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75

 暗闇の中に一人だけ取り残されていた。
 この闇はいつだったか見たことがある気がする。
 ああ、どこだったっけか。思い出せそうなのに思い出せない。
 誰か早く俺を解放して――。

「私、樹と同じだね」
 ガルダーニアのお姫様は隣から話しかけてきた。おれにはどうでもいいことだった。だけど無視しようにも周りが許してくれそうになかったので仕方なく返事をすることにする。
「同じじゃない。お前は人間だけどおれは兵器なんだから」
「そんなこと分かってるよ」
 分かってるならくだらないことを言うな。嘘の見える同情なんていらない。
 それにおれは少しも悲しくなんて思っていないのだから。
「スーリは私の中から記憶は消えていると言うけど、ここへ来てぼんやりと思い出したことがあるんだよ」
「ふぅん。何を?」
 もっともおれには全ての記憶があるんだけどな。
「リンゴの木と歌」
 ああ、あれのことね。思い出したのか。


 何分か前のこと。まだ途中だった話をスーリは切り上げた。そしておれとガルダーニアのお姫様だけをこの場に残してどこかへ行ってしまった。かなりいい迷惑な話だ。なんでおれがこいつと一緒にいなくてはならないんだよ。
 そういえばおれの中にいる樹のために説明しておこうか、こいつのことを。あの馬鹿なお人好しは知らないだろうから。
 こいつはアレートと名乗っているがこの世界ではウィーダと呼ばれていた。しかしだったらウィーダが本名なのかと聞かれたらそうではない。なぜならこいつは別の世界から連れてきた子供だから。
 ウィーダは力石と黒いガラスを守る鍵。正確に言えばその鍵を体内に取り込んでいる。
 だからアユラツにとってウィーダに倒れられるのはまずいことだった。もしこいつが死んだりしたら鍵はどうなるか分からない。そういう理由もあってウィーダもおれや兄貴たち――つまりスーリやシンと共に修行をしていた。
 しかしその生活も中途半端なところで終わりを迎えた。一番の理由はシンだった。あいつのせいでダザイアやスーリの計画は狂い始め、おれは消されて樹が現れたんだ。
 シンは自らの存在理由を否定していた。ちょうど今の樹と同じような意見を持ち、その気持ちを全ておれに向けてきた。おれはされるがままになっていた。おれは欠陥品だったからシンに敵うはずがなかったから。しかしそれだけで終わることはなかった。
 おれが見たのはシンの後ろ姿。スーリやウィーダがいない隙に力石と黒いガラスを封印している場所へ向かっていた。おれは不思議に思って後を追いかけた。
 扉の前であいつは立ち止まった。おれもそこで足を止めた。しばらくそのままで時間が経過した。それからシンはこちらを振り返り、まっすぐおれの元へ歩いてやってきた。
 まず最初に蹴られた。おれの身体は吹き飛んで後ろの壁にぶつかった。痛かったけどいつものことだった。むしろいつもよりましな痛さだった。おれは抵抗しなかった。いつものようにおとなしくしていようと考えた。
 何度も何度も蹴られた。踏みつけられた。だけど痛いはずのおれなんかよりもシンの方がよっぽど苦しそうな顔をしていた。
 今度は胸ぐらを掴まれ足が宙に浮いた。シンの瞳は今までにない光を放っていた。呟くようにあいつは言う、お前なんかがいるから俺は生きているんだと。
 シンはおれの首を締めた。息ができなくて苦しくなった。だけど次第に相手の力が抜けていく。最後にはおれは地面の上に落とされていた。何事かと顔を上げると、そこにあるはずのない力石と黒いガラスの魔力が渦巻いていた。そしてシンの右目から赤い血が流れていた。力石と黒いガラスがおれを守ったということだ。
 守ったまではよかった。よかったがシンはその魔力を見ても少しも動じなかった。逆にその力を利用してしまった。ずっと閉じられたままだった世界の扉を開き、おれをその中へ放り込んだ。その時に相手の手がおれの頭の中から記憶を奪い去った。しかしおれの中である変化が起きた。
 おれの心は幾つかに分離された。まず記憶なんて少しもない樹の心。樹の中に閉じ込められた記憶を持っているおれの、ヴェイグの心。そして完全に分離して別の存在になったヴェインの心。
 おれが飛ばされたのと同時にシンはウィーダも同じようにして飛ばした。それに気づいたスーリは本の中のダザイアと計画を練ったらしい。その計画の内容とは、おれとウィーダを強くするためにスーリとシンが悪役を演じるというものだった。
 シンはおれとウィーダを飛ばした後すぐに自分もアユラツから出て行った。どんな目的があるのかは今も知らない。スーリは何度かシンに会いに行ってダザイアとの計画を押しつけようとしていたが、シンはそれに反発して逆に善人になろうとした。つまりあいつは偽善者になったんだ。
 後はいくら馬鹿なお人好しでも知っているだろう。この目で今まで見てきたこと全てがこの世界のおれの存在に繋がっていたんだ。


