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 誰か、教えてください。
 どうか、教えてください。
 なぜ人は生きるのですか?
 なぜ人は死ぬのですか?
 そして、そして。
 なぜ俺は、今も存在しているのですか?

 

第四幕
―存在理由―

 

 もしも。
 そう、例えばの話なんだけど。
 もし自分が知らないうちに誰かを犠牲にしていたと知ったら、
 どうすればいいか判断できますか?

 

第一章 善の目覚め

 

63 

「よし、これでいいな」
 誰もいない部屋の中で一人呟く。当然だ、だってここは俺の部屋なのだから。
 一人になったのにはわけがあった。それは準備をするためである。何の準備をするのかというと、それはもうお分かりだろう。
 普段より体が重くなる。その最も大きな原因は腰に吊された二本の剣。左右に一本ずつ吊されたそれらはあまり重くないとはいえ荷物にはなる。最近ではろくに触っていなかったので、余計に重く感じられるのかもしれない。
 次に確認するのは自分の右腕。そこにあるのは精霊たちの入っている石がはめ込まれた、俺にとってはなくては困る腕輪である。ずっと前にいた世界で外人に細工してもらい、今まで壊れることなく無事に右腕にくっついているのだ。召喚するための呪文も頑張れば半分くらいは覚えられたので、あとはいかに素早くそれを唱えられるかである。
 ばさり、と上着を着る。異世界へ行ったときに着ていたものだ。何の変哲もない、両側にポケットのついているどこにでもありそうな上着。今思えば、そんな普通なものを着ていたから異世界へ行っても変な目で見られなかったのかもしれないな。
 準備といってもこれだけだ。これ以上は何もするべきことはない。
 あとは――。
「樹。もういい?」
 部屋の外から呼ぶ声がした。聞き慣れた、親しくなってしまった人の声。
「ああ、今行くから」
 相手の、リヴァの声に答えてから一度だけ部屋を見回し、開け放されていた窓を閉めてから部屋のドアを開けた。

 

 俺は今から異世界へ行く。
 理由はうまく説明できない。本当は自分でもよく分かっていないのかもしれない。でも行かなければならないような気がして、それ以上に大切な人を放っておくことができなくて。
 異世界に行くためには閉ざされた扉を開かなければならない。その方法の詳細は分からないけど、精霊の力を借りなければならないので召喚できる俺が必要になるらしい。普通の契約者は精霊を召喚することなんてできないから。
「おっ、早いねー川君。昨日はラザーが迷惑かけたな」
「こちらこそすみません。なんか何も知らなかったのに余計なことしちゃって」
 人の良さそうな顔をした男の人、師匠と少しの会話をする。この人は直接俺には関係ないけど、目指す目的が同じだから協力してくれているらしい。最初はなんだか胡散臭かったこの笑顔も、今ではどんな意味が込められているのか分かるような気がする。
「それで、あの、ラザーは今は?」
「ああ、あいつならもう準備できてるから安心しなよ」
 本人の姿が見えないのにどう安心しろというのか。相変わらずいいかげんなところのある師匠の言葉も、しばらくは聞けなくなるので少し淋しい。
「ずいぶんと遅かったんだね、樹」
「リヴァもおはようっ!」
 暗い声と明るい声が間を置いて耳に入ってきた。それは師匠の家で居候していたジェラーとアレートのものであり、二人とも異世界にいた頃と同じような格好をしている。動きやすそうな服装を纏った二人は見るからに俺より頼りになりそうで、前と変わらない気合いの抜けるような服装の自分が情けないように見えてならなかった。
 しかしこの程度で落ち込んでたりしたら駄目だということを知っている。
「……おい」
 呼ぶ声がまた一つ。なんだか今にも倒れそうなほど気力のないその声は、昨日最も散々な目にあったラザーラスのものであった。彼の顔を見てみると、なるほど確かにかなり顔色が悪い。
「よくもあんなことをしてくれたな」
 相手は怒っているのだろうけど迫力がない。これではどうしようもないので、とりあえず聞いてみたいことを聞いてみた。
「ラザー、二日酔い?」
 一瞬だけ青年の動作が止まる。
「……う」
 そうかと思えば口を手で押さえ、そのままどこかへ逃走していった。やっぱ二日酔いなんだな。
「なんだか大変そうだねぇ、ラザーも」
 哀れんでいるような同情しているような、そんな声色で呟いた外人はいつもと変わらない表情をしていた。どこか子供っぽい面があり、その反面大人のように淋しそうな顔を見せることもある青年。それがリヴァという奴なのである。
「これで全員揃ったことだし早速本題に入りたいんだが。いいかな?」
 この場を仕切ったのは最も年上で大人である師匠だった。ラザーがまだ帰ってきてないのはいいのだろうか。
「――いいですよ」
 それでも答えた。
 本当は今のままでは答えられないのだけど。
 だってまだ全員揃ってないじゃないか。ラザーを数えないとしても、やっぱりあと一人足りないから。
 でもその人は今は別の道を歩んでいる。だから誰も捜しに行ったりしていないんだ。
 ロスリュ。初めて減った仲間。いつかまた会えるとは言っていたけど、仲間と別れるのは辛いことだ。
 なんていつまでもうじうじするわけにもいかないよな。そんなことしてたらまた馬鹿にされちまう。そうされないためにももっと強くならなければならない。
「俺にできることなら何でもやりますから」
 今はただ前に進まなくては。
「よし、その意気だ。じゃあ詳しいことは俺と藍君……いや、ジェラーに任せて君は精霊を召喚することだけを考えていてくれ」
「はい」
 役割を任せられた。自分を必要としている人がいることがこんなにも嬉しいことだなんて考えたこともなかった。単純に嬉しい。
「師匠さん、ぼくとアレートはどうすればいいですか?」
「ああ、二人はこっちに来てだな――」
 精霊を召喚することだけを。
 それだけを集中して成功させる。
「樹、君はこっちへ」
「あ、はいっ」
 集中はできる。
 でも、はたしてうまく召喚できるだろうか。
 だって俺はまだ一度も光の精霊を召喚したことがないのだから。

