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 過去に何が起こったのかなんて知らないし、
 未来に何が起こるかなんて分かるわけがない。
 それでもそれを突き止められる人がいたならば、
 世界は何かが変わるのだろうか。

 

第四章 光を求めたひと

 

59 

「光の、精霊?」
 聞いたことのない名前に俺は目を丸くする。しかしそんな俺にはお構いなしに、目の前にいる精霊たちは勝手に話を進めた。
「そう、光の精霊さ」
 昔は貝だった精霊は偉そうに胸を張って言っていた。だけどそう一言で言われても困ってしまう。
 俺はジェラーに連れられて師匠の家から離れた森の中にいた。ジェラーは世界の閉ざされた扉を開く方法が分かったと言っていたが、その話ではどうやら精霊の力を借りることになるらしい。そこまではなんとなく分かった。分かったのだが。
「じゃあ、その光の精霊は扉を開くことと何の関係があるんだよ?」
 精霊の面々にこの話をすると、全員が口を揃えて光の精霊がどうだこうだと言うのである。しかし言っていることはばらばらだし意味がさっぱり分からないので完全に困ってしまった。
 そもそもなんで扉を開く方法が精霊と関係あるんだろう。どうやって扉を開く気なのかとか、肝心なところをジェラーは話してくれない。その少年は今は俺の隣で無表情のまま佇んでいる。
「つまりね、あたいらだけでは扉を開くことはできないということよ。扉を開くには光の精霊か闇の精霊、または源(みなもと)の精霊の力が必要となってくるのね」
 赤い髪の太陽の精霊、コリアはエフのように偉そうにしながら言う。だけどそこには明らかな矛盾が含まれていて。
「だったらなんで光なんだよ。闇とか源でもいいんだろ?」
 思ったことを正直に口に出してみた。精霊たちはそれぞれ決まったように顔を見合わせ、なんだか困ったような表情になった。その中の一人のエミュが代表のように話し始める。
「知らないのも無理はないと思いますが、闇の精霊も源の精霊も連絡が取れないようになってるんですよ。厳密に言えば闇の精霊のソイは過去に命を落としたとされていて、源の精霊は行方不明になってるんですが……」
「それで光の精霊だけってわけなのか」
 確かに連絡が取れないんじゃどうしようもないよな。それには納得した。うん。
 って、あれ? 何かおかしくないか? だって精霊って――。
『精霊は不老不死だと言われているけど、それにも限界はある。時が来れば精霊の役目を交換しなければならなくなるし、過去にはどうやら強制的に変換が行なわれたようだから。だから命を落としたということも不自然じゃないんだよ。分かる?』
 疑問にぶつかったとたんに頭の中に声が直接入ってきた。そんなことができるのは一人しかいないので言うまでもないだろうが、藍色の髪の少年の仕業である。毎度のことだが突然だったので少しだけ驚いてしまった。やれやれ。
 ま、とにかく説明には感謝した。これで余計なことを聞く手間が省けたもんな。
「じゃあ、でも、その光の精霊って人はどこにいるんだ?」
 理屈が分かったところで次にしなければならないのは光の精霊って奴に会いに行くこと。しかし居場所が分からないとどうしようもない。もし異世界にいるとしたらそれは意味がないんだが。
