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74

 自分でも分からないほど真実はあっさりと受け入れることができた。そりゃあ確かに知りたくもなかったような内容だったけど、納得できる部分が多かったからなのか、妙に思えるほどあっさりしたものだった。
 再び目を開けると先程までの怒りや混乱や悲しみは消えていた。
「…………」
 それでもなぜだか言葉を発することができない。
 向き合うのは俺に全てを告げた人の瞳。それはあまりにもまっすぐなものであり。
「樹」
 相手は俺の名前を呼んだ。返事はしなかった。
「友達に会いたい?」
 聞かれてから少し考える。
 俺が出した答えは。
「今は会いたくない」
 嘘は言わなかった。嘘を言うだけの余裕がなかった。
 会いたくなかった。本当は会いたくて仕方がない。だけど会ってはいけない気がした。会ってはいけない気がしたんだ。
「どうして?」
 聞いてくる奴も聞いてくる奴だと思う。
「だって」
 それでも答えてしまう自分がいて。
「だってさ。あいつらって、俺のせいでこんなことに巻き込まれたんだろ。俺をここまで連れてくるために操作したんだろ。何も知らないからって会うような真似はできない。だから今は会いたくないから」
 スーリは黙って俺の話に耳を傾けていた。やはり相手の心持ちは少しも見えてこなかったのだが。
 もう一つ妙なことに、相手から先に視線をそらしてきた。
「なあ、スーリ」
 思えば相手の名前を口に出したのは久しぶりなことだったかもしれない。
 もう何も聞くことはない。いや、もう何も聞きたくない。
「俺の世界へ帰してくれよ」
 相手は俺の目を見た。感情のない目だった。だけど俺にはとても哀しそうに見えた。
「帰るだって? 何のために? お前は一時期は向こうで過ごしていたがもう帰ってきたんだ。お前はこれから一生この世界でこの世界のために生きなければならない」
 飛んできたのは否定する言葉。だけど俺だって。
「俺はこんな世界にいたくない。早く帰りたい。俺がこの世界のために生きる理由がどこにある? こんなちっぽけな、こんなくだらない世界は俺は大嫌いだ!」
 そうだよ嫌いだ。こんな世界なんてなければよかったんだ。なければ俺もあいつらもダザイアって奴も生まれてこなかったのに。こんな世界なんて最初からなければ何の問題もなく、あいつらを巻き込むことだってなかったのに――、
「お前がこの世界を嫌おうと愛そうと関係ない。お前はこの世界のためだけに生まれてきた。他のものに奪われてはならないんだ。お前の存在理由は生まれた時から決まっていたんだ。――もう少し話をする、ついて来い」
 早口に言った後、相手は腕を掴んできた。無理矢理強い力で引っ張られ、俺には少しも抗うことができなかった。ただよろめきながら引っ張られてついて行くだけ。
 無言になったスーリはどんどんと扉をくぐり、俺は奥へ奥へと連れていかれた。本当にわけもなく部屋が多い建物だった。どのくらいの数の扉をくぐったのかなんて多すぎて数えられない。だけど妙なことに、どの部屋も似通っていて同じような部屋しかなかった。何もない部屋があれば紙と本が山積みになっている部屋もある。共通して言えることはどこも埃だらけだったということである。
 最後の扉の前でスーリは一度立ち止まった。そしてこちらを振り返ってきた。
「この先にお前の友達がいる」
 はっとした。ただそれだけだった。だけど徐々に胸に何かが詰まってゆくのを感じずにはいられなかった。
「会いたくないのかもしれないが、こちらから話しておかなければならないことがあるんだ。そしてそれはお前にも聞いていて欲しいから」
「待てよ」
「待てない。お前には拒否する権利はないのだから」
「待てよ!」