 

 時は来た。今から、本当に今から異世界の扉を開く作業をする。
 俺はとにかく精霊を召喚しさえすればいいらしい。召喚するといっても一人だけでは駄目で、全員を呼ばなければならないらしい。だけどそれが終わったら俺の役目はなくなる。あとは師匠とジェラーがどうにかしてくれるだろうから。
 アメリカの広い草原の上に不可思議な光の大きな模様が浮かんでいる。俺と外人、ジェラー、アレートの四人はその模様の上に立っており、師匠はその傍らで待機している。いまだにラザーがどこに行ったのかは定かではない。
「精霊よ」
 光る模様の上で、長々とした呪文を唇に乗せる。
「全てを従えし光輝なる精霊よ。我は願う」
 望むことはただ一つ。
「魔の力なきこの空の器に、輝きの宿りし欠片より出で、その力を我が前に示さんことを――」
 唱え終わってあふれるのはすでに慣れつつある輝かしい光。視界が真っ白になるまで輝くそれは、消えてしまってからも根強く残っているかのように思わせるほど煌めいていた。
 最初に呼んだのは光の精霊であるオセ。
 しかしここで止まってはならない。無事にオセを召喚できたので次々と別の精霊を呼ばなければならないんだ。
 一人、二人とだんだん数が増えていく。俺は長い召喚呪文を嫌というほど読まされた。でもそれほど疲れを感じなかったのがなんだか不思議だ。
 やがて全ての精霊の召喚を完了した。やれやれ、これでひとまず安心できるな。あとはどうするのか知らないけど、ジェラーたちならなんとかなるだろう。
「お疲れさま、樹」
「お前らって暇そうだよなー」
「だって私は呪文なんて使えないし、リヴァは使っちゃ駄目なんでしょ?」
「俺だって本当は使えないんだっての」
 するべきことが終わったら気合いが抜けた。全てを任せるままだというのはなんだか気が引けることだったが、何もできないことに変わりはないので適当に暇そうな二人と話をする。そうやって時間を潰していると足元の模様の光がだんだんと増していくことに気づいた。
「閉ざされた扉を開く」
 意味深な言葉を発したのは藍色の髪の少年。彼は光の模様の中心に杖を立たせ、その周囲には大勢の精霊たちがいる。
 俺はその動作を見ていた。見ることしかできないから。
「鍵を外して、扉に触れて」
 ごおっ、と強い風が巻き起こった。まるで光が川の水であるかのように風に流され、光の帯のようなものが周囲を包む。
「今、開く」
 少年の言葉と同時に一ヶ所に光が集まった。それらの光は一瞬おさまったかと思うと一気に爆発し、それでも何の衝撃も感じずにただ光に包まれたという感触だけが感じられた。
 光にのまれる。真っ白になって、真っ白の世界へと。
 白い。真っ白だ。
 白い光が見える。白い景色とは違う――いや同じなのか。
 いつも見えるあの景色と似ているような、違うような――。
「おらぁ、お前も行ってこいやぁ!」
 ん? 何だ? 声? ……師匠の?
「ばっ、何すんだあんたっ」
「うだうだ言ってる暇があったら人の助けになることをしてこい!」
「ちょっと待てよ! 俺は、俺は――」
 さっと視界から白が消えていく。
 目の前に広がるのは、かつて旅した異世界の広々とした風景だった。

