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55 

 夜の廊下は闇そのものだ。暗くて光がなくて、何も視界に入ってこない。そんな闇の中を進んでいくには多少の勇気が必要だった。
 冷たい廊下の床を踏みしめながら一歩、二歩とあいつの部屋へと進んでいく。俺の部屋からそんなに離れてないので目的の場所にはすぐに着いた。
 そっと扉を開ける。部屋の中は暗く、何も見えない。
「リヴァ」
 やや抑え気味の声で相手を呼んだ。相手、リヴァはすぐに闇の中から現れる。
「樹! 目が覚めたの? どうしたのこんな夜中に?」
 相手の声は俺から恐怖を打ち消してくれた。少しだけほっとして、外人の腕を服ごと掴む。
「あの、さ。ちょっと俺の部屋まで来てくれ。……静かにな」
「何かあったの?」
「いーから早く」
 引っ張り出すように外人を廊下に連れ出す。
 俺はやはり闇が苦手だった。真っ暗だと前が見えなくて、誰の姿も何の影も見えなくて、自分が独りぼっちでいるようで怖くなってくるんだ。だから常に誰かの傍にいたいだとか誰にも嫌われたくないだとか思ってしまうんだ。
 分かってる。そんなことはとっくに分かってるんだけど、それでもこの恐怖だけはどうしても克服できなかった。
 相手の服を握ったまま闇を歩く。
 それだけでひどく安心できたことがただ嬉しかった。

 