 自分でも大きな声を出してしまったのには驚いた。相手の顔を見上げると、なんとも形容しがたい表情の顔があった。
「どうしてそこまで嫌がるんだ」
 逆に相手は問うてきた。
 どうしてだって? そんなもの俺にだって分からないさ。確かに俺が巻き込んだから合わせる顔がないという思いもある。でも何か、それよりももっと大きな理由があるような気がするんだ。
 俺は『兵器』で『欠陥品』だから。
「あまりのんきにしていられないんだ。もう行こう」
 掴まれている腕に強い力を感じた。相手が動き出す。
「何を話すつもりなんだ」
 相手の手は扉に触れた。
「全てを」
 振り返りもせずに短く答えてくる。
 だけど俺は、頭の中が真っ白になったように感じられた。
 話される。知られる。あいつらに知られるんだ、俺の存在理由を。くだらなくってちっぽけで、でも最も愚かで馬鹿な俺の存在を知られるんだ。
 存在理由が。
 知られたらどうなる?
 ――決まってる。決まってるよ、もう。
「嫌、だ」
 掴まれていない腕は自由だった。そちらの手をのばして無意識のうちに何かに触れる。それをぎゅっと握って自分の方へと引き寄せ、気づけば俺は相手の服にしがみついて動作を止めていた。
「嫌だ。すごく嫌だ。言わないでくれ、お願いだからあいつらには俺のことを何も言わないでくれ。全てなんて話さなくていいから。あいつらは何も知らなくたっていい、あいつらは何も関係ないはずじゃないか。これは俺の、俺だけの問題なんだろ。だったらあいつらには知る権利なんてないはずだ。ないはずなのに、なぜ話そうだなんて考えるんだ。あんたはわけが分からない。そうだよ分からないんだ。どうして異世界で犯罪人になってたり、ダザイアに忠誠を誓ったりしているんだ。本当にわけが分からないのはあんただ」
 思ってもいなかったことが話すことによって新たに生み出されてしまったらしい。生み出されたものはもはや謎にしかならない。今の俺に謎を解くだけの力はなかった。積もってゆくそれはただ俺を破壊していくのみ。
「誰にも迷惑はかけたくないから。誰にも優しくしていたいから。ずっと信じていてやりたいから。だからこそ会いたいし話したいけど、それは迷惑をかけることにしかならないから」
 相手の動きは止まっていた。痛いほどの視線を感じる。
「それがお前の答えなのか」
 そうだとは言えなかった。
「他に何があるって言うんだ。俺はどうすればいい? 俺はどうすればいい? この世界のためじゃなくてあいつらのためにできることは何?」
 もう嫌だ。どうして俺だけがこんな思いをしなくちゃならないんだ。俺は普通でありたかった、ずっと皆と変わらない平凡な幸せが欲しかったんだ! こんなでたらめな設定なんていらなかったのに、こんな愚かな存在理由なんて求めていなかったのに! なぜこんなことになったんだ。俺の何が悪かったって言うんだよ! 俺は何も知らない! 俺は何も悪くない! 悪くないのに――。
 腕を引っ張られる感覚がした。扉の開く音が同時に聞こえてきた。引っ張られて無理に奥の部屋へ押し込まれる。
 ぐっと目を閉じた。なぜなら何も見たくなかったから。
 咄嗟に耳も塞いだ。もう何も聞きたくなかったのだから。
 暗闇と無音とが今の俺にはちょうど心地よいものに感じられた。ふと気づけば誰にも触れられていないらしかった。床の上に立ったまま少しも動かなかった。だけど誰かがずっと近くにいて動いている気配が感じられるような気がした。
 どこか遠くの方から何かを話す声が聞こえた。懐かしくも何ともない声。俺が求めてやまなかった声。大切に思っていたはずの人の声。いろんな声が薄く聞こえた。
 今は何を話しているんだろうとか、どこまで話が進んだんだろうとか、そんなことを考えているうちに時間は足早に経過していった。時間と共に無感覚になってきた。だんだんと意識が薄れていった。最後には何も感じられなかった。