 

 再び訪れた異世界は何も変わってはいなかった。
 上を見上げる度に見えた青い空も、そこをのんびりと流れる雲も、風に揺られる木々の姿も見覚えはなくとも知っているものだった。
 かつて歩いた大地を再び踏みしめることになるなんて一体誰が予想しただろう?
 だけどいいだろ別に、またこの世界の空気を吸っても。
 誰も拒まないし誰にも制限されることもないんだから。
 とにかく俺は最後まで問題を解決しないと気がすまないらしいので、またこちらへ来てしまったのであった。
「まったく、ふざけてる!」
 こちらへ来て最初に聞いたのは怒りの声。ぼんやりと周りの景色を眺めていると耳に入ってきたのでそちらに目を向けてみる。見なくても分かることだったが、その言葉を発したのは白銀の髪の青年だった。
「なんでまたこっちに来なきゃならないんだよ! あの馬鹿師匠!」
 地面に座り込んだまま一人で呟くように怒っている。どうやら彼は師匠に無理矢理こちらへ飛ばされたらしい。ってことは、なるほど扉を開いた後に聞こえたあの会話は師匠と彼のものだったんだな。
「ここはスイベラルグみたいだね」
 俺の周りにいるのは白銀の髪の青年だけではない。他にも三人ほど近くにいた。でもそれも当然だ、だって一緒に扉をくぐってここまで来たんだから。それでみんなばらばらだったら今頃かなり混乱しているだろうし。
「でもスイベラルグに戻れたのは良いとして、これからどうするつもりなのさ?」
 高い空を見上げながら俺の隣に来た外人は言う。そんなこと聞かれても俺には答えられないので今は黙っておくことにした。
「それはアレートが決めることでしょ」
 代わりに答えたのは藍色の髪の少年。先ほどまで扉を開く作業をしていたのに、少しも疲れていそうな素振りを見せていない。本当にこいつは俺より年下っぽくないよなぁ。
「私は……」
 外人と同じように空を見上げながら、黄色の髪を持つ少女は呟く。ゆっくりと歩いて俺の隣まで来ると、静かにこちらに顔を向けてきた。
 そして穏やかな口調で聞いてくる。
「あの人を、追ってもいいかな?」
 あの人。
 それが誰のことを指しているのかは名前を言わずとも理解できることだった。
 でも。
「俺は別にいいけどさ、なんで俺に聞いてくるんだ? アレートが決めればそれでいいだろ?」
 分からなかったことを正直に聞いてみた。すると相手は少し戸惑ったような表情をする。そんな顔されたら何か余計なことを聞いたような気がした。
「だってあなた、あの人に対して何か深く考えているような気がしたから」
「え?」
 少女の言葉に今度は自分が戸惑う。
 確かに相手の言っていることは正解だった。今まで何度もあの人について考えたことがあったし、何度も思い出しては深く悩んだことがあった。自分の世界に帰ることができてからもそれは止まる気配はなく、考えたらどうにかなるってわけではないけどどうしても考えてしまうんだ。
 だってあの人の生き方の意味が分からなかったから。
 だからあの人を放っておけなくなったのかもしれない。
 もしかして俺は、あの人とまた会いたいからこっちに来たのだろうか。いや、会いたいと言ったら語弊があるかもしれない。本当は会いたくない。けど、会わなければあの人の本当の考えは分からないから。
 そのためにここへ来た。
 そのためだけにここへ来た?
「俺なら大丈夫だ。アレートは、君は、自分の思うとおり動いていいと思う」
「あ、ありがとう」
 悩んでたって仕方ないもんな。今はただ前へ進むことだけを考えよう。たとえそれに何の理由もなかったとしても、そんなものはきっと関係ないことだから。
 俺の言葉を聞いた少女はなぜか戸惑っているようだった。やはりどうしてそんな顔をするのかよく分からない。俺、何か変なことでも言ったかなー。
