃないのか?」
「そんなことない!」
 まだ言うか、こいつは。よっぽど人違いをしていたことを認めたくないらしい。
「君はぼくが追いかけている人の知り合いだ」
「だから違うって言ってるだろ」
「違うことない」
 ……こいつ。
「だったら勝手にそう思ってろよ!」
 もうこれ以上こいつの勘違いに付き合うこともない。相手に対しての不満が言葉となって現れてきた。俺はそれを止められない。
「どうせお前は俺のこと手がかりだとか何とか思ってたんだろうけど、俺はそんなんじゃないんだ。けど最初にちゃんと言っただろ。勝手に勘違いしたのはお前なんだからな!」
「じゃあその言葉が本当かどうか確かめる」
「へ? あ、ちょっと」
 再び腕を引っ張られて歩き始める。もしかして俺、余計なこと言ったのか? だんだん不安になってくる。
「上官に会えば全部分かる。上官に会いさえすれば」
 引っ張られながら聞こえてきた相手の言葉には、焦りと混乱とが混じっているように聞こえてならなかった。

 

 それは一つの小屋だった。最近そんなことばかりである。
「あんだけ歩かされたのにこれかよ」
 どうせならもっと大きな建物でアメリカっぽいものがよかったのに。見るからに狭そうで、中に入る気が全く湧いてこなかった。
「本当にこんな場所にお前の上官って人がいるのか?」
「うるさい」
 相手はどうやら機嫌が悪いらしい。さっきのことをまだ引きずってるんだろうか。俺は正直どうでもいいんだけどなぁ。
 背中を押され、無理矢理小屋の中へ入れられる。
 中には一人の若い男の人が立っていた。なんだか厳しい顔をしている。
「お前が犯罪人スイネの知り合いか」
「違います」
「違うことありません。そうです上官」
 ……この野郎。
 俺の言葉は後ろからのリヴァの言葉によってかき消されてしまった。しかしそれを聞いても、相手の男の人は厳しい表情をさらに厳しくしただけだった。
 相手は若い、とは言ってもニ十代後半くらいの男の人だった。髪と目は金色をしていて見るからに外国人っぽい。リヴァのように黒い服を着ているわけではなく、何かの制服のような青い服をきちんと着込んでいた。腕を組んで静かに立っている。
「身長も体重も指紋も全て一致してます。絶対に間違いありません」
 全て一致って、いつのまにそんなことを調べたんだよ。俺は知らないぞそんなこと。
「だがスイネは別人だった。いくら全ての情報が一致しているからといってもそいつが本人だという保証はない」
 まるで睨むように男の人の視線が険しくなる。
「でも」
「忘れるな。俺たちは疑う他はないんだ。疑わないと真相は見えてこない」
「…………」
 リヴァは俯いて口を閉ざしてしまった。
 だんだん分からなくなってくる。真相だとか何だとか、こいつらの目的って一体何なんだろう。外人は自分のことを暗殺者だと言っていたけど本当にそうなんだろうか。
 俺には到底そうは思えない。もっと違う、そう、もっと正しいことをしている人のような――。
「川崎樹と言っていたな」
 突然相手、男の人に呼びかけられる。俺は慌てて首を一つ縦に振った。
「お前は本当にスイネのことを知っているのか?」
 それは一番聞きたかった言葉。
「俺は、何も知りません」
 だけど本当はあいつの口から聞きたかった言葉。
「ならばスイネのことを知らないという保証は?」
「いくらでも」
 何を聞かれても答えられるはずがない。それが、俺はスイネという奴を知らないという保証である。それしかないのはちょっと怪しいかもしれないけど。
「そんなの嘘をついたら終わりでしょ。もっとちゃんとしたものがないと認められないよ」
 横からは怒っているのか困惑しているのか分からない呟き。そう言った相手は俯いたままで表情が見えない。
「そう言うなアスラード。一番よく分かっているのはお前だろ? ……二人ともこっちへ」
 相手は背中を向ける。しかし俺の横にいる外人は動こうとはしなかった。そのおかげで俺が外人を引っ張ってやらなければならなかった。なんで俺こんなことやってるんだろう。
 リヴァの上官に連れられ、そのまま俺と外人は奥の部屋へと入っていった。

 