 深い闇の中を一人で立っている。耳を塞いで何も言わずに独りきりで。誰の助けも求めてはならないし、誰の傍にいることも許されない自分。自分という存在。『兵器』と名付けられた欠陥品。心を持つ愚かな人形。
 怖れていたこと。愚かでちっぽけでも怖れていたこと。
 それは何? それは友だち。
 それが何? 知られたくない。
 知られたら? 嫌われる。遠ざかる。
 これは絶対。これは確実。

 なあ、なんでかな。俺って兵器なんだよな。
 兵器なのにどうして心を持ってるんだろうな。
 悲しいんだ。
 苦しいんだ。
 嫌なんだ。
 嫌なんだよ。
 嫌だ。嫌だ。
 もう嫌だ、やめて。
 やめて。これ以上巻き込まないで。
 これ以上俺のために犠牲にしないで。やめてよ。
 やめてよ。やめてよもう。話さなくたっていいじゃないか。やめてくれよ。
 やめて。なあ、本当にやめてよ。やめてくれたら何でも言うこと聞くからさ。
 何でもする。世界を守ることも、変革することも。だからやめて。
 だからやめて。やめて。やめて。
 俺の心を殺さないで。せっかく取り出した魂を消さないで。
 ごめん、やめて。ごめんな、でもやめてくれ。
 ごめんなさい、わがまま。ごめん、卑怯で馬鹿で愚か。
 だけどやめて。やめてよ、ねえ。
 ねえ。苦しくなくなりたい。悲しいのは耐えられないんだ。やめて。
 やめて。まだ笑いたい。笑っていたい。笑いたい。
 普通の生活をして笑いたい。
 馬鹿みたいに遊びまくって笑い転げたい。
 たまには勉強していい点取って喜びたい。
 どこかを散歩して空を見て微笑みたい。
 花が開く時、月が輝く時。
 それぞれの未来の時を俺はこの目で見たい。この目で見て、喜びたい。
 笑いたい。笑いたいよ。
 笑って、笑って、時には泣いて。
 何かに感動して泣きたい。
 悔しくってやるせなくて泣きたい。
 泣いて、喧嘩して、怒って。
 そして最後に仲直りしてまた笑いたい。
 微笑みたい。笑顔になりたい。誰かを幸せにしたい。
 まだ、笑いたい。
 まだ、生きたいんだ。
 生きたい。
 生きたい。
 ごめん、わがまま。ごめんな、でも言わせて。
 ごめんなさい。
 何に謝っていいか分からないんです。
 俺はまだ生きたい。
 死にたくないのです。
 誰かのために何かをしたい。誰かを幸せにするために笑っていたい。
 もしも俺の存在が邪魔だと言うなら、どうぞ消し去ってください。
 俺がいるから誰かを悲しませるなら、俺をどうぞ今すぐ消してください。
 俺はただの人形にすぎないんです。誰かの、何かのためだけにある心も必要ない道具なんです。
 利用するなら使ってください。だけど必ず良いことに使ってください。
 誰かを悲しませるようなことはしたくないのです。
 要らないならどうぞ消して。
 消して、殺して、無にして。
 それをあなたが望むならば――。

 

 ――――『あなた』?

 