「はいはい、君らの仲良しぶりはもう充分すぎるほど分かったから」
 そんな妙な会話を止めてきたのはさっきまで一人で怒っていたラザーラスだった。
 っていうか仲良しぶりって。あれが仲良しっぽく見えたとでも言うのかよお前は。
「とにかくその『あの人』とやらを追うとしても、何か手がかりでもあるんだろうな?」
 手がかり?
「アレート……」
 ちらりと横にいる少女の顔を見る。
「あ、あはは」
 乾いた笑い。
 あぁ、やっぱりね。そりゃそうだろうともよ。
「ごめんラザー。手がかりなんてないそうです」
「はぁ!?」
 相当驚いたのか、相手の青年はかなり大きな声を出して後から慌てて口を押さえていた。何やってんだか。
「じゃあどうするつもりなのかお前の考えを言ってみろよ」
 軽く睨んでくる相手。
 またそんなに怒っちゃって。それが怖くて最初はなかなか慣れられなかったというのに、今ではすっかり慣れてしまった自分が怖い。
「考えって言われたってさぁ、俺ってほら、この世界の出身じゃないし。それに異世界なんてつい最近知ったばかりなのにそれで案なんて出せなどと言われてもさっぱり」
「言い訳するな」
 本当のことなのに。もう泣くぞ。
「そんな無駄な話してる暇があったらどこでもいいから捜せばいいのに」
 ふと聞こえたのは冷ややかなジェラーの言葉。なんだかかなり馬鹿にされたような気がした。だってラザーが言えって言うんだもんよ。
「まあそれが一番得策だよね」
 少年の言葉に賛成するのは相変わらず黒い服を着ている外人。そういえばこいつって警察だったよな。警察が制服着なくてもいいのかよ。こいつの上官はちゃんと着てたのにさ。
「っつってもなー。何も手がかりがないなんて」
 それこそ無謀だ。どう考えても時間がかかりすぎる。全然得策っぽく感じられない。
 ぼんやりと空を見上げてみる。空は高く青くどこまでも続いているようで、もし空を飛べたら上から見下ろせるから楽ができるのにとかそんなことばかり考えてしまう。異世界って飛行機とかないのかなー。
 いや、飛行機では見えないか。それって駄目じゃん。
「――ん?」
 空を見上げ続けていると鳥が見えた。
 当たり前と言えば当たり前だ。空なんだから鳥が飛んでたって何もおかしくなんかない。でもその鳥の動作があまりにも不自然だったのだ。何だか知らないが同じ場所をぐるぐると回って一向にこの場から離れようとしない。その範囲の中心にいるのが俺たちだったので、あの鳥は俺たちに何かをしようと企んでいるような気もした。考えすぎだろうか。
『いいや、多分君の考えはあってるよ』
 へ?
「あの鳥。見覚えない?」
 言葉を投げかけてきたのは藍色の髪の少年。こちらを一度振り返り、そのまますたすたと前へ歩いていく。
 見覚えがないかと聞かれても困る。鳥は空を飛んでるんだから見えにくいし、異世界で鳥を見たことなんて――。
「あった……」
 そうだ。見たことがあったんだ。
 だけどそれって。
「追うよ」
 見上げてみると鳥はある方向へと羽ばたいていく。
「あの先にいるってことかな?」
「さあ? それはまだ分からないけどな」
 アレートと少しの会話を交わしながらもジェラーの後を追っていく。
「なんだか知らないが、あの鳥を追えばいいんだな」
「まあそういうこと」
 後ろからは黒い服を着た二人がついて来る。一人は何も分かっていなかったようだが、とりあえず怒りはおさまってくれたらしいので気にしないでおくことにした。余計なことを言ってまた怒らせるのも嫌だったし。
 鳥はそんなことにはお構いなしに飛んでいく。
 幸い周囲には障害物が少なかったため、走ればなんとか追いかけることが可能だった。