「自己紹介が遅れたな。俺――私の名はヤウラ・アシュレー。アスラードの上官です」
「あ、どうも」
 奥の部屋へ入るやいなや、リヴァの上官は礼儀正しく挨拶してくれた。胸に手を当てて頭を下げてくる。さっきまでの様子と全く違っていたので少し動揺してしまった。
「まあ堅苦しいのはこれだけにさせてもらう。アスラードの知り合いとなれば話は別だ。……適当に座ってくれ」
 また元のような態度に戻った。礼儀正しいのは挨拶だけかよ。そんなことを考えつつも俺は言われたとおり適当に椅子を見つけてそれに座った。外人も同じように俺の隣に座る。
「さて」
 俺が座った真正面には一組の机と椅子があった。リヴァの上官はそれに座り、俺たちと向き合う形になる。
 どこから出してきたのか、相手は机の上にノートを広げる。手にはペンを持ち、なんだか勉強でも始めそうな姿勢だった。
「異世界へ行っていたそうだな。何か不穏な動きはあったか?」
 そのままリヴァの上官はこちらに質問を投げてきた。だけどそれは俺に向けられているものじゃない。向けられているのは外人だ。
「…………」
 リヴァは答えない。顔を下に俯けたまま微動だにしなかった。
「オーアリアの扉が開いたことについては?」
「…………」
「スイベラルグのガーダンの件やガルダーニアについては?」
「…………」
「アスラード」
「…………」
「アスラード! 聞いているのか!」
 怒ったような強い言葉が飛ぶ。それでもリヴァは何も口に出さなかった。こんなこと初めてだ。そんなに勘違いしていたことが後ろめたいんだろうか。
 違う。
 違う、そうじゃない。こいつの性格からしてそんなことで落ち込むなんて考えられない。だったら。
「……っ!」
 ぽたり。
 床に落ちるのは一つの雫。
 俯いたままリヴァは動かない。いや、かすかに震えているのか。
 再び雫が床に落ちる。
 膝の上に置かれた手は強く握られている。それはまるで何かに堪えているかのように。
 それでもまた雫は――涙は落ちる。
 俺はどう声をかけていいか分からずに相手の姿を見ることしかできなかった。相手は、リヴァは何も言わずに静かに座っている。
「アスラード」
 耳に入るのはリヴァの上官の声。気づけば、彼は俺たちの前に立っていた。そしてリヴァの前でしゃがみ込む。
「どうした?」
「……上、官」
 俯いたままリヴァは上官の服を掴んだ。そして引き寄せるようにして相手の胸に顔をうずめる。
「怖い」
 漏れてくるのは小さな声。
「どうか嫌わないで。いらない部下だって思わないで」
 顔は見えない。涙も見えない。
 それでも相手の哀しみは充分伝わってくるようで怖い。
「上官、ぼくのこと、嫌いになった?」
 リヴァの上官は少し目を大きくし、すぐに元の厳しい表情に戻る。
 ふわりと。
 頭をなでながら。
「あいにく俺はお前を手放すことはできないからな。お前が他の奴の部下になったらろくなことがない。だから俺はお前を嫌いにはなれないんだ」
 それがどういう意味なのかは分からない。
「うん……」
 それでもリヴァの口から出たのはそんな言葉だった。
 しばらく沈黙が流れる。
 俺はすっかり場違いな場所にいるような気がしたが、部屋から出て行こうとまでは思わなかった。誰も俺の存在を邪魔だと言ってこないんだし、俺もここにいたかったから。
 そう、俺はまだここに存在していていいから。
 ……あれ?
 自分で何を考えているのか分からなくなった。なんで俺ってこんなこと考えてるんだ?
『決められた道の上しか――』
 何が。
『自分の帰るべき場所もないし、生きている意味も――』
 何が悪くて。
『目的を話してもお前なんかには――』
 何が良くて。
『殺す』
「……なん、で」
 蘇ってくるのは、あの人の言葉ばかり。
 あの人。俺の名前を褒めてくれた人。俺を騙していた人。
 なんで今更になって思い出すんだ。それはもう終わったことであるはずなのに。
『――欠陥品野郎』
 頭にこびりついていて離れない。幾度となく響く、深く冷たい言葉。
 終わったこと?
『邪魔――』
 終わってない。
『騙される方が悪いんだよ!』
 あの人は何かを深く望んでいた。
 あの人は知識も力も持っていた。人からの信頼も持っていた。
 それでもあの人は叫んでいた。そして壊していた。
『はじめまして』
 はじめまして? そうじゃないだろ。
 相手は俺のことを知っていた。あの人は俺のことを知っていたんだ。
 あふれてくるのは熱いものばかり。怒り、驚き、戸惑い、混乱、哀しみ。
 それらが混ざり合っても作られないもの。俺はそれを知っているはずなのに、どうしてだろう、顔を合わせるとその名前が思い出せなくなる。
 会うたびに感じる不可解な感触。
 俺はまだそれを感じなければならないのだろうか。
 まだ、俺は――。
「樹?」
 聞こえてきた声は俺の頭を素通りしていくだけで。
 体中に力が入らなくなり、俺はそのまま意識を失った。

 

