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71

 それは街と呼ぶにはふさわしくないものだった。以前はこの場所に何人もの人が生活していたのかもしれないけど、以前のことは以前のことであって今のことではない。肝心なのは今のことであり、以前のことをとやかく言っても仕方がないものなんだ。
 建物の形を思わせるような物もいくらかあった。しかしそれらは全て壊れていて、廃墟と呼ぶ方がふさわしいようだった。いまだにここを街と呼ぶのはおかしいことだ。
 だが俺の目の前を歩いている青年はここを街だと言う。俺から見てみれば街なんてどこにもない。俺の中の『街』という基準は、多くの建物があって人々が生活しているものを言うのである。よって少なくとも俺はここを『街』だとは認めていないことになる。
 他の人がこの場にいたら聞いてみたい。はたしてここは本当に『街』と呼んでもいいものなのか、それとも俺と同じように『街』だとは認めるべきではないものなのか。意味のない推測だけならできるけど、この場にいないのだから仕方がないと腹の中では分かっていた。こんなことを考えてしまうのはやっぱり心がまいっているからなのだろうか。
「樹」
 ふと相手は俺を呼び足を止めた。俺もあわせて立ち止まり、相手の背中を見つめる。
 少しの間沈黙が流れた。相手は俺を呼んだきり何も言ってこない。俺も何も言う気が起きなかったので何も言わないでおいた。下手に喋ったりするといつ何をされるか分からないから恐れていたのかもしれない。
「なんでもない」
 やがて聞こえた言葉は自らを否定する言葉だった。それだけを言うとまた同じように歩きだす。
 その時相手が何を言いたくて俺を呼んだのかは知らない。知りようもないことだから仕方がない。仕方がないと片づけてしまうことがよくあるけど、本当に俺の力ではどうしようもないことばかりなので間違ってはいないはずだ。
 音も何もない空間で感じるのは自分の非力さだけ。
「止まれ」
 歩きだして間もないうちにまた相手の声が聞こえた。少しの刺を含んでいるようにも聞こえたのはそれが命令するものだったからなのか。とにかくどうしようもなかった俺は言われたとおりにするしかなかった。
 足を止めると元の無音の状態に変化する。目前にあるのは他の物よりいくらか大きな物質だった。昔は壁か何かだったのだろうか。
「何者かがいるらしい」
 普段と変わらないような口調で相手は話す。しかしその内容は落ちついて聞いていられるようなものではなかった。
 何者かとは誰のことだろうか。脳裏に浮かんでくるのは俺の捜している人々の顔ばかり。そのうちの誰かならいいのに、と勝手に期待してしまう。
「お前はそこで待っていろ」
 短い命令の後、相手は足を踏み出す。俺が見ている中、壁の裏側へ回りこんでいった。
 再び訪れるのは沈黙。
 しかし今度はそれは長くは続かなかった。すぐに相手ともう一人の声が響いてくる。
「こんな所で何をしている?」
 最初に聞こえたのはスーリのもの。やや呆れたような口調をしていたのでおそらく話し相手は彼の知っている人物なのだろう。では彼の知り合いの人物とは誰なのか。それだけで思い当たるのはまず一人しかいない。
 あの人なのだろうか。
 少し緊張してきた。ここから逃げ出したいような気がした。でも足は動かなかった。まるで魔法か何かをかけられたように意志に関係なく動けなくなっていたのだ。
 いや、意志は関係あるのかもしれない。だってそうだろ、俺は何のためにここへ来た? 全てを明らかにするために来たんだろ。あの人に会えば何かが分かるかもしれないと心の底で期待があって、そのために逃げたい思いと衝突しているんじゃないだろうか。
 しかしその思いはすぐに無駄になる。
「どこにいても構わないでしょ」
 なぜなら聞こえた声はあの人のものではなかったから。
「確かに俺に全てを決める権利はない。だがなぜここにいる? どうやって忍び込んできた?」
「忍び込んだだなんて人聞きの悪い。珍しい場所があったら行きたくなるのは当然のことじゃないですか」
「何が当然だ」
 壁の向こうで会話が繰り広げられている。一人はスーリ、もう一人は――。
 おかしいよな。明らかに変だ。どうしてスーリがあいつと、いやなぜあいつがスーリとあんなに普通に話しているんだろう。そもそもそれ以前になぜあいつがここにいる?
「そういえばあなたって誰ですか?」
「下手な芝居はよせ」
「――誰も芝居なんてしていませんよ」
 常人より少し高い声。相手に対する敬意がまるで見えてこない敬語口調。そんな話し方をするのは一人しかいないのでもうお分かりだろう。
 やがて壁の向こう側から青い髪の青年が姿を現す。それに続いて現れたのは自称武器商人の少年だった。一瞬だけ相手と目が合う。
「どうやって入ったかは知らないが出ていってもらう」
 ラスの腕を掴んだままスーリは短く言う。彼の口調は先程までのものと違って少し落ちつきがないように思われた。なぜだかは容易に推測できる。こんなろくに戦いもできない一般人があの扉を開けられるなんて誰も予想できないだろうから。
 しかし俺には思い当たる節があった。こいつは俺たちが扉を開けようとした時にさっと姿をくらました。もし俺たちが扉をくぐっても扉が消えないのだとしたら、こいつがこの世界へ来ることはかなり簡単なことになる。でもこの世界に来たいなら一緒に扉をくぐればよかったものをなぜラスは一人でおこなったのだろうか。
 聞いてみたいことがあったけどその願いは叶わなかった。今この場にいるのは俺とラスだけではない。俺が最も恐れているような人物が俺の中の自由を奪い取っているから。
「お前はこいつの知り合いか、樹」
 ふいに質問をされる。
「知り合いと言えばそうなんだろ」
 短く答えてやるとスーリは少し黙った。どうやらこの人は黙ることで何かを考え始めているらしい。目の中の光がぼんやりとしていることからも分かるように、考え始めると周りが見えなくなる癖もあるようだ。
 ちらりとラスの方へ視線を向けると、相手は黙ってにこりと笑顔を作った。あまりにも場違いな笑顔にどう反応していいか困ってしまったが、とりあえずそこは笑って誤魔化しておくことにした。
「ねえ、あなたの名前を僕は知りませんよ」
 笑い返した後、ラスは唐突に口火を切った。そこまでして相手の名前を知りたいのかと思ったが、俺が口出しできるような状況じゃないので黙って傍観していることにする。
 考えを中断させられてもスーリは少しも怒らなかった。金色の髪の少年に顔を向けて一つまばたきをする。
「スーリ・ベセリア」
 答えたのは自分の名前だった。
 だけど、俺は初めて彼の本名を知った。
「もういいだろう。もう知りたいことは何もないだろう。この世界には何もないんだ。これ以上知るべきことがどこにある?」
 確かにこの世界には何もない。だけどラスのことだ、きっと何かしらの思いがけない答えをする筈だ。
 ラスは相手の顔を見上げながら短く答える。
「歴史です」
 一瞬だけスーリの目が険しくなった――気がした。