 

 はっきり言ってそれはかなり厳しかった。
 鳥は何の障害もない空を自由に飛んでいくことができるが俺たちにそんな真似はできない。途中には川があったり森があったりと、まっすぐに進むことは不可能だった。
 それでも追い続けた。追い続ければあの人に辿り着けるかもしれないから。こっちへ来た一番の理由であるあの人に。
 しかし追い続けていると妙なことに気づいた。鳥のあとを追って走った道のりには何やら崩れた建物の数が多かったような気がする。それこそ昔ここに街か何かがあったかのように。
 推測するのは自由だけど今はそんなことを考えている場合ではない。気持ちを切り替えて再び鳥を追うことだけを考え、疲れてきた体を奮い立たせた。
 やがて鳥は下へ降りていく。俺がいる地点からはまだ離れており、もっと走らないと鳥の元へは辿り着けないようだった。もう疲れ切ってしまったが仕方がない。あと少しなんだからこんな所で止まるものか。
「大丈夫? 疲れた?」
 気遣ってくれたんだろう、隣を走っていた外人が声をかけてくれた。
 疲れてないと言えば嘘になる。
「だからってここで止まるわけにもいかないだろ? もう少しなんだから」
「そっか」
 そう、もう少しなんだから。
 そのまま走っていくと今度は地面が斜めになっていることに気づいた。斜めといっても下り坂ではく、その逆だ。小高い丘のような場所の頂上に鳥は降りたらしい。斜面を登ることになるなんて、そんなに俺を疲れさせたいのかよ。
 なんて文句を言っていても仕方がない。せっかくつかんだ手がかりなんだから見逃すわけにもいかないからな。これを逃したらもう二度と会えないような、そんな気がしたのだ。
 一歩踏み出す度に心臓の鼓動が高鳴る。あの人に会ったら何を言おうかとか、何を言われるのかとかそんなことばかり考えてしまうんだ。もしかしたら会話もしないまま別れるかもしれないし、それ以前にあの人はこの先にいないかもしれない。その可能性だってあるはずなのに、なぜだろう、全くそんな気がしないのだ。
 やっと頂上に辿り着く。丘の上には一つの建物があった。それも他の建物と同様に崩れていたが、他のものよりいくらかましで原形をきちんととどめていた。
 建物には屋根がなく、鳥はそこから中へ入っていったのだろう。周囲に銀色に光る鳥の羽が落ちていた。
 俺は建物の扉を探した。それはあっさりと見つかった。屋根は破壊されているのに扉は綺麗なままで残っている。妙な気持ちを感じながらも、焦りと期待とですぐに扉を開いてしまった。
「あ……」
 思わず声が漏れる。
 建物の中に入ったとたんに目に入ってきたのは大きなステンドグラス。そこから視線を下へ泳がせると、大きなパイプオルガンが見える。
 ここは教会だったのか。それだけが分かった。
 ゆっくりと目を動かし、教会の中を隅々まで凝視してみる。壊れた机、放置された蝋燭(ろうそく)、脚の欠けた椅子。床には銀色の鳥の羽が幾枚か落ちており、それは点々と続いて一つの場所へと誘っているようにも見えた。
 落ちた羽に沿って歩いてみる。一歩、二歩と進むたびに気持ちの高鳴りが落ちついていった。どうしてなのかと聞かれてもうまく説明できないけど。
 光が差し込んでいる地点まで歩いた。そこで羽は終わっている。床にばかり目をとられていたので俯いたままだったが、ここで一度顔を上げてみた。
 顔を上げて見た先に見えたもの。
 そこには一つの質素な机と椅子があった。机の上には銀色の鳥が、そして机に顔を伏せて座っている人の姿があって――。
「――シン!」
 いた。
 本当にここにいたんだ。
 目の前にあの人がいる。たった今、俺の数メートル先にあの人がいるんだ。
 相手は俺が名前を呼んでもしばらくは動かなかった。その隙に俺の後ろに皆が集まってきたことに気づく。
 風が強く吹き、大きなステンドグラスを揺らした。
 ゆっくりと相手は顔を上げる。
 金色の髪と質素な布の隙間から見えるのは、突き刺さるような視線を持つ深い赤色の瞳。
「何をしに来た」
 完全に体を起こさないままの姿勢で、気力のないような声で聞いてくる。それでも俺にはその声が恐ろしく感じられた。