「……樹、本当に光の精霊に会うつもりなのか?」
 聞いたら返事ではなく質問が返ってきた。そう言った相手、スルクはかなり真面目そうで嫌そうでもある顔をしている。俺、何か変なこと言ったか? 光の精霊に会わなきゃ意味ないと思ったんだけど。
『ううん、君の考えは間違っちゃいない。精霊には直接会わなければ何の解決にもならないし』
 だよなぁ。ジェラーもそう思うよなぁ。何がおかしいんだろうな。
「いや、会わなければならないのは分かってるんだが」
「本当、何も知らないのって幸せよねぇ」
「私、樹さんがなんだか羨ましいです」
 口々に言いたい放題言ってくれる。いい加減ちゃんと説明してほしいんですが。
「えっと、イツキ」
 口を挟んできたのは唯一きちんとした説明ができるエナさんだった。やっと俺にも分かる説明をしてくれそうだ。とにかくエナさん以外の精霊たちは説明が下手で何を言っているのか理解に苦しむのである。だから最後にはいつもこの人に頼ってしまうのだ。
「光の精霊はオセという名前の方で、精霊の中では一番手厳しい方なのではないかと言われているのです」
「へぇ」
 ってことはつまり精霊たちは俺の心配でもしてくれてるんだろうか。そう考えたら嬉しいような気がしてきた。リヴァが聞いたらまた羨ましいとか言ってくるだろうな。あいつ精霊だけはなぜか好きだから。
 しかし手厳しいってか。一体どんな人なんだろう、そのオセって精霊は。
「オセは手厳しいというかねぇ、何考えてるか分かんない人なのよ」
 スルクのように顎に手を当てながら太陽の精霊は口を開く。しかしそれに続いて月の精霊と星の精霊も話に割って入ってきた。
「それ以上におっかないよな、あいつ」
「樹さんは会わない方がいいと思いますよ?」
 なんかすごい言われ様だな、オセって精霊。だんだん不安になってきた。
「会うのはいいとしても、会ってどうすりゃいいんだ? また契約とかするのか?」
「当然でしょ」
 質問したらすぐに答えが返ってくる。しかしそれは精霊のものではなく隣にいる少年のものだった。さっきまで頭の中で言葉を交わしていたので妙な感覚が残った。なんでだろう、これが普通の会話なのに。
『そんなに君の心を読んでほしいの?』
 いや、結構です。
 ちょっと変なことを考えたらすぐこれだ。自分の考えてることが相手に筒抜けってことはやっぱり気分がよくないな。誰にも知らせてなくて正解だったかも。今更ながらそう思う。
「と、とにかくそのオセって人の居場所を教えてくれないかな。異世界にいるとか言わないでくれよ?」
 本当に異世界にいたらこんな話はしないか。聞くまでもなかったかな。ちょっと後悔してしまう。
 が、月の精霊であるスルクは俺の後悔を吹き飛ばすようなことを平気で言ってきた。
「あいつは常に『天』、つまり異世界にいる。もちろん今も。光を求めているからな」
 思いがけない言葉に何も言えなくなってしまった。俺のそんな気も知らずに、相手側の集団は何もかもを分かったような口調で話を進めた。
「オセに呼びかけるのさ、ここに来るようにと」
 そう言ったお人好しさんや他の精霊たちの顔にはもはや暗闇はなく、比較的穏やかな感情を浮かべていることが分かった。