 はっとした拍子に目を開けてしまった。目から涙があふれて流れた。視界がぼやけて何も見えなくなった。ぼんやりとしたように口を開いたまま、漫画みたいに流れる涙の冷たさをじっと黙って感じていた。
 次第に体中の力が抜け、その場にぺたんと座り込んでしまった。床は冷たい石だった。手は耳から離れ、床の上にだらりと下ろされた。
 ぱたぱたと雫が床に落ちる音だけが響く。周囲は異様なほど静まり返っていた。何も見えないので何も分からなかった。
「樹」
 静寂を破ったのは俺の名を呼ぶ声だった。
「ごめん」
「え?」
 相手は謝ってきた。なぜ謝ってくるのかなんてさっぱり分からない。
「嫌なのは分かってる。でも君はすごく震えているから」
 ずっと近くで聞こえる声は外人の、リヴァセールのもの。
 そして俺はやっと相手に手を握られていることに気づいた。
「泣かないで、樹」
 俺は握られた手を握り返す。
「みんなとても悲しいよ」
 涙は少しも止まらなかった。
「全員ここにいる?」
 ようやく絞り出した声は情けないほど震えていた。
「うん。君のこと心配してる」
「何を聞いた?」
 相手は静かになる。
 手に込められている力が大きくなった。
「ごめん」
 再び繰り返された言葉。その一言だけで充分だった。すごく納得できる答えだった。
「馬鹿。謝んなよ」
「ご、ごめ――」
 ふっと外人の手が離れた。それは決して俺を避けているものではなかった。俺にはなぜだか相手が口を手で押さえて涙をこらえている姿が見えた気がした。
「なんだよもう、もらい泣きしちゃったじゃんか。馬鹿樹」
「馬鹿ってひどいなお前」
 嘘だった。ひどくなんてなかった。だって本当に俺は馬鹿だから。
 でも喜んでいいかな?
 生きていいのかな、俺。
 俺が。
「話は終わったか?」
 冷たく降ってきたのは無機質な声。もう一度はっとし、その後には再びリヴァの手の温かさを感じた。
 ぎゅっとそれを握り返す。
「立て、ヴェイグ」
 抗う暇もなく。何も握っていない腕を掴まれて上へ引っ張られた。床から一瞬足が浮いた気がした。しかしすぐに地面を感じる。
「頭を覚ませ」
 続く命令。俺にはどうしていいか分からない。
 じっとしていると頬をはたかれた。後からじわじわとした痛みを感じた。
 涙は止まった。
「お前にはまだ話しておかなければならないことがあると言っただろ。頭が冴えたならもう話す。まだ冴えないようならもう一度」
 しっかりしてきた視界に初めて映ったのは青い瞳だった。一つまばたきをすると残っていた涙が下へ滑り落ちた。
 ゆっくり周囲を見回してみる。そこには外人がいて、アレートがいて、ジェラーとラザーもちゃんといて。全員が同じようにして俺の顔をじっと見ていた。
 こいつらは知った。俺の存在理由を知った。
 何か異なものを見るような目で見つめてくる。
「ははは……」
 ああそうか。知っちゃったんだな。
「あはははは……」
 もう何もかも壊れてしまったよ。
「あはは、あは、あはははは! あはははははは、はははは、はは、ははは――はは、あはははは!!」
 もう俺は樹じゃなくなったんだな。
 樹は兵器に成り下がったんだな。
 樹という存在は消えた。俺は今ではすっかりヴェイグだ。
 どうしてかな。それなのに少しも悲しさを感じないんだ。
 俺は――おれは望みを果たしたんだ。
 笑いたかった。だから笑っている。
 笑っている。
「話は少し過去へのぼる。力石と黒いガラスを使って『兵器』を作った後、その二つを封印する必要が出てきた。しかし封印と言えども普通のものでは何の意味もない。この二つの持つ力は普通のものよりもはるかに大きく、そして危なかった。だから絶対的な封印が有無を言わずに必要だったんだ」
 おれは笑いたいと望んだ。確かに笑いたいと望んでいたはずだった。
 だけどこれは何かが違う気がする。何が違うかなんてまだ分からないけど、こんなものは俺の望んでいたものじゃないのは確かなことだった。
「封印に必要だったのは三つ。一つは場所、一つは扉、そして最後に鍵。場所はいくらでもあった。扉は何でもよかった。問題なのは鍵だった。これはそこの、そこの――何だっけ、名前は忘れたけどそこのお姫様が関係していることだ」
 なんて失礼な奴。人の名前も覚えられないのか。おれは怒った。これもおれが望んだことだった。
「お姫様って私のこと?」
「そう、そう。名前は?」
「アレート・ガルダーニア」
「アレートか。じゃあアレート。お前が封印の鍵だったんだ」
 それを聞いておれはなんだか変な気持ちになった。少しぼんやりしているとその感情の正体が分かった。おれはほっとしていた。おれは安心していた。なぜなら自分と同じ境遇に近い人が傍にいたから。
 おれはまた泣きたくなった。それもまた望んでいたものだった。
「私が鍵ってどういうこと」
「お前はヴェイグや俺たちとは違う。お前は普通の人間だった。俺とシンはダザイア様に命じられてお前をアユラツの世界へ連れていった。本当なら誰でもよかったのだけど一番最初に目についたのがお前だったんだ。それになぜだかシンがひどくお前のことを気に入ってしまったから。
 鍵は何かの中に隠しておく必要があった。そしてそれはヴェイグのような作られたものの中に入れることは不可能だった。どうしても普通の命が必要だったんだ。だから俺とシンは扉をくぐって別の世界へ行った。二人ともまだ子供の姿をしていたから子供であるお前を連れてくるには充分だった」
 なんだ。おれは必死であらゆるものを望みながらもすでに持っていたんだな。気づかなかったなんてとても馬鹿だ。
 だけどそうだとしたら、望むものが全て手中にあると知ったらその先に求めるものは何?
「連れてくるとまずお前の中の記憶を消しておいた。そうでなければすぐに帰りたいと思ってしまうから。そして鍵を体内に入れた。あまりにもあっけなく成功したから気が抜けてしまいそうだった。
 しばらくしてヴェイグが完成した。出来損ないとも知らずに修行を始めた。それにはお前も加わったんだ。お前は鍵のせいで本来持っている魔力が失われたので俺と同じようなものだった。
 そして最後にお前はヴェイグに巻き込まれた」
 嫌なことを言う人だった。過去の話なんて何も覚えていないんだからどうでもいいじゃないか。それをわざわざ掘り起こすなんて愚かにもほどがあるだろ。早く気づいてしまえよ。
 おれの中の『俺』は消えた。ようやく消えた。やっとすっきりしたんだ。これほど嬉しいことが他にあるだろうか?
 おれの名前はヴェイグ・ベセリア。世界を変革する出来損ないの兵器。

 

 

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