「シン、あんたは……なぜ」
 会ったら言おうと思っていたことがある。今度会ったら必ず言おうって。でもそういうものというのは大抵、会ったとたんに頭の中から消え去ってしまうものであって。
「どうしてガルダーニアを」
 だからいつも二番目のことしか人には言えない。
「なぜ、どうして。そんな言葉だけでお前は全てを質問できるというのか」
 返ってくるのは静かな言葉。怒りも憎しみも込められていない、ただ純粋に相手の考えていたことが言葉となっただけのもの。俺は相手の、シンのそんな言葉を聞いたのは初めてだ。
「だ、だってそうじゃないか。一つの国を滅ぼして、たくさんの人の命を奪って。そんなことを意味もなくするわけないだろ。俺は、俺はあんたがそんなことをした理由が知りたいんだよ!」
「だったら帰れ」
「……え」
「お前が望む理由など持っていない」
 言葉が続かなくなる。
 相手はゆっくりした動作で立ち上がった。机に手をついてやる気がなさそうにため息を吐く。傍らの鳥がそれに合わせて翼を広げ、そのまま宙に浮いてから相手の肩にとまった。
 痛い視線を感じる。じっと見られていることが分かる、そこから逃れられないような視線を。
「お前は何も知らない屑だな」
 浴びせられるのは苦しい言葉。
「決められた道しか歩めないただの子供だ」
 何を言われてもやはり言い返せなくて。
「今は、何もする気が起きない。何かしたいなら勝手にしろ」
 相手の声に張りがなくなっていく。なんだろう、そこに何か不自然さを感じた。
「知りたいなら……いや、何を……全ての真実を知りたければ……違う、俺は」
 え?
 何かがおかしい。何を言っているんだ相手は。
 がっと自らの頭を押さえ、相手は床に崩れる。それに驚いたのか肩にとまっていた鳥は空中へ羽ばたき、傍にあった机の上で羽を閉じていた。
「樹、真実を知りたければ……違う! そんなくだらないものは……あ、知りたければ異世界へ行……くっ、の野郎が!」
 だんっ、とシンは床を拳で叩く。
 俺は何も口出しできなくて、ただ相手を見ていることしかできない。そればかりかこの場から一歩も動けなくなっていて、逃げ出すことも傍へ行くことも無理だった。
 荒れた息の中、再び彼は口を開く。
「早くこちらへ来い。その時に全てを話してやる。お前は……知りたいなら、そこのお姫様と一緒にでも……心が読……と一緒でも、不老不……や、最も親しい彼と一緒でもいいから、とにかく……シンから離れ――」
 言葉が途切れ、相手はひどく咳き込んだ。見ているこっちが痛々しくて、胸の高鳴りがまたおさまらないようになっていて。
「クソ……が! 調子に乗ってんじゃねえ! 俺は、俺のまま、この世で……黙れ、お前には持つべきものなどな……にもっ、持ってないのはてめえだ! クソ野郎が……黙れと言っているだろう、シン!」
 胸が締めつけられる思いがした。相手は誰かと戦っているのか。明らかにいつもと違うその姿に、どうしてだか分からないけど親近感を覚えてしまう。
「どうしたんだろう、あの人」
 ふと後ろから声が聞こえた。
「まるで誰かに操られているみたいだ」
 誰が何を言おうとお構いなしにシンは、いや、シンじゃない別の誰かは言葉を紡いでいく。
「来い、ここまで。樹、それからアレートと言ったかな……俺は、別の世界で待っ……の世界の名前は、ア……ツ。そしてそこで何もか……話してやるから、逃げないでい――」
 どさり。
 相手は床に倒れた。床に、地べたに倒れたのだ。
 反射的に手をのばそうとしてしまった。しかし俺の手は相手には届かない。なぜなら大きくなった鳥が邪魔をしてきたから。
「シン」
 名前を呼ぶ。相手側から教えてくれた名前を。
 だけど相手は応えない。
 ぶわっと風が巻き起こった。いきなりのことで目を閉じてしまったので、次に目を開けると目の前には誰もいなくなっていた。
 残されたのは銀色に輝く羽だけ。

 

 

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