 

 それはいまだかつて見たことのない輝きだった。
 眩しすぎる輝きは視界から闇を遠ざけ、物の形すら判別不可能になる。しかしどういうわけかその輝きは完全な光ではないように思えた。
 精霊たちは光の精霊であるオセの名前を呼んだ。すると突然この光があふれてきたのである。光は呪文を唱えた時に見えるようなものとは違うように見え、何かもっと大きく高い場所から降ってきているように思えたのだ。要するに、呪文とは格が違うというわけである。
 ぱっと光が消える。真っ先に目の中に飛び込んできたのは誰だか知らない見たことのない人の姿だった。
「何の用だ」
 相手は口を開く。その声は男のようで女のようで、どっちだか分からないほど中性的なものだった。
 よく見てみるとその顔も男性か女性か分からなかった。かなり中性的な顔をしている。光を帯びていて見にくかったが、相手は薄い茶色の短い髪を持っていてゆったりとしたローブのような服を纏っており、体のまわりには何だかよく分からないが長い紙が巻き付くようにして浮かんでいた。他の精霊とは違ってかなり妙な容姿をしている。何なんだよ体に巻き付いてるあの紙は。
「オセ、この世界の扉が閉まってることは知ってるよね。扉を開くにはオセの力が必要なの。だから、この樹さんと契約してほしいんだけど……」
 オセと同じように薄く光を帯びている精霊のエミュは言う。なんだか親しげな話し方だったので少し驚いてしまった。
 話しかけられた相手は中性的な顔に少しも表情を浮かべない。まるでジェラーのような無表情の顔で俺の顔を見てきた。無表情には慣れていたが、その瞳に宿る光が痛くて思わず後退してしまったほどだった。
 じっと相手は俺を見てくる。何も言ってこなかったので負けじと見つめ返してやった。もっとも、見つめるというよりも睨むと表現する方が正しいのだろうけど。
「……お主(ぬし)は人か」
 急に沈黙を破ってきた。何を言われるのかと構えていたが、何でもない簡単なものだったので拍子抜けしてしまった。
「ひ、人だったら悪いんですか」
 それで悪いとか言われたらどうしようもないんだけどな。
「誰も悪いなどと言ってはいない。なるほど人だな」
 何がなるほどなんだよ。相手はわけの分からないことを言っては自分で納得している。なんか、ちょっと怖くなってきたんですが。
「わたくしは人間は嫌いなのだ」
 次に飛んできたのはそんな冷ややかな告白で。
 そんなこと言われたって俺が知るかよ。
「そんなことをおっしゃらないで、オセ。今の状況をあなたもご存じでしょう? 今となってはあなたに頼るしかないのです」
 落ちついたエナさんの声が聞こえる。光の精霊オセは一度俺から目を放し、精霊たちのいる方向へ視線を向けた。しかしすぐにまたこちらを睨むように見てくる。
「ではお主は何を望むのか? 世界を開いた先に望むものは何だ? お主にそれが答えられるのか?」
 思いがけない質問が飛んできた。驚いて少しのあいだ言葉が出なくなってしまう。
「やはり答えられぬか。契約を望む者も所詮は人だというのか」
 俺が何か言う前に相手は言ってくる。答えられないわけじゃないのに、勝手に話を進められて嫌な気持ちがあふれてきた。さっきから何なんだよこの精霊。偉そうにしてなんか腹が立つ。怖いけど。
「今回の扉が閉まった件に関しては人為的なものであって自然に起こったことではないんだ。俺たち精霊は自然に起こることを管理している。たとえ自分の守るべき世界から離れていようと、人を、いや世界を守ることが精霊の役割だろ? だから協力してほしいんだ、オセ」
 一歩前へ踏み出したのはお人好しの月の精霊。相変わらず真面目なことを言っていたが、彼の言うことの半分は俺の言いたいことと同じだったので俺は相手を見下すことはできない。ただスルクの言葉に相槌を打つ。
「あたいからもお願いしていいかな、オセ。こんな状況でわがままを言うのはまだまだ子供に見えてならないんだけど?」
 嫌味のような願いを言ったのは太陽の精霊。それでも光の精霊は少しも嫌そうな顔をせず、無表情のまま俺の顔を見ている。
「まあそういうこった。だからオセよぉ、この馬鹿っぽい顔してる樹と契約してくれねえかなぁ。ほら、この滅多なことで人に頼みごとをしないエナも頼んでることだしさ。それにこのオレ様だってこんなにへりくだってやってんだから」
「エフ、へりくだるなら自分に様などとは付けないものですよ。それにあなたは態度を直す必要もありますね」
「エ、エナ、今はそれ言わないでくれよな……」
 俺が初めて知り合った二人の精霊たちは勝手に漫才をしていた。
「お前らオセのこと忘れてるだろ」
 鋭いつっこみが飛ぶ。そのスルクの言葉にエナさんは謝罪の言葉を言ってから少し頭を下げた。エフは顔を背けて腕を組み、面白くなさそうにため息を吐いていた。なんだかエフと一緒にいるとエナさんのイメージが崩れる気がする。なんてこった。
「なにもわたくしは契約をしないと言っているのではない。ただ、お主はわたくしに容易に会うことができた。そして容易に契約をしようとしている。これはこの上なく不公平なことだと思わぬか?」
 怖い人だと思ったが相手は案外真面目なことを言っていた。だから俺は素直に頷く。
 嘘ではない。聞いた話によると精霊にはめったに会えないらしいし、契約だって俺の場合は特別で楽してできるらしいのだ。だから相手の言うことは間違っちゃいない。
「分かっているなら話が早い。もしお主がわたくしの望みを叶えられたならば、その時は光の精霊として契約をすることを誓う。どうだ、そうするか?」
 誘いなのか、これは。
 試されているのか、俺は。
「……望みってのは?」
 光の宿った瞳が俺を見ている。俺も負けじと相手を見つめ返す。
「わたくしに……闇の精霊、ソイに会わせてほしいのだ」
 それだけを言うと、相手、オセは光に包まれてその場から姿を消してしまった。

