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 どうして、なぜ。
 気づけばその繰り返しばかりだった。
 だけど、でも。
 進歩の欠片も見られない言葉。
 そう思わせることがあるからこそ使ってしまうのだろうけど、
 だったら、そう思わせるものはなぜあるんだろうか?

 

第二章 大切なものを

 

67 

「古(いにしえ)より大地を守りし神々よ。我が声が聞こえたならばどうか扉を開きたまえ」
 廃墟と化した広い教会の中、高い声が響き渡る。
「扉を開いたならば願いを聞き入れて欲しい。我らは小さく弱き生命。何者にも抗えぬ運命を持つ哀しき魂であり、他のものの力を借りぬ限り道は開けない」
 外から入り込んできたのか、風が中を吹き抜けていった。それは静かに少年の金色の髪をなでていく。
「故(ゆえ)に我らはあなた方の力をお借りしたい。代わりにここに深く誓う、あなた方の望みを踏みにじることは決してしないと。望むならば何でも差し出す覚悟を」
 周囲に光があふれた。唐突ではなくゆっくりと。
 目の前にあるのは古びた扉。
 俺が目を覚ますとそこは教会のすぐ近くだった。異世界へ行くために必要な二つの物、『虹色の水晶』と『白黒の書』は無事に見つかったらしい。ラザーの話では俺は『虹色の水晶』を手に持っていたと言う。だけど虹色に光る玉なんて手に持った覚えはない。後から実物を見せられても、俺が触ったのは無色透明であった玉だということしか思い出さなかった。
 俺が何も覚えていないのは気を失っていたから。同時に、何か別のものが頭の中を支配していたようだから。覚えていなくても仕方がないことなんだ。
「さあ、これで大丈夫ですよ」
 くるりと商人の少年は振り返る。
 ここまで来ることができたのはラスがいたからだった。自称でも商人と名乗っているんだから情報を知っているのは当然といえばそうなのかもしれないけど、先ほどまでの姿を見るとなんだかそれだけではないような気がしてくる。
 とは言え別の世界へ行く方法もその道のりも全て教えてくれたので責めることはできない。ここで詮索するよりは前へ進む方がいいに決まってるしな。
『君でもまともなこと言う時があるんだね』
 なんてことを考えているとそんな言葉が。
 あのなー。俺だって今まで遊んでたんじゃないんだから。子供じゃあるまいし、ちゃんと自分で考えて行動してるんだからな。
『まぁ、そういうことにしておくよ』
 藍色の髪の少年はすぐに俺の心の中を覗き込んでくる。傍から見ればただの迷惑なことかもしれないけど、こうやって何かがあるたびに話しかけてくれるのは正直ありがたい話である。だってそれって気にかけてくれてるってことだもんな。言葉や行動で示してくれなくても嬉しいことに変わりないけど、直接言ってくれれば絶望しなくてすむから。
「この扉の奥にアユラツへ行くための何かがあるはずです。皆さん頑張ってくださいね!」
 ラスは一人で陽気そうににこにこしていた。何を頑張れというのか。
「その二つの物があれば必ず道は開けるはず。……僕は別の用ができたので、ここで失礼させていただきますね」
 金色の髪がふわりと揺れる。
 商人の少年は一度お辞儀をしたかと思うと風のように走り抜けていった。驚いて振り返ってみてもすでに姿は見えない。障害物なんてほとんどないこの教会の中で隠れることは不可能。本当に急いでいたのか、それとも怖くなって逃げ出したのか。
 いや、違う。
 怖いと思ってるのは俺だ。怖くて逃げ出したいのは俺の方なんだ。こんな個人的な気持ちをあいつと重ね合わせてはいけない。
「なんだか申し訳ないことしちゃったかな」
 静まり返った空間の中、ぽつりと呟いた外人の声がよく響いた。すぐ隣にいたので余計に耳に入ってきた。
「後でお礼を言わないといけないね」
 今度は反対方向から少女の声が響く。
 言われなくても分かってるさ。
 あいつは商人だの何だのと言っていたけど、所詮はただの一般人なんだ。この先は危ない場所かもしれないのに、そんな所へ連れて行くことなんてできない。この先はもう一般に知られているものじゃないそうだから。
「アユラツ、だっけ」
 思い返すのはあの人の言葉。
「早いとこそこに行って、何もかも全部聞いて帰ってこよう」
 言葉を口に出してから一人一人の顔を見る。
 それぞれ違う顔をしているんだ。どんなことを思っているのかなんて分からない。ううん、分かるものじゃないんだ。それでいい。それが当たり前なんだから。当たり前で当然で、常識の中の常識でさ。俺はずっとこの中でいたかったから。それだけを望んでいたから。でも今は。