 部屋に入るといきなりあいつの様子が変わった。当然だ、だって今まで捜していた人物が目の前にいるのだから。
「そんな、なんで」
 相手は一歩前へ進む。
 しかしそれに感づいたのか、眠っていた赤い髪の青年は目を開けて起き上がった。床の上に立ち、警戒でもしているように構えの格好をする。
 雑音が止むと静寂が訪れた。リヴァもスイネも黙って何も言わない。
「ヴェイン、そいつが誰だか分かってるのか」
 先に口を開いたのはスイネの方だった。向けられた先には俺がいる。まだ勘違いしているのだろうか。
「お前、が、スイネ」
 ゆっくりとした言葉が響いた。それは外人の、リヴァの言葉。俺の横に並ぶようにして少しだけ後退した。
「まだ追いかけてたのかあんた。せっかく逃げてきたのに、これじゃ意味なかったな」
 犯罪者は悠長に構えている。しかしそれだけではないところが捕まらない原因だろう。相手は喋りながら、気づかれないように俺の部屋の家具に手を触れていた。
「俺なんかよりももっと狙わなければならない相手がいるはずだろ? ずいぶん昔にあった組織のはしくれが、また動きだしたって話だしさぁ」
「それ以上何も言うな。それ以上何も触るな」
 軽い言葉を重い言葉が制する。相手はそれを聞いてどういうわけかすぐに動作を止めた。
 だけど。
 ふっと俺の首に何かが触れるのが分かった。
 それはやがて服を掴み、首筋には何度か見た光の煌めきが輝き。
「動くな。動いたらこいつの首を落とす」
 俺はリヴァに後ろから刃物で脅され、人質のようにされていた。
 なんで、どうして。
 いや、本当は分かっていたのかもしれない。あいつは完全に俺のことを信用していなかったということを。
 だけどそんなに俺の言葉は信じられないのか?
 俺の言葉ってそんなに軽いものなのか?
「そこから一歩も動くな」
 近くから重く緊張した声が聞こえる。相手は言われたとおり一歩も動かずに、ただ肩をすくめてみせただけだった。
「そこで武器を床に捨てろ」
「そんなことしたって意味ないと思うけど?」
「いいから捨てろ!」
 怒鳴りつけるように怒声が飛ぶ。俺はそれを黙って聞いていたが、穏やかな心情でいられるわけがなかった。
 諦めたのか、スイネはどこからか刃物を取り出す。それをしばらく眺めてから捨てるように床の上に投げた。刃物は床に突き刺さり、小さな傷を作って静かになる。
 それに続いて同じような動作を繰り返していく。刃物はあらゆる場所から出てきて限りがないように思えた。そしてそれは確実に俺の家に傷を作っていく。
 俺はぼんやりとそれを眺めていた。心配なことといえば、家に傷が作られすぎて壊れないかと不安になることだけだった。どうしてだろう、その他には何も考えられない。
 それは知り合いが身近にいて安心し切っているからなのか。それとも俺は心の底から物事を見極めようとしていないからなのか。分からない。
 分からない。考えても考えても何も出てこなくて、俺の思考の大部分は余計なことばかりに捉われているままだ。目の前では確実に刃物の数が増えていく。そして傷の数も増えていく。だけど何も感じられないのはどういうことなのか。
 いや、もしかしたら。
「これで全部。これ以上出せと言われても無理だからな」
 軽いようで重いような声に一度考えを中断させられる。はっとして前方を見てみると、そこには刃物の山に囲まれた赤い髪の青年が立っていた。それでもまだ顔から笑みは消えない。
「本当にそれだけなんだな? 騙そうっていうなら容赦しない」
「はっ、騙そうだなんて――」
 二人の会話は俺と幼なじみの薫のものと似ている。一方は怒ったようで、もう一方は軽くあしらうようで。
 犯罪者はまだ不適に微笑んでいた。それが不思議に思えてきて、俺は彼の顔をまじまじと見てみる。だってこんな状況に立たされてまで笑えるなんておかしいじゃないか。
 ちょうどその時。
 犯罪者の後ろにある窓の外で何か黒いものが横切るのが見えた。
 それには思わず目を丸くする。ここは何階だと思ってるんだよ。ぼろの家だけどとりあえず二階なんだぞ。二階の窓の外を何かが横切るなんておかしいじゃないか。なんだかさっきからおかしいことばかりだ、くそ。
「言ったはずだよな。俺なんかにばかり目を取られていると他に捕まえるべき人を見失う、と」
 スイネは言う。顔は笑っているけれども、声には感情を含まずに。
「どういうこと――」
「こういうことさ!」
 二人の声が重なった。かと思えば急に隣を何かが通りすぎていく。早すぎて何なのか分からなかったが、俺は思いっきり誰かに腕を引っ張られた。
「来い、ヴェイン」
 引っ張っているのはスイネなのか。後ろを振り返ると外人は刃物を握ったまま誰かと向き合っている。その相手はスイネと同様黒い服を着ている人で、背中を向けていたので顔は見えなかった。
「ま、待てよ!」
 慌ててスイネの手を振りほどく。声を出したおかげでやっと思考が安定してきた気がした。
「話は後だ。とにかく逃げるぞ!」
「え? ちょっ」
 うるさい騒音が響く。そして次に聞こえたのは粉々になったものが床に落ちて立てる音。
 スイネは窓ガラスを割ってそのまま窓から外へ出た。もちろん俺を道連れにして。
 なんてこった。これじゃ俺のせいみたいじゃないか。窓ガラスって結構高いんだぞ? 貧乏人にはかなり痛いんだ、どうしてくれるんだよ。
 って今はそんなことを考えている場合ではなかった。
 地面にはすぐに着地した。スイネはきれいに着地していたが俺は見事に不時着してしまった。道で転んだように伏せてしまい、立ち上がる気力もなくなってきた。
「おい、何やってんだよヴェイン」
 相手は引っ張って無理矢理起こしてきた。
 同時に後ろに何かが落ちたような音がした。振り返るとそこにはさっき見えた黒い服の人と外人がいた。両者ともまだ睨み合っている。
「一旦引こう」
 短く命令を下したのはスイネ。
 その言葉を聞くと黒い服の人はこちらへ向かってきた。しかし俺が顔を見る暇もなく引っ張られる。そのまま角を曲がって狭い道に入った。
「あー、ちょっと休憩な」
 道のど真ん中でスイネは座り込んだ。近くの壁に寄りかかって長く息を吐く。その時になってやっと手を放してくれた。
 壁にもたれて座り込んだスイネの傍には黒い服の人がいた。頭から帽子を被っているので髪も見えない。顔を見てみても、大きな丸い黒い眼鏡をかけていてろくに顔が見えなかった。
「ああ、こいつか? 気にしなくてもいい、ただの知り合いだからな。さっき言ってたろ、ある組織のはしくれってな」
 俺の視線が気になったのか、スイネはすかさず口を挟んできた。黒い服の人はそれでも何も言わずに黙っている。
「組織の……はしくれ」
「そ」
 なんとなく気になった。誰にともなく呟いた言葉にも短い返事が返ってくる。
「それにしてもお前がいると楽だな、デス。相手から見えないようにしてくれてるんだろ?」
 スイネはよく喋った。今度は対象を俺から黒い服の人へと移して話しかけている。
 だが話しかけられた相手は沈黙を破らずに、ただ一つ頷いてみせただけだった。
 デスっていうのがこの人の名前なんだろうか。
「あいつは?」
 静かな言葉が控えめに響く。その言葉を発したのは黒い服の人だった。腕を組んで、スイネを見下ろしている。
「あいつって……あぁ、さっきの追いかけてきてた奴のことか。あいつはお前のことを追いかけてた奴の部下らしいけどな」
「部下? あいつに部下なんかいたのか」
「いや、前からいたらしいけど。けどさっきの奴は古くからの部下ではないらしくてさ。なんだっけ、拾われたとか保護者だとか……悪い、忘れたわ」
「…………」
 そこで会話が途切れる。二人とも黙ってしまい、再び静寂が訪れた。
 俺にどうしろっていうんだ。
 こんな状況に立たされて、どんな選択をすればいいんだよ。
「俺はもうやめる」
「――は?」
 唐突に会話が再開される。俺にはついていけないような、わけの分からない会話が。
「だから、もうやめると言ってるんだ」
「何を言い出してんだよデス。これからだっていうのに」
「もうそういう次元の問題じゃないんだ」
 黒い服の人は頭に被った帽子に手で触れる。その動作はまるで悩んで頭を抱えているようにも見えて。
「本当は俺はこうしていたいけど、それはただ逃げてるだけなんだ」
「おい、何の話だよデス?」
「迷ってるんだ、きっと」
 相手はそっと帽子を取る。闇の中では見えた髪の色も判別不可能で。
「だから、聞いてみたいんだけど」
 次に相手は眼鏡を取る。瞳の中に映っているのは、ぼんやりとした俺の顔。
「あ……」
 相手の目を見てやっと分かった。
 俺は、この人を知っていた。

