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 俺には嫌いな言葉がたくさんある。
 それは存在。
 それは意義。
 そして運命。
 どうして。
 どうして?
 嫌いなのに、頭に入ってくる言葉はそればかりであった。
 自分を正当化するつもりはない。
 ただ、認めなければならないだけなんだ。

 

第四章 出来損ない

 

70

 白い世界の大地に二つの足跡が残される。
 奇妙なほど同じ歩幅で同じ大きさのそれらは、俺ともう一人のものである。
 すでに全く同じでも驚かなくなってしまった。それにはいくらかの理由があるが、意味するものはただ一つ。すなわち――。
「何も文句を言わなくなったってことは、俺のこと認めてくれたんだな」
 後ろから俺の声が言う。
 なんて無駄な質問なんだ。そんな問いに俺は答える義務がない。だから何も言わないでおいた。
 だけどそうすることが一番の得策だとは思えなかった。内心では俺は相手の存在を認めていたのだ。自分でも認めたくないと意地を張っていたつもりなのに、心というものはどうしてこんなにも正直なのだろう。分かってないことすら教えられるんだ。
「お前が何も言いたくないのは分かるけど。俺はお前であることに変わりはないんだから目をそらしちゃいけない。お前だってちゃんと理解できてるんだろ?」
 間違ってはいないさ。
 でもこれは俺自身の、もっと言えば俺という存在の問題なのだから。
 口出しされたら止まらなくなるんだ。引き止めるような言葉でさえも、今ではきっと突き飛ばすほどの効果しか発揮しないだろうから。
「ま、今は何を言っても無駄だよな。分かってる。何も言わないさ」
 相手は全てを知っているようだった。それでも俺は相手にも知らないことがあることを知っているから。
「知ってるか? 樹」
 唐突に名前を呼んでき、相手の話が始まる。
「誰かに置いていかれて独りぼっちになった人は、その誰かが戻ってくるまで待ち続ける。決まり事で単独行動を禁止されていれば、その人は身動きが取れなくなってしまう。だから待ち続ける。傍から見れば真面目で健気な人のように見えるだろう。だがその本質は全く違うものだとすればどうだろう。いや、自分でも気づかないうちにそうなっていたということも少なくはないはずだ。待ち続ける人はいつになっても帰ってこない誰かから見捨てられたように見える。すなわち帰ってこない誰かは知らぬ間に悪者として扱われる。待っている人は帰ってこない誰かを陥(おとしい)れようとしているだけだったのだ。そしてそれに気づいたとき、自分は馬鹿だと連発する。自分は愚かだと卑下(ひげ)する。確かにそれは間違っていないだろう。だが忘れてはならないのは、どちらかが一方的に悪いのではないということだ。陥れようとした人は悪くないわけではない。置いていった誰かが良いわけでもない。それぞれ自分の意志を正当化してはならない。それぞれ自分の意志を卑下してはならない。どちらも愚かなのだから、自らの行動を認める必要があるんだ。認めるということは正義にも繋がる。ただ覚えていてほしいことは、何が正義で何が悪なのかを判断しなければならないということだ。答えはどこにもない。なぜなら自分で見つけなければ意味がないから」
 場違いのような台詞を長々と吐き出した相手はそれっきり黙り込む。何が言いたかったのかは知らない。知らないけど、なんとなく分かるような気がした。
 いつもそうだと思う。相手の言うことはなんとなく分かるような気がしたのだ。それが物語っているのは相手の言うとおり俺と相手は同じものだということなのか?
 認めたくない。それ以前に認めない。なぜ自分というものが二つも存在するというのか。明らかに尋常じゃないじゃないか。生まれ変わり? そんなものではない。ドッペルゲンガー? そんなものでもない。自分のすぐ傍に、目の前にいるのだからそれらの言葉で形容できるものではないのだ。
 俺は多分、知りたいと思っているのだろう。だけどその反面拒んでもいる。知りたいけど知りたくないんだ。こんなに変な気持ちになることは自分がおかしくなったのではないかと思うほどだ。
 おかしくなるのは怖い。気持ちが安定できなくなるから、心が不安定になるから。なんだか巨大な圧力に押し潰されているような感覚がする。
「この世界の風は気持ちいいだろ」
 ふいに聞こえてきた言葉は俺の声で話しており。
「少し前へ進んでみな。そう聞いてくる奴がきっと現れるから」
 言い残した言葉が頭の中に響いていたと気づいたのは、相手の姿が見えなくなってからだった。

 