 

 それは突然のことだった。
 ただの一瞬だけ。頭上で何かが光ったような気がした。
 本当にそれだけだった。だけど、それだけで状況が考えられないほど変わってしまったんだ。
 扉を抜けて進んでいた最中のこと。光が見えて立ち止まると、目の前に見慣れた人の姿があった。
 だけど相手の瞳に生気が感じられない。どこかぼんやりしているような、でもはっきりした声で話しかけてきた。
 その人はさっきまで俺の後ろにいた人。
「これより先は人の出入りが禁じられている。速やかに引き返しなさい」
 知っている声で知らない口調が話す。
「我は世界の守護役。そなた等には我の望みを受け入れる義務があるはず」
「だったら、おあいにくさま。望みを言うなら自分の姿を現したらどうだ?」
 自分でも分からない。気がついたら相手と話していたんだ。姿形が知っている人だから? それとも、なけなしの覚悟ができたから?
「我に楯突くか」
 相手の瞳がすっと細くなる。
 それでも少しも動じないんだ。
「仲間の命が惜しくないのか?」
 俺は剣を抜く。
「誰も命を取るなんて言ってないだろ」
「同じことだ」
 違うね。全く違う。何もかもが違うよ。
「相手に矛を向けることが意味するのはただ一つ。そなたはそれすらも分からぬか」
 分かってないのはそっちだろ。
「返せよ」
 返せ。
「我の忠告も聞かぬか。面白い、ならばその答えを見せてみよ!」
 忠告? あれがそうだと言うのか。
 やっぱり分かってないな。
「――大丈夫」
 自分自身に言い聞かせるように小さく呟く。
 後ろにいるのはリヴァセール、ラザーラス、そしてジェラー。前にいて道を塞いでいるのが、アレート・ガルダーニアという名の少女。
 その少女の声で誰だか知らない『守護役』とやらが話している。
 どうやらアユラツの連中は人前に姿を現すことが嫌いらしいな。こいつといいスーリといい。
 だけど俺に言わせてみればそれがどうした。
 アレート、君を嫌っているわけじゃない。好んで剣先を向けているわけじゃないんだ。分かるよな、君ならきっと。
「なあ、三人とも」
 向けられたものがあるならば、それを受けとめなければならない。
「見ててくれないかな、俺の姿を」
 立ちふさがるものが壁ならば、それを壊してでも乗り越えなければならない。
「分かってるよ。そう言うと思って口出ししなかったんだから。ね、ラザー?」
「は? 誰がそんなこと」
「樹、ラザーラスも見てるってさ。僕らは邪魔しないから」
「お前まで言うか!」
 そのために仲間がいてくれる。
 とてもありがたいんだ。とても幸せ者だ。
 だけど分かってるんだ。俺じゃ相手には適わない。
 握った剣も軽く感じられる。走り出した足も速く感じられる。体がどこも軽くって、今なら誰にでも勝てそうな気持ちになっている。
 振るった剣はあっさりと受け止められた。もう一方からも同じことをしたけど効果はまったく無に等しい。
 受け止められた体勢で止まった。あまり力を込めていないはずなのに相手は反撃してこないんだ。
 なあ、なんでかな。
 相手の中に意識が残っているとは考えにくい。残っているなら反撃してこないはずがないから。
 俺は彼女に何度も怒られた。だけど同じくらい教えられた。彼女は感情のままに訴えることしか知らないから。
 受け止められたまま思い出すものがある。
 ら、ららら、ららら……。