 

「そう、だったんだ」
 全てを話し終えると黒い服の人はまた頭に帽子を被り、眼鏡で顔を隠した。
 俺は眼鏡で隠された瞳もまっすぐ見ることができない。なぜなら相手が話していることの数々は、理解できそうでさっぱり分からないことばかりだったから。いや、もしかしたら理解できるものなのかもしれない。けど俺がそうしないのは相手の言っていることに矛盾を感じたからだった。
「だからこうやって顔を隠してるんだ」
 静かな言葉が飛ぶ。
「誰かに見つかりはしないかと、心配で心配でたまらないから」
 そこに含まれているのは怒気なのか。
 しばらく時間が流れる。同じように、誰かが近づいてくる足音も聞こえた。
 それでも誰も逃げようとはしない。逃げようものなら俺が止める。俺が絶対に止めてやるから。
「俺はどうすればいい」
「あんたは罪を償うんだ」
「どうやって?」
「俺に聞くなよ!」
 相手に少し苛立ちすら覚えてしまう。黒い服の人はそれっきり黙り込み、口を閉じてしまった。
 いつも聞いていた足音も今は重々しく聞こえてならない。怖いわけじゃない。不安なわけでもない。ただ、まだ決断ができていないだけなんだ。
「樹」
 俺の名前を呼ぶ人がいる。だけどその声は、いつもの声色をしていることはなかった。
「樹」
 気がつけば相手は目の前にいて。
「ぼくは君を許さない」
 飛んでくるのは否定的な言葉。
 相手は、リヴァはそのまま呪文を唱えた。
 すぐに黒い服の人は壁を作る。呪文は壁に弾かれて消え去るが、休む暇もなく相手から刃物が飛んできた。しかしそれらが俺に届くことはなく、黒い服の人は刃物を全て地面に落としていた。
 どうすればいいんだろう。突然頭の中で思考が開始される。
 俺は外人にも黒い服の人にも怪我をしてほしくないし、互いに見つかってほしくなかった。だけどだからといってどちらかの味方になることはできない。だってそうしたら不公平じゃないか。一方に味方をすれば一方を敵に回すことになる。俺はそれは嫌なんだ。綺麗事しか言えないけど、お人好しだとか甘いとか言われるかもしれないけど、結局最後には人って誰かに好かれたいと思うものだろ?
「邪魔をしないで」
「だけど他にどうしろと言うんだ? こうするしか方法がないから、俺は、俺は……」
 両者ともそれぞれの思いが外に漏れたのか、俺の耳に二つの言葉が入ってきた。
 二人とも大切だと思っている自分。それってただのわがままなのか?
 その時状況に動きが見えた。今まで止まっていた時が一気に動きだしたような、はっきりとした空気の変化。それが見えた気がしたのだ。
 動きとは、リヴァが呪文を唱え始めたのだ。
 一見しただけでは何も変わりないように思えるかもしれない。現にあいつはさっきも呪文を使っていた。それなら何もおかしくなんかないと思うだろうけど、そう思えないのは最大にまで引き上げられたあいつの魔力があったからだ。
 魔力なんて見ただけでは分からない。だけど呪文を使うときには必ず足元に魔法陣が現れ、その魔法陣の輝きが増すほど魔力は高くなるらしいのだ。
 今のその輝きは一度も見たことのない強い輝きだった。
 思考が正常になるのにそんなに時間はかからなかった。
「――待てよ、お前らっ!」
 無意識のうちに体が動いていて。二人の間に割って入ってしまう。
「こんな場所で呪文なんか使ったらどうなるか分かってるのかよ! リヴァ!」
 俺の呼びかけに外人ははっとした顔をつくる。同時に詠唱の言葉も止まり、完全に動作を停止させた。
「迷ってるから何をしてもいいってわけじゃない、正しい判断をしなきゃならないだろ! ラザー!」
 名前を呼んだせいか、黒い服の人――ラザーラスは頭を帽子ごと押さえて二、三歩後退した。それから静かになって本当の静寂が訪れる。
 黒い服の人はラザーラス・デスターニスという名前の青年だった。俺の知り合いの、年上のようにも見える異世界の住民。それが彼。
 以前言っていた迷っているということ。それはこのことを指していたんだ。
 このこと――つまり、犯罪から足を洗えないということを。