 目が覚めると視界がぼんやりして何も見えなかった。ただ明るい光が見える。それだけだ。
 どこだろう。家の中だとは分かるけど。
「お、気がついたか」
 起き上がると声をかけられた。俺にはそれが誰のものなのか容易に理解できる。
「師匠」
「そ。アス君が連れてきてくれたんだぞ。けどここは俺の家じゃないからな」
 青い髪の男の人、師匠は気の抜けそうな表情で言う。他には誰の姿も見えない。
「ああ、ここ、俺の家か」
 部屋の中を見ればすぐに分かった。当然だ、自分の家なんだから。
 でもなんでこの人が俺の家にいるんだ? わけが分からない。
「ずいぶんと疲れてるようだからしっかり休んでおくこと。これからは無茶はしない、疲れたら休憩すること。君は普通の人なんだからな」
「え? えっと」
「これ、大人として言うべきこと」
 相手の妙な空気についていけない。でもそれでも、いくらか気分は落ち着いていった。
「あの」
「言っとくがお前をここまで運んだのはアス君じゃないからな。アス君はお前を俺の家まで担いできて、それで俺がここへ呪文で移動した。だから安心しとけや」
 まだ何も聞いてないのに。
 まあいいか。
「じゃあ、あいつ――リヴァは?」
 ここには姿がない。あの後どうなったのか分からないが、妙に心配だったので聞いてみた。
「下で準備してるさ」
 準備? 準備って、何の……。
「夕食の準備だとさ」
 そう言って師匠はにっと笑った。
 だけど俺はそれだけで充分安心することができた。

 

 あの人の名前はシン。
 彼は、偽善者だった。

 

 いつのまにか夜になっていた。あれから記憶がないということは俺は眠ってしまったらしい。壁に掛けられている時計を見ると針は十一時半を指していた。すっかり夜更けだ。
 それなのに一度目が覚めると頭が冴え、もう眠れそうになかった。やばい。
 とか何とか考えながらも体を起こしてベッドの上に座る。辺りは静かで、俺が動くたびに音が響いて意味もなくどきりとした。
 誰もいない。
 当たり前だ、ここは俺の部屋なんだから。
 思い出すのは初めてあいつに会った時のこと。
 あの時も今と同じように夜更けで、部屋には誰もいなくて、辺りは静まり返っていて。
 がたん、と何かの音が間近で聞こえた。そうそう、あの時もこんな感じで……って、え?
 音が聞こえた方向に目をやると、部屋の窓が開いてカーテンが風になびいている。そして窓の前に立っているのは黒い影。
 やばい。これ、不法侵入だ。
 相手は一言で言えば『黒』。だけど顔は見える。暗くてよく見えないが、多分髪の色は赤。性別は男らしい。まだ若くて、俺と同い年くらいに見える。
「……お前、ヴェインか?」
 そしてまた相手側は勘違いしていた。
「お前の気配がするから来てみたが正解だったな。ちょうどよかった、追いかけられてたんだ。かくまってくれ」
 勝手に話を進めていく。これもあいつの時と同じだ。
 だけど。
「待てよ。俺はあんたなんか知らない。あんた誰なんだ?」
 今は違うんだ。俺はもう相手に対する恐怖は持っていない。怖いからといって何もかもから目をそらしてはいけない。目の前にある現実をちゃんと見なければならないんだ。
 部屋の中で立っていた相手は一瞬目を丸くした。俺からそんな言葉を聞くとは思っていなかったのか、それとも。
「おいおい、どんな冗談言ってるんだよ。俺のこと忘れたのか? スイネだスイネ。ずっと一緒に行動してたスイネだ」
 相手の口から出てきた言葉に軽く驚く。それでもあまり動揺しなかったのは薄々気づいていたから。
「なに、大丈夫さ。今晩泊めてくれたらすぐ出ていく。お前はもう俺に関わりたくなかったんだよな? ヴェイン」
 そう言いながら床に座り込む。相手は俺のことをヴェインって奴だと思っているらしい。
 こいつがスイネ。こいつが、あいつの捜していた人物。
 一つ息を長く吐く。ここで余計なことを言ったら終わりだ。もう二度と勘違いされて悲しませたくはないから。
「俺はヴェインって奴もあんたのことも知らない。あんたの知ってる奴じゃない。俺は何も知らないから。だから、人違いだ」
 相手は驚いたように目を大きくした。だがそれだけで帰ろうとする素振りは微塵も見られない。
 そればかりか手をのばして俺の額に触れてきた。いきなりだったので避けることもできずにされるがままになる。
「熱でもあるかと思ったけど、そうでもないなぁ。……あ、なるほど奴らの目を警戒してるのか。だったら心配いらないぜ、ちゃんと追い払ってきたから」
「そんな理由でもない。俺は本当に知らないんだ」
「はいはい分かったから。けどもう眠いから眠らせてもらうぜ。おやすみな」
 また相手は勝手に話を進める。俺の言葉は完全に冗談だと受け取られ、相手――スイネは警戒もせずに床の上に寝転んだ。そして目を閉じ、静かになる。
 こいつ本当に眠ったのか。なんて無防備な。それだけ俺はヴェインって奴に似てるのか。リヴァも勘違いしてたし、一度くらい会ってみたいような気もした。
 俺はもう一度相手の顔をよく見てから、足音を忍ばせてそっと部屋を出ていった。

 

 

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