 いつか見た少女が歌っていた曲。白い景色で綺麗だと感じた唯一のもの。
 ら、ららら、ららら……。
 次第に鮮明に蘇ってくる記憶がある。
 終わりのない歌。一部しか知らないから永遠に繰り返される歌。
「ら、ららら、ららら……」
 自分で歌ってみて後悔した。単調だけど案外難しいんだ。流れるような旋律は綺麗だけど、真似事は『欠陥品』には――無理だ。
「その歌」
 少女の声で『守護役』は言う。
「そなたはもしや――」
 涙が零れる。
「そうか、我はとんだ間違いをしていたのか」
 受け止められていた手が自由になった。
 力が入らなくなって、床に剣を落としてしまう。少し傷がついてしまったかな。古い教会だったのにな。
「しかし妙なものだな。つい先程もそなたに似た者がここを通り過ぎていったものだ」
 ああ、それ、あいつだ。
「何にせよ我には関係のないこと。我に与えられたのは扉を守ることのみ。さあもう行け。この先に扉がある。我はもうここから去る」
 少女の瞳は閉じられた。ふっと体が崩れたので、それを前から支えてやる。
 本当はそのまま俺も倒れてしまいそうだった。
「大丈夫?」
 こうやって仲間が支えてくれなければ。
「少し休む?」
 右から支えてくれるのは外人。
「平気だって」
「君が平気でもアレートは平気じゃないんだから」
「あ、……ごめん」
 平気。へいき。兵器。
 蘇ってきた過去の記憶。
「よく分からんが無事でよかったな、樹」
 床に落ちた剣を拾って渡してくれたのはラザー。
「……うん」
「うん、じゃないだろ。まだ弱いくせに出しゃばりやがって」
「ごめん」
 弱い。駄目な奴。強くない。
 出てくる記憶はそんな言葉ばかり。
「君にしてはいい意見だと思ってたんだけどね」
 周囲を気にかけながら話してくれるのはジェラー。
「失敗だったかな、俺」
「過程はね。結果はそうじゃないけど」
「ごめん」
 失敗作。出来損ない。欠陥品。
 ひどい名前。ひどい記憶。
 謝ってばかりいた。ラザーの言うとおり弱いくせに無茶をしたから。
 最初から分かっていたのに。俺にできることなんてないって。
 なあアレート。俺、本当に君を守れるか分からないんだ。
 自分のことだけでこんなに精一杯で、他人のことまで構ってあげられるほど余裕がないんだ。
 出てきた記憶がな、なんだかすごく哀しいんだ。ほんの一部だけなんだけど、俺に向けられた誰かからの言葉がとても痛いんだ。俺、これじゃ潰れちまいそうなんだ。体もなんだか疲れてる。軽いんだけど疲れてるんだ。心も同じ。とても嬉しいんだけど、幸せなんだけど、今にも壊れて元に戻らなくなりそうなんだ。痛いよ。すごく痛い。悩んでたりしたら苦しくなることはよくあるけど、今は苦しくなくて痛いんだ。ああ、ごめんな、ごめんな。痛さなんて分かんないよな。分からない方がきっといい。こんな思いするの、俺だけで終わりにしたいから。だけどな、俺、馬鹿だから誰かに分かってほしいって思っちまうんだ。こんなの嫌だよな。迷惑だよな。他人の痛みを分かってほしいだなんて。他人なんだから、絶対に分かることなんてありえないんだから。それでもまだ、頼っていていいかな。君にはきっと聞こえてないだろうけど、君の名前を呼び続けていたいから。名前を呼べる人がいることを確かめないと、本当に、本当に壊れてしまいそうなんだ。だからお願いだから、もし聞こえていても黙っててほしいんだ。俺にとっての大切なものを守りたいから――。

