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56 

 恐れることは必ずと言っていいほど的中するものである。今回もまたそうだった。
 一番恐れていること。それはすなわち、誰かに見つかるということだった。
「ラザー、逃げろ」
 まだ誰の姿も見えていない頃。俺は無意識のうちに黒い服の人、ラザーラスを後ろにかばってそう呟いていた。暗い闇の中から確かに足音を聞いた気がしたのだ。
「樹、そこをどいて」
 飛んでくるのは言葉と刃物と。呪文が飛んでこないだけましだった。外人は落ちついてはいたが、ラザーやスイネのことを見逃すとは思えなかった。
 俺、何やってるんだろ。これじゃあ犯罪に手を貸しているみたいだ。つまり俺も同罪ってことだよな。このまま二人を逃がしたら駄目なんだろうか。
「ラザー、早く」
 そうと分かっているのに出てくるのはそんな言葉ばかり。
「だけどこのまま逃げてもきっと追いつかれる。あいつをなめたらとんでもないことになるんだぞ。だったら逃げるよりも」
「じゃあちゃんと言えるのかよ、自分が今までやっていたことを師匠に!」
 思わず大きい声を出してしまって慌てて口をふさぐ。だけどそんなことをしても無駄だということも分かっていた。
「……俺は嫌なんだよ」
 出てくるのは弱い言葉ばかり。
「俺の周りから平凡がなくなっていくみたいで嫌なんだ」
 それは一人だけのわがまま。それは自分に対するただの甘え。
 分かってる。
「いいや、分かってない」
 呟いてから顔を上げたら、そこには俺をまっすぐ見ている青年がいる。彼の赤い瞳は今は闇のために黒く染まっている。
「もう少しだけ強くなってくれ、ラザー。そしたら俺も、頑張れるから」
 相手は何も言わない。認めてくれたんだろうか。
 俺ってなんて馬鹿なんだ。
 まるで自分のことしか頭になくて、自分勝手で卑怯な人で。これじゃあリヴァの言う大人みたいだ。
 大人を非難してるわけじゃない。大人は尊敬しているし、何より守ってもらっているから文句なんて言えない。でもあいつの言うことも分かるような気がしたから。
 誰にも嫌われたくない。誰かに傍にいてほしい。ずっと平凡に暮らしていたい。何も変わらないでいい生活を送りたい。
 それはただのわがままだ。
 それはただの一人よがりの幸せだ。
 いつから俺はこんな風になってしまったんだろう。いや、それはただ単にこんなことを考える時間が今までになかっただけだ。つまり俺はずっとこんな人間だったということなんだ。
 あいつが俺を信用しなかった理由。
 なんとなく分かったような気がした。
「まったく、何の騒ぎかと思ったら……」
 ふっと頭をよぎったのは聞き慣れた声。
「こんな夜中に一体何をやらかそうとしてるんだ?」
 赤い髪の青年の後ろには、腕を組んで立っている師匠の姿があった。
 さっと皆の視線が師匠に集まる。スイネはすぐに身を翻(ひるがえ)して俺の隣に立った。
 師匠はゆっくり歩いて近づいてくる。俺とラザーとスイネは師匠とリヴァに挟まれたような位置にいた。
「師匠さん、そいつらを捕まえてください」
 交渉を始めたのは外人で。
「話は捕まえてからってわけか? ……川君も?」
 すぐに師匠は答えていた。
 今の言葉から俺はまだ師匠に信頼されているらしい。だけどラザーはどうなんだ。もう弟子でも何でもないと言っているのだろうか。
「そいつはやっぱりスイネを知っていたんです。ぼくの考えは外れてなかったんです」
 ここまできたら逆に尊敬してしまいそうだ。あれだけ否定していたのにまだ自分の意見を信じ続けているなんて。
「だそうだ、川君。そういうわけだから暴れないでくれな」
 にこりと人がよさそうに笑う。
 そんなことを言われたら抗う気にもなれなくて。
「分かったよ。逃げたりもしないし、逃がしたりもしないから」
 いつのまに俺は犯罪者の仲間になったんだ。
 黒い服の人も赤い髪の青年も諦めたのか、逃げ出そうともせずに何も言わずに立っているだけだった。それを確認してから師匠と外人は近寄ってくる。
「川君。ごめんな、また迷惑かけて」
「え?」
 すれ違いざまに聞こえた師匠の言葉。
 振り返ろうとしたらリヴァがスイネの腕を握っている姿が見えた。腕を縄で縛って、逃げ出せないように手を放さないようにしていて。
 ぼんやりとそれを眺めていたら急に後ろから大きな音が響いてきた。
 慌てて振り返る。そこに見えたのは――。
「馬鹿野郎!」
 再びばしり、と叩く音が静寂を破った。
 白銀の髪が暗闇の中で煌めく。帽子も眼鏡も取って素顔を見せているラザーラスは、師匠から怒りを受けて顔を押さえていた。そのまま少し後退し、顔を下に俯ける。
「馬鹿野郎だ、本当に」
 つかつかと師匠は歩み寄る。そしてがっとラザーの肩を掴み、思いっきり顔を近づけて呟くように怒鳴った。
「なぜ俺に話さなかった! そんなに信用できないか俺は! お前を見捨てるとでも思ったのか! 馬鹿野郎が!」
 ラザーは答えない。それでも師匠の手を振りほどくこともしない。
「……あんまりさぁ、深く考えすぎるなよな、ラザー」
 ふっと穏やかになる。師匠は一つラザーの頭を優しく叩くと、少しもしないうちに手を放した。
「さ、もう帰ろう」