 

 なんだか地味に大変なことになってしまった。
 何がと聞かれても俺には詳しく説明できないが、とにかく大変なことが起こったのである。
「はぁん、なるほどねぇ」
 机に肘をつきながら気楽そうに目の前の男は言う。相手はうっすらと笑みすら浮かべており、焦ってどうしていいか分からなくなっている俺とは正反対の態度をしていた。
「そんな納得してないで、どうすりゃいいのか教えてくれよ師匠」
「んー」
 相手は手にカップを持ち、中身を静かに飲み干す。
 俺は師匠の家に戻ってきていた。精霊たちには念のためにまた石の中に戻ってもらい、ジェラーを連れて世界の扉のことを師匠に全て話した。扉を開くには精霊の力が必要になり、さらにまだ契約していない光の精霊の力が必要不可欠だということや、光の精霊のオセの依頼の件についても話した。相手はそれを黙って真面目に聞いてくれていた。
 そして今に至る。問題なのはオセの依頼。
「オセは闇の精霊に会わせろって言ってきたんだ。でも他の精霊に聞いたら闇の精霊って人はすでに死んでるって言うし。だから困ったんだよなぁ。なあ師匠、どうにかできないかな」
「そうだなー」
 師匠はさっきから水ばかりを飲んで曖昧な返事しか返してくれなかった。困っているのか、それとも興味がないからなのか。分からない。
 一呼吸おいてから相手は口を開いた。静かに、だが早口に。
「お前さ、俺の頼み忘れてるだろ完全に」
 そして軽く睨まれる。
「あの」
「忘れてるだろ」
「それは」
「何かを頼むときは誰かからの頼みを片づけてから頼むもんだよな?」
「…………」
 言葉が出なくなる。
 別に忘れていたわけじゃない。だけどこのままなかったことにしたいと思ってはいた。だからなんだか罪悪感を感じる。
「……すんません」
 これ以上何か言われるのも嫌だったので謝っておいた。それを聞いていたのか聞いていなかったのか、相手はまたカップを手に取って中身を飲む。さっき全部飲んだんじゃなかったのかよ。怪しい。
「うん、まあいいよもう、そのことは。俺が精霊に会いたかった理由もそんなに大事な理由じゃないし」
 目の前の男はそんなことを言ってきた。大事な理由じゃないなら俺に苦労させるなよ。何回も精霊を召喚したりして疲れたんだからな。
「川君に藍君。悪いけどその話はちょっとだけ待ってくれないかなー」
 ことん、と机に物を置く音が響く。師匠はカップを自分の前に置き、ふうと一つため息を吐いた。それから少し顔を上げて微笑を浮かべる。
「どうやらあいつが帰ってきたみたいだから」
 あいつとは誰のことなのか聞く暇もなく大きな音が背後から聞こえた。驚いて振り返るよりも早く、俺の横を何か黒い影が通り過ぎていった。
 この影は以前も見たことがある。それはほんの数時間前のこと。真っ暗な夜に俺の部屋に侵入者が入ったときのこと。
「やあやあお帰りラザー君。一人反省会はどうだった?」
「うるさい黙れ」
 にこやかな笑顔で挨拶する師匠の瞳に映っているのは黒い服の人。今まで師匠から『処分』を受けていた犯罪人であるラザーラスが帰ってきたのである。
 しかし処分とか言うからどんなことをするのかと思ってたけど、かなり早い帰宅だよな。それって処分でも何でもないような気がするんだけどなぁ。
「ちっとは頭冷えたか?」
「あんたなんかに言われなくても充分理解できる」
「ほう、こりゃまた偉そうになったもんだな」