 

『俺はまだ迷ってるんだ』
 それはほんの数分前の言葉。
『いつになっても未練があって』
 それはささいな告白の言葉。
『心の中では分かってるんだ、こんなことやっていいことじゃないということは。だけど俺はこうしていなければ、自分が自分でいられなくなりそうで怖いんだ』
 帽子を手に持って、眼鏡を外して顔を見せて。
『これは昔から変わらないから』
 まっすぐこちらを見てくる視線が痛かった。
 黒い服の人、ラザーラスは俺に話してきた。彼は昔から犯罪人であり続けていたということを。そして今は犯罪から足を洗ったつもりだったが、師匠の目の届かない所ではまだ罪を重ねているということを。
『分かってるんならやめろよ』
 俺は相手に言うべき言葉が見つからなかった。
『今のうちにやめてしまって、落ちついてから師匠に全部話せばいいと思う』
 だからありふれたアドバイスを送ることしかできない。
『だけどそんなにすぐにやめられるわけないじゃないか。過去に何度もそうやってやめようと思っていたのに、結局今日まで続けてきてしまった。簡単に言ってくれるけどお前が思っているほど単純なものじゃないんだ』
 最後には強い怒気を含んだ言葉しか聞こえなくて。
 俺は勘違いしてたわけじゃない。相手は最初から迷ってると言っていたんだ。それはすなわち、まだ気持ちがぐらついているということであって。
『間違わないでくれ。俺はただ、誰にも迷惑をかけたくないだけなんだ』
 矛盾を感じたのはそこだった。
 誰にも迷惑をかけたくないならこんなことしないはずだろ。さっさと覚悟を決めて早いうちに犯罪から足を洗って、大切に思ってくれている人に全てを話して。それができないうちは迷惑をかけているということなんじゃないのか?
 それでも妙に納得できるところもあった。迷惑をかけたくないから一番身近にいる人に話さずに、ちょっと知り合っただけの俺に全てを話す。それは選択としてはいい結果を招いたんじゃないかとも思えた。それによって何かが変わるわけではないけど、誰かに話を聞いてもらえるだけでも気持ちが軽くなることだってあるはずだから。
 きっとラザーはいい人なんだ。
 俺なんかより遥かにお人好しで、あの人なんかとは違って本当の善人で。
 それを知ってしまったからこそ俺はどうしていいか分からなくなってしまった。
 外人も、ラザーも、他にもたくさん大切だと思える人がいて。
 全員に嫌われたくない、全員を敵に回したくないと思ってしまって。
 誰ものいいところと悪いところを知っているから余計に親近感が湧いてしまって。
 どうにかして事が丸く収まるように祈っていた。何事も起こらないで、今までと同じように生活できるようにと。
 だけどそれはもう無理な願いであったことは言うまでもないだろう。

 

 

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