 

 翌日になる前に全ての事が片づいてしまった。
 あれから俺は師匠の家に行き、そこでリヴァが上官を呼ぶ姿を眺めていた。外人は携帯を使って呼んでいたが、その声にいつものような張りがなかったことは言うまでもないだろう。
 リヴァの上官は呼ばれたらすぐに来た。俺や師匠には目もくれずにまっすぐスイネの元へ向かっていた。ただラザーを見た時に一瞬だけ足を止めたように見えたが。
「犯罪人スイネ・イラーザイク。長い間の罪をさっさと償いに行くんだな。ほら、早く行け!」
 そう言いながら蹴りをかます。
 言っちゃ悪いがリヴァの上官は口が悪い。おまけに捜してた相手に対する態度も悪かった。
「ちっ、運がなかったかな」
 スイネはスイネですっかり諦めているようだった。さすがにここまで来て逃げ出すことは無理か。
「川崎樹君。君のおかげでこいつを無事に捕まえることができました」
 そして急に真面目そうに礼儀正しく言葉を述べるリヴァの上官。俺の前に立って姿勢を正し、きびきびした動作で一つ深々と礼をしてきた。
「アスラードを含む我々警察一同、皆あなたに感謝しております」
「いや、感謝だなんてそんな――」
 ……ちょっと待て。
「あの、今、なんて言いました?」
「我々警察一同、皆あなたに感謝しております……だが?」
 えーと。
 俺の記憶が正しければ。
「リヴァの奴は自分のことを暗殺者だと言ってましたが」
 暗殺者と警察。えらい違いじゃないかそれって。本当はどっちなんだよ。
 リヴァの上官はそれを聞いて額に手をやり、はあと一つため息を吐いた。それから呆れたように話し始める。
「アスラードはただの警察の特別官、つまり死刑執行人なんだ。あれでも一応警察だ。よく言うんだよあいつ、暗殺者だとか殺し屋だとか」
「そ、そうなんすか」
 ってことはリヴァって警察だったのか。そりゃあまあ、なんつーか。
 あれ? そういえばもうスイネは捕まったんだよな。ということはあいつは俺の傍にいることもやめるんだろうか。
 よく考えたらそうだよな。あいつは最初から俺をスイネの知り合いだと勘違いしていた。そうでなかったら俺は異世界になんか行かなかっただろうし、こんな事件に巻き込まれることもなく今頃平凡な生活を送っていたはずなんだから。
「あの、リヴァの上官さん。あいつはこれから」
 って何を聞いてるんだ俺。もうあいつとは関係なくなったはずなのに。
 言った後から後悔してしまったが、リヴァの上官は少しも表情を変えずに俺に言ってきた。
「スイネを捕まえたからといって全てが解決したわけではない。今後はもっと踏み込んでいくつもりだ。そのために少し君の力を借りたいと考えているんだが」
「え?」
 俺の力?