「なぜこの世界に色がないのか。なぜこの世界は崩壊したのか? 考えれば考えるだけ疑問は浮かんでくるばかり。それを追究したいと思う気持ちは誰にでもあるものでしょう? 分かっていないのはあなたですよ、スーリさん。それから、ねえ、樹さん。僕はあなたに伺いたいことがあるんです。あなたが何のためにこの世界に来たのかは問いません。ですが、あなたはこの世界ですべきことを見失っているように見えます。自らのすべきことを見失うのは愚かなことです。愚かになりたくないなら自分で答えを見つける他はないのです。見つからないなら誰かに聞くも良し、諦めるも良し。ですが覚えていてください、諦めたり誰かに聞いたりしたらあなたのことだ、生涯ずっと自分を責め続ける結果となるでしょう。もしそうなりたくないのなら、あなたはあなた自身で全てを片づける義務がある」

 いつものものとは打って変わった言葉は俺に向けられていた。
 何が言いたいのかは分かる。分かるし、俺がしなければならないことも教えてくれたのはよく理解できる。
 だけど。
「だったら、どうすればいいんだよ」
 相手の顔を見ることはできなかった。下に俯いたまま地面をじっと睨みつける。
「あなたの目的がこの世界にあるのなら、自分でこの世界を見てみるしかないでしょう」
 分かってる。分かってるよそんなことは。
「たった一人で何が分かるっていうんだ」
 出てくるのは相手の意見を否定するものだった。皮肉にもそれが本音なので俺はそれを止めることができない。
「何もしないうちに決めつけてどうするんです」
「無理なものは無理なんだよ!」
 自分でもよく分かる。俺は今、とんでもなく情けない姿をさらしているんだろう。
「お前なんかに俺の気持ちが分かるもんか。こんなわけ分かんねえ世界に来いと言われて、来てみたら誰もいなくなってたった一人だけ放り出されてて。その上俺だけで真実を突き止めろだと? 強制もいいところだ!」
 黙っていた分、言葉となって現れるものは大きかった。
 情けなすぎて自分が嫌になる。
「だ、誰も強制なんてしていませんよ。僕はただ、あなたにあなたのためになることをして欲しいだけであって――」
「言い訳なんて聞きたくない」
 悪いのは俺じゃない。ましてや相手でもない。
 悪いのは、この世界だ。
「俺、俺は」
 俺は何なんだ。
 知りたい。聞きたい。誰か知っている人にとことん聞いてやりたい。聞いて、自分の頭で理解して。理解できるものでなかったら理解しようと努力だけでもして。それだけの覚悟なら持っているはずだったのに。
 どうして俺は知りたいことを素直に聞けないんだろう。知っている人は、目の前にいるというのに。
「樹」
 静かに呼ぶ声は今まで黙っていた人のものであり。
「お前が知りたいことは何だ」
 知りたいことは。
 知りたいことは。
「……自分の、こと」
 傍にあいつらがいなくてよかった。いたらきっとこんなこと言えなかっただろうから。
「どうする? 俺はお前のことを知っている。お前は俺から聞いて満足できるか?」
「そんなこと知るかよ!」
 満足できるかできないかなんて、その時になってみないと分からないことじゃないか。それを今から判断しろなんて不可能なことを聞いてほしくなんかない。
 だけど頭をよぎるのは先程の少年の言葉。それを言っていた相手は静かに口を閉ざして俺の姿をじっと見ている。
「質問を変える。お前に全てを受けとめられるほどの覚悟はあるか?」
 どういうわけだかその『覚悟』という言葉が重く頭の中に響いてきた。
『それだけの覚悟なら持っているはずだったのに』
 自分で考えた言葉が反響する。
「構わないさ」
 出てきたのは自分でもはっとするような台詞だった。
「どんなことを言われたって、傍に誰もいないなら何だって構わない」
 強さなんて微塵もない言葉だった。強いて言うならば、これは強がりだ。見栄張りだ。
「充分だ。いいだろう。お前に、全てを託すことにする」
 最後に聞こえた声の中に静かな感情が宿っていたことに俺は気づかない。

 

 

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