 前へ進むということは何を示しているのか。
 ある見方をすればそれは単純に道を前へ向かって進んでいくことを意味するのだろう。だが別の見方では知らないことを知ること、つまりは真実に近づくことを指している。
 あいつが言いたかったのはどちらの意味のものなのだろうか。
 答えが分からなくとも、俺はただ単純に道を進むことだと勝手に解釈した。
 だから前へ進んでみた。何もないと思っていた。確かに何もなかった。だが、人が立っていた。
「こんにちは」
 いたのは見慣れた青年。
 癖のある青い髪にだらしがない格好。師匠とよく似た風貌を持つ若々しい青年は何もない荒野の上に立ち、俺の姿をまっすぐに見てきていた。
 だけど刺さるのはいつものような痛々しい視線ではない。何も感じないような、むしろ俺のことをいい意味で気にしているようにさえ思われるものだった。
「この世界は気に入ったか?」
 答える気にはなれなかった。
「色がなくて煩(うるさ)くないだろ」
 それはそうかもしれない。でもそれはそれで寂しいんじゃないだろうか。
「ここには人も動物もいない。物も少ない。いい場所だろ?」
 じゃあ植物はいるのか。なんて余計なことを考える余裕はある。
「でも風は吹くんだよな」
 どこか遠くを見る時のように手を目の上に当て、相手は独り言のように話す。
 かと思えばこちらを振り返ってきて。
「この世界に吹く風は気持ちいいだろ」
 ふわりと微笑んだ。
 同時に風が吹いた気がする。
「本当に言った」
 俺の言葉は相手にも届いただろう。だけど不思議な顔一つすることもなく微笑んだままでいて。
「綺麗だろ」
 一歩近づいてくる。
「物にあふれた世界よりも、何もない場所の方が清々しい」
 距離は確実に狭まっていく。
「この世界も捨てたものじゃない。実際にそう言っていた人がいたんだ」
 なぜだろう。
「できれば残しておきたい世界だ、と」
 逃げる気にはなれなかった。逆に――。
「そう言った人はもう、いないけど」
 逆に、ここでいたいような気持ちになっていたのだ。
「スーリ」
 静かに相手の名前を呼ぶ。
「あんたは俺の何を知っている?」
 これが正直な気持ち。これが俺を悩ませる種。
 俺は相手を見上げる。相手はすぐ傍まで来ていたのだ。
「何も知らないさ、お前の心は。けど」
 少しかがみ込んで膝に片手をつく。
「俺はお前の性能を全て把握している」
 頭の上に感触が伝わった。
 まただ。あの時と同じで頭をなでられている。髪が乱れるのにも関わらず、わしゃわしゃとなでてくるんだ。
 なぜだか感じるのは暖かさ。それは相手が穏やかな顔をしているからなのか。
「――なんで」
 漏れるのは弱音や疑問だけ。
「なんでいつもそんなことしてくるんだ」
 言ってからきっと上を見上げてみる。そこに見えたのは普段と変わらない何を考えているのか分からない顔。
 しばらくそのまま睨んでやった。相手は動作を止め、対抗するかのようにこちらの目をじっと見てきていた。
「なんとか言えよ」
 ぎゅっと握りこぶしを作る。
 次第に相手の視線が耐えられなくなってきた。痛くも暖かくもないのだけど、どうにもじっと見られると調子が狂ってしまいそうなんだ。だから俺から先に視線をそらす。
 そらした途端、哀しくなった。いや、哀しいというよりも自分が馬鹿で愚かであるかのように思えたのだ。何もできない自分がやるせなくて、だけど知りたいと思う気持ちは膨らむばかりで。
 これは俺が悪いんじゃない。悪いのは、悪いのは――。
「焦るな、樹」
 ふっと相手の手が離れる。
「焦っていたら大事なものまで見落としてしまうだろ」
 言う言葉は綺麗なものだ。
 綺麗なだけならいい。いいけど、あまりにも状況が痛すぎるから。
「見落としてしまってもまた拾えばいいだろ」
「よくない。お前は何も分かっていない。昔に言っていたことをもう忘れたのか」
 昔。
 昔?
 なんだよそれ。
 昔って何?
「まあいいさ。こっちへ来な。案内してやるから」
 本音は行きたくない。本能は知りたい。俺の中で意見の食い違いが起こっている。
 歩きだした相手は一度も振り返らずに前へ進み、俺は気がつけば相手の背中を追っていた。気がついてからもやめようとしなかったのは知りたかったから。

 

 相手の背中を追いながら周囲の風景を眺めてみる。
 本当に白と影以外には何の色彩も見えない世界であり、あながちスーリの言うことは間違ってはいないようだった。
 だけどここまで静かで色がなく、何の気配も感じない場所は逆に気持ちが悪いものだ。少なくとも今まで別の世界で暮らしていた俺にはそう感じられる。だってそうじゃないか、俺の常識の中ではこんな世界があることの方がおかしいのだから。
 壊れている物の数は歩くにつれて増えていくばかりだった。なぜ壊れているのかなんて分からないけど、それらが集まっている場所には必ずと言っていいほど影ができている。当たり前のことだけどそれが妙に気になってしまったのだ。
 やがて辿り着いたのは物の山。周囲に散らばる物を集めたような場所ではなく、大きな街が崩れたような感じの廃墟だった。
 そこでスーリは足を止める。同じようにして俺も止まった。
「昔、ここには多くの人が住んでいた」
 背を向けたままの相手の言葉を静かに聞く。
「それはもう何百年も昔のことになる」
 くるりと振り返り、相手は俺の目をまっすぐに見てきた。
「少し街を見るか」

 

 

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