 思いがけない申し出に何度かまばたきをしてしまう。どういうことだかさっぱり分からない。だって俺には何の力もないじゃないか。そんな俺のどんな力を借りたいと言っているんだろうか?
「アスラードから聞いたんだ、君は精霊の力を借りられるそうだな。その力を是非我々のために使ってほしいんだ。無理にとは言わないが」
「精霊……」
 確かにそうだった。俺には魔力がまったくないからと通常の呪文ではなく召喚呪文を教えてくれた。そして今も精霊たちは腕輪にはめ込まれた石の中で待機している。
 結局、俺自身の力じゃなくて俺を通した力が借りたいということか。なんかそれって悲しい。はあ。
「詳しいことが決まったら後から連絡を入れる。今日はもう遅い。君は家に帰るんだな」
「あ、はい」
 なんだかごたごたしていたがようやく帰してくれるらしい。しかし今って何時だろう。これから寝て明日寝不足にならないよな?
 俺は師匠に家に送ってもらい、その後どうなったかは分からない。だが翌日もその次の日になってもあいつが家に帰ってこなかったことは紛れもない現実だった。
 学校に行くとラザーは来ていた。だけど俺は一人で帰ることになる。よく考えなくてもそれが普通なのに、今までの普通じゃないことに慣れてしまっていたので妙な気持ちがあふれてしまった。
 そうやって何日かが過ぎる。姉貴や学校にはあいつは用事があると誤魔化しておいた。
 変化が訪れたのは一週間以上経過した時だった。俺の家に昼間から堂々と師匠がやってきたのだ。
「やぁ川君。なんだか久しぶりだなぁ。元気してたか?」
 爽やかな笑顔でそう言われると文句を言う気力もなくなってしまう。昼間から俺の家に来るなよな、まったく。
「どうしたんだよ?」
 仕方なしに俺の部屋へ案内し、そこでとりあえず落ちつく。師匠は人のよさそうな笑顔を崩さないままで話し始めた。
「ラザーの処分が決まったんだ」
 かなりにっこりと嬉しそうに言う。その内容は全く笑えるようなものではない。
「しょ、処分って」
「あぁなに、そんな恐ろしいことじゃないから安心しな。時間の流れの違う異世界に放り込んで反省させるのさ。そこでしっかり修業して帰ってきたら俺と勝負する。それで俺が認めないとやり直し、って感じかな」
 いや、そんなこと言ってるけどかなり恐ろしいんですが。ラザーもなんだか可哀想だな。少し同情してしまう。
 だけどそれって。
「明日から俺、一人で学校行くのかぁ」
 あの二人がこんなに俺の中で大きな存在になってたなんて。少しも考えもしなかったから今になるまで全く気づかなかった。なんか淋しいなぁ。
「いや川君。それなら大丈夫さ」
「へ? なんで」
 他の奴らは誰も学校には行っていないのに。何がどうなったら大丈夫なんだよ?
 師匠は幼い子供のように悪戯っぽく笑う。
「アス君が待ってるぞ、家の外で」

 