 二人は互いに言葉を交わす。でもどうしてだろう、なんだか空気が重いような気がする。まるで今から喧嘩でも始まりそうな、だけどもっと別の違和感もありそうな。
『樹、ラザーの姿をよく見てみなよ』
 隣からの少年の声。ラザーの姿を見ろって言ったって、それがどうかしたのか? 別に普段と何も変わらない――。
「……へ?」
 な、何だあれ。
 よく見てみると妙なことに気づいた。相手は深く帽子を被っていて髪の毛が見えにくくなっていたが、なんと髪がのびているではないか。それも中途半端に肩までとかじゃなくかなり長そうだ。帽子を被って髪を上にあげているからまだ詳しくは分からないが。
 あのー。これは一体どういうことでしょうジェラー君。
『きっと時間の流れの早い異世界に行ってたんだね』
 おい。じゃあ扉はどうなるんだよ。閉ざされたんじゃなかったのかよ。
『……あれ?』
 珍しくジェラーは疑問の声をあげていた。こちらを見上げてきて不思議そうな表情を作る。
 そんな顔されても困るんですが。
『けど、時間の流れの早い場所に行っていたことは確かだよ。でないとあんなに短期間で髪がのびるわけがない』
 それは……そうなんだろうか。だって異世界に常識なんてないし、呪文か何かで髪の成長だけ早めることとかできそうに思えるんだけど。
『やろうと思えばできなくはないことだけど、第一そんなことをする理由が分からない。何のために髪だけあんなにのばすわけ? それとも何? 君はロスリュみたいに引きずるほど髪をのばしたいの?』
 俺は可能性を語っただけなのに。それでなんでこんなに嫌味を言われなければならないんだよ。
 ジェラーはそこまで言うと冷ややかな視線を俺から放し、今度は前にいるラザーの姿を見ていた。俺も真似して見てみる。ラザーは師匠と睨み合うようにして腕を組んでおり、今にも喧嘩が始まりそうでこっちがどきどきしてきた。
『師匠は不老不死らしいけど、ラザーもそうなんじゃない?』
 落ちついてジェラーは話してくる。だけどそんなこと、すぐには信じられないということもまた事実であって。
 不老不死。永遠に生き続ける終わりのない命。本当にそうなのだろうか。こればかりはいくらジェラーに言われようとも本人に聞くまでは信じたくなかった。
「なあ、川君に藍君」
 そんな時に話しかけられるとどきりとする。そうしてきた相手、師匠はにっこりとした笑顔を浮かべたまま続けて言ってきた。
「なんか危なそうだから、逃げてくれないかな?」
 ……はあ? 何が危ないって?
『ふぅん』
 いや、ジェラーもふぅん、じゃないって。意味が分からないんですが。
「行くよ樹」
「え? あ、ちょっと」
 強引に少年に腕を引っ張られ、抗う暇もなく俺は家の外へと追い出されてしまった。いや追い出されたと言うよりも引っ張り出されたと言うんだろうか。まあいいやどっちでも。
「何なんだよお前ら二人で話進めて。ぜんっぜん分かんなかったんですけど」
「馬鹿じゃないの?」
「ばっ」
 馬鹿ときたか。
 少年は俺の顔を一瞥(いちべつ)すると歩き出す。師匠の家から少し離れた草原の上で立ち止まったので、俺もそこへ行こうと足を踏みだした。
 が、その瞬間にまた驚くこととなる。
 後ろから何かが暴れているような大きなうるさい音が聞こえてきたのだ。びっくりして振り返ってみても扉の閉まった木造建築の小屋しかない。その中から聞こえていることは明らかだったが、どうしても閉められた扉を開けようという気持ちは出てこなかった。
「な、何が起こってるんだジェラー」