 

 思い出した記憶。それは誰かの声だった。
 誰なのかははっきりと分からない。声よりも言葉だけを思い出したようなものだから。だけど後悔してしまうんだ、どうして声じゃなくて言葉を思い出してしまったんだろうって。
 思い出した言葉はどれもひどいものばかり。
 弱い。強くない。駄目な奴。
 失敗作。出来損ない。欠陥品。
 そして兵器。
 これらが何を意味するかなんて知らない。知りたくもない。ただ一つ言えることは、俺は昔に異世界と関わっていたということだけ。
 俺に向けられた言葉。
 あいつも俺に話しかけてたっけ。あの時はそう信じたくなくて名前を教えたからだと言ったけど、やっぱりあれは俺に向けられていたんだろうか。分からない。
 分からないんだ、もう何もかもがめちゃくちゃで。どうして俺にこんな嫌な記憶があるんだ。なぜ俺は昔に異世界と関わってたんだよ。そしてどうして俺は今まで平凡に暮らせていたのに、今更になってこんな真似をするんだよ。どうせならこのまま何も知らずに終わらせたい。知らない方が幸せなことだってあるんだよ。何も知りたくない。知りたくないのに、知りたくないのに……。

「あ……アレート」
 腕の中で気を失っていた少女の瞳が開く。周囲から少しだけ安堵の息が聞こえた気がした。
「立てるか?」
「ごめんなさい、大丈夫だから」
 傍から見ればおぼつかない動作でアレートは立ち上がる。それに合わせるかのように俺も立ち上がった。すでに心のだるさは消えたように思える。
「無理はよくないよ。まだ顔色が悪いんだから安静にしておいたら?」
 さっきまで俺を支えていた外人が声をかける。アレートはそれでも首を横に振った。
「早く行かなくちゃいけないんでしょ? だったら私のことは心配いらないから」
 呟くような言葉の後、アレートは奥にそびえる扉の元へ歩いていった。その足取りもおぼつかない。普段とはあまりにもかけ離れすぎてるんだ。
「本当に大丈夫なのか? アレートは」
「そんなものは本人にしか分からない。あいつが大丈夫って言ってるんだから信用してやれよ。……まあ、しばらくは見ていてやらないといけないだろうけど」
 それだけを言うとラザーラスはアレートの後を追う。相変わらずな意見だけど間違ってはいないんだろうな。
「ラザーもああ言ってることだし、ぼくらも行こっか」
「そうする他には何もないしね」
 残っていた二人も同じ意見を言う。
 だけど、なんだろう。なんだか嫌な予感みたいなものが胸の中をよぎっていくんだ。心が弱っているせいかな。
 結局俺たちは歩きだす。古めかしい扉の向こうの世界へ行くために、全ての真実を知るために。
 扉の前ではアレートが待っていた。隣にはラザーも立っている。そこまで辿り着いた後にすることは、二つの必要な物を使うということ。
 一つは『白黒の書』。それをリヴァが持ち、扉の前でぱっと開く。
 もう一つは『虹色の水晶』。そちらはジェラーが持っており、ただ扉の前で立っているだけだった。
 俺には何もできないんだな。静かな空気が流れている。
 やがて外人は息を一つ吐く。それで心を落ちつかせたのか、片手を扉に触れさせて何やらぶつぶつと呟き始めた。傍まで行かないと何を言っているのか聞こえないだろう。いつもなら聞きに行きたくなるんだけど、今はそんな気持ちも湧いてこない。

 ――思い上がるな。
 ――自分に甘くなるな。

 ジェラーの手の中にある虹色の水晶が輝き始める。藍色の髪の少年は輝きが最大になってから、床の上に玉を置いた。
 次第に玉の中の輝きが扉へと移っていく。扉は全ての光を水晶から吸収し、水晶は光を失い無色透明になった。そして音もなく粉々に割れ、目で見えないほど小さい欠片へと化してしまった。
 今度は外人の手の中の本が変化した。本の周りの空間に不思議な模様が現れる。魔法陣のような丸いものではなく、何かの帯のように細長い形をしていた。それは薄い青の光を纏いながら本を軸としたように回り、だんだんと時間が経つにつれて数が増えていく。二重になったそれは最初のものより大きく、三重になるとさらに大きなものが増えていた。天井や壁は全てすりぬけていくらしい。
 それをも扉は吸収する。帯の束は本から離れ、扉を軸とするようになる。帯を失った本は静かに砂のように粉々になり、水晶と同じように目に見えなくなって消えた。
 二つのものを吸収した扉はそれでもまだ開かない。だが代わりに別のものを作った。
 本から受け取った帯が水晶の光を纏い始める。薄い青の光は残したまま輝きが増し、ゆっくりと回転の速度が落ちていった。やがて止まったかと思うと帯は一ヶ所に集まり出し、何重にもなる魔法陣のような円形を扉の隣に作った。その中心には淡い光に包まれた鍵穴がある。
 鍵穴。
 それがあるということは、鍵があるということ。

 ――悩め。恨め。
 ――自分が全てだと思うな。

「さて、僕らができるのはここまでだよ」
 藍色の髪の少年はくるりと振り返る。一瞬だけ目が合ったが、すぐにそらされてしまった。
 次に振り返ったのはリヴァセール。
「最初からあった扉は本当の扉ではなかったんだ。この扉を作るための機械のようなものかな。……見て分かるように、作られた扉には鍵穴がある。それはつまり鍵があるということ」
 立て続けに説明されたが、実際にこの目で見てしまったので説明は不要だったように思える。それよりも肝心なことを教えてほしかった。
「鍵があるのは分かった。それで、その鍵はどこにある?」
 思っていたことと同じことを聞いたのはラザーだった。こういう時は彼の素直さが非常にありがたい。
「それは――」
「私が」
 一歩踏み出したのはアレート。
「私が持ってるこの鍵だよね」
 片手を空中に差し出す。そこから現れたのは背の丈ほどある大きな鍵。
 いつか見せてもらったことがある。よく分からないけど出したり消したりできる鍵。
「少し待ってて」
 少女は背を向け、扉と向き合う。
 手に持った鍵を握り締め、すっと鍵穴へ差し込んだ。
 瞬間、周囲にあふれる光。
 光の扉は開かれた。鍵は朽ちない。光は増す一方。
 呑み込まれる。
 見えるのは白い光だけ。
 いつか呼んでいたあの白い光だけなんだ。

 ――思い知れ、思い知れ。
 ――お前が生きる『理由』というものを。
 ――そして嘆け、悲しめ。
 ――お前の持つ『存在理由』を知って。

 

 光は冷たかった。

 

 

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