 まさかと思った。
 もう帰ってこないんじゃないかと思っていたから余計に驚いて落ちつきを完全に失ってしまっていた。
 師匠の言葉を聞いてすぐに部屋を飛び出し、階段を駆け下りて玄関の扉を開けた。
 荒い呼吸の中。
 あいつは本当にそこにいた。
「あ、お久しぶり、樹」
 軽く手をあげて挨拶をしてくる。その声を聞くとだんだんと落ちつきが戻ってきた。
「はは……久しぶりだな、本当に」
 自然と笑みがこぼれる。
 なぜだろう。いつかはこいつとも別れなければならないと知っているのに。
「あのね。樹。この前のことなんだけど」
「ん?」
 やや控えめの声が飛んでくる。相手の顔を見ると、気まずそうに俺と目線を合わせようとしていなかった。
「その……ごめん、信じてあげられなくって」
 そして頭を下げてくる。
 思わず言葉に詰まって何も言えなくなってしまった。
「君と長いあいだ一緒にいて気づかないわけない。本当はちゃんと分かってたんだ、君はぼくが捜していた人じゃないってことが。でもそれを認めてしまったらぼくは本当に絶望してしまいそうで、嘘をついてでも君をぼくの捜していた人に仕立てあげたかったんだ」
「うん」
 小さく相槌を打つ。俺にはそうすることしかできないから。
「こんなの、こんなの嫌だよね。勝手に犯人みたいにされて知らない相手の知り合いだと言われて。さらにちゃんと分かっていながら言われるなら尚更――」
 ふっと相手の手が触れてくる。それは俺の服を掴んでいた。
「樹」
 何も言わずに相手の次の言葉を待つ。
 握られた手に力が入るのが分かった。
「こんなこと言って許されるとは思わないけど、こんなこと願って許されるわけないだろうけど!」
 相手の顔は見えないのでまっすぐ前を見る。そこにあるのは見慣れた田舎の景色。
 それは俺が馴れ親しんだ証。
「どうかぼくのことを嫌わないで。どうか、ぼくを独りにしないで」
 すっと目を閉じる。
 大丈夫。きっともう大丈夫だ。
「俺はお前のこと、ずっと友達だと思い続けるつもりだけどな」
 俺はお人好しだから。どんなに相手に否定されようと、どんなにひどい嘘をつかれようと心の底から相手を嫌うことはできない。
 この気持ちは嘘じゃない。
 自分で言ってて恥ずかしいけどリヴァとならずっと友人でいてもいいと思ったんだ。
「あり、がとう」
 小さな呟きも近くだから聞こえた。
 相手が何を考えているかなんて分からない。だけど今はなんだか分かるような気がした。
 そう、今だからこそ分かることがあるんだ。
 詳しいことまでは分からない。それでも大まかな気持ちくらいは分かっていると思ってもいいだろ?
 空は一つの雲もなく晴れ渡っている。
 空気をなでる風が心地よく、空を見上げる瞳から涙が零れた。

 

「これからのことなんだけどね、樹」
「ん?」
 少し落ちついてから家の壁にもたれかかって外人と会話を交わす。
「上官も言ってたと思うけど、君の力も借りることにしたんだ」
「うん」
 それは知っている。特に断る理由もないので力を貸してもいいとちょうど思っていたところだ。だから反発なんてしない。
「あと、ぼくはもう少し踏み込んでいっていろんな事を調べろって言われたんだよ。そのためには異世界へ行かなきゃならないでしょ?」
「そうだな」
 本当にそうなのかは別として。
「じゃあ、やっぱり俺の家に住む気なのかよ」
「だって他に行く所なんてないし」
 相手ははっきりと言ってくれる。
 いくら仲良くなったからといってさすがにここまでくっついてこられたらそれはちょっとどうかと思う。どうせなら師匠の家にでも泊まらせてもらったらいいのに、なんでそこまで俺の家にこだわるのかね、まったく。
「そういうわけだからこれからもよろしくね、樹君」
「だから、いきなり君とか付けんなっての!」
 にっこりと笑いながら相手は言う。まったくこいつは本当に調子がいいんだから。
 だけど俺だって笑いたい気持ちだった。いろんなことがあったけどこうやって平穏に暮らしていられるならそれはそれでいい。まだ問題は残っていることは残っているが、それを気にしなければ全てが丸く収まったようでよかったんじゃないかと思うことができた。

 

 

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