「喧嘩でしょ」
 やはりそうなのだろうか。
「家の中って、他に誰かいなかったっけ?」
「今日は外出中だった」
 それはまた運がよろしいことで。
「……あの家、壊れねぇのかな」
「そんなの知らない」
 冷たいぞ藍君。
 後ろからは絶えずどかどかとうるさい音が聞こえてくる。とりあえずそれを無視し、俺もジェラーのように家から離れて草原の上で立ち止まった。
 足元には白い小さな花が咲いている。名前は分からないけど、どこかで見たことのある花だった。しゃがみ込んでそれを手で触れる。
 不老不死なんて普通じゃありえない。
 だけど今まで何度も普通じゃないものを見てきた。
 俺は不老不死という存在を認めなければならないんだろうか。
『お花、きれいだね』
 気づけば藍色の髪が横で揺れている。
「そうだな」
 強い風が吹くと花は散る。そんな儚い命もあるのに、永遠に生き長らえる命もあるというのか。
 これって不公平とかそういう問題じゃない。これは矛盾だ。命に対する矛盾だ。
『樹。君は何も知らないから綺麗事しか言えないのかもしれない。だけど何もかもを知ってもその言葉を守り続けられるなら、君はお人好しなんかじゃなくなるよ』
「……どういう意味?」
「つまり、もっとお人好しになってしまうということ」
 善人になるって言いたいのだろうか。お人好しよりもお人好しな人、つまりそれは善人。
「そういうこと、かな」
 少年はすっと立ち上がり、前にある空間を見つめる。そこには空と大地と生命とが存在している。
 存在、か。
 嫌な響きだな、存在なんて。
 今まで何度も使ってきたのに今更何だっていうんだとも思うけど、そんな言葉は好きじゃなかったんだろう。
「……樹?」
 そうさ、本当は存在なんて言葉は使っちゃいけないんだ。なぜならこの言葉に秘められている意味が大きすぎて人間には理解できないから。
「どうしたの、樹」
 何が命。
 何が存在理由。
『樹、答えて。どうしたの』
 存在理由。
 存在する理由。そこに有るための不確かな言い訳。
 それがなければ人は生きられない?
『……樹、馬鹿なことを考えないで』
 違う。
 理由なんてなくても人は生きている。人は生きることはできるんだ。
 だけど、じゃあ、どうして人は自分の居場所を確保してまで存在理由を探そうとするのか?
 そんなもの意味がないのに。意味がないのに――。
『声、聞こえてないんだ』
 決められた道?
 理由? 望み? 願い?
 あの人が。
 あの人が言っていた。理解できないから話さないと言っていたあの冷たい言葉。善人のふりをして言っていた温かさのこもった言葉。
 それら全てに繋がる言葉が、存在という言葉。
 やっと分かったこと。あの人は俺という存在を見ていた。そして嘘を吐いたり罵ったり。最後に見せた欲望は存在に繋がるもの。
 なんで。
 どうして?
 俺はあの人じゃないからあの人の気持ちは分からないのに。
 おかしい。
 変だ。変だ変だ変だ。何が起こったんだ。なんで、どうしてこんなことが分かるんだよ?
『ちょ、ちょっと君?』
 頭が痛い。くらくらして、ずきずきして。気分が悪くてやりきれなくなる。前にも味わったことのある嫌な感覚だ。
 ふっと体に力が入らなくなる。
「樹っ!」
 そこから先は、記憶に残っていない。

 

 

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