「ねえ樹?」
 隣にはまだガルダーニアのお姫様――ウィーダがいる。こいつは昔とあまり変わらない。変わったところといえば気が小さくなったことくらいだろうか。
 おれの姉にあたる存在。それがウィーダ。
「本当は私ね、自分がガルダーニアの王族じゃないってことは知ってたんだ」
「なんで? 誰かに聞いたとか?」
「ううん、そうじゃなくて。なんとなくだけど分かってたの」
 ひどく曖昧な答えを言ってもウィーダは確信を持っていたらしかった。自分の立場に少しでも気づいている点から言えば樹よりも上だ。やっぱり樹は欠陥品だったから? どうなんだろうか。
「だからなのかもしれないけど、私が鍵を持った人だって聞いてもあまり何も感じなかった。ただぼんやりとああそうなんだ、って思っただけだった」
 ふっと視線を感じる。横に目を向けると相手の瞳がこちらを見ていた。
「あなたどう思う? 私って愚か?」
 ……へぇ。こいつでもこんなことを考えるのか。
 だけど答えは決まってる。お前は。
「愚かじゃない」
 ――え?
 何を言った? おれは今、何を言ったんだ?
「アレートは愚かなんかじゃない」
 いや違う。これはおれの声だけど俺の言葉じゃない。
「愚かなんかじゃない。愚かなのは、本当に愚かなのは俺の方だ」
 これは、そうか、樹の言葉だな。
 おれの体を使いやがって今更何を言っている?
「樹? どうした――」
「黙れ!」
 相手の声を制して立ちあがる。そのまま何も言わずに部屋の中から外へ出た。
 いくつもの扉をくぐって建物の外へ出る。外は相変わらず白と黒だけの空間だったが、それでもひどく懐かしくて嫌ではなかった。
 なあ、おい。ふざけた真似はするなよ? お前は元々は存在しないはずの心なんだ。おれが戻ってきた以上この体はおれのもの。お前が勝手に使っていい権利なんてないのだからな。
「――うるさい。俺は俺だ。お前なんかに奪われてたまるかよ」
 考えてもいないことが口から出てくるというのは気味が悪いものだな。
 さっさとくたばって消えろ。
「お前は俺じゃない。そして俺もお前じゃない。だから互いに互いの行動を決めることなんてできないんだ」
 だったらそうやっておれの体を使うのをやめろ。この体はおれのもの。お前のものなんて何も残っていないのだから。
「いいや、残っている。そしてそれをお前が奪おうとしている。もし奪ってしまえば俺はお前を許せなくなるだろう。だから今のうちに俺と交代してくれ」
 馬鹿げたことを。お前に何が残っている? お前の持っていたものはもう何もないじゃないか。お前の言うとおり全ておれが奪ってしまったのだから。それとも何だ、お前のその心までもおれが奪うと思っているのか?
「そうじゃない。もしお前が俺の心を奪おうとそんなことはどうでもいいことだ。俺の心なんてそんなに価値があるものじゃないのだから。だけど俺が俺としていられるこの時にお前なんかに奪わせはしないものがある」
 だからそれは何だと言ってるんだよ。ありもしないことをいかにもありそうに言うのはやめろ!
「ありもしないことなんてない、ちゃんとこの場に存在するのだから。これは忠告なんだよヴェイグ。もしあいつらに手を出したりしたらその瞬間にお前の存在を消してやるって言ってるんだ」
 あいつら。
 あいつら――ああ、お前のお友達のことか。
 大丈夫さ、おれには必要のないものだから。頼まれたっていらないものだ。
 そもそも他人と仲良くすることなんて愚かなことなんだよ。最後には一人で生きなければならないのになぜ自分の力で解決しようとしない? そのために人は弱くなるんだ。一人で生きる力を失ってしまう。そんな馬鹿みたいな奴になったらおしまいさ。自分で何か事を成すことも忘れたくだらない存在になっちまうからな。
 そうさ、くだらない――、
「くだらない? くだらないのは」
 お前だろ、ヴェイグ。
「な――お前」
 やっと取り戻した。やっと戻ってきた。解放された、自由になった。
 もう俺はおれじゃない。俺は俺。
 俺の名前は川崎樹。平凡高校生。
 平凡で馬鹿だけど、他人を馬鹿だなんて言う奴なんかよりよっぽどましな奴だと思っている。
 なあヴェイグ。
「また閉じ込める気なのか」
 お前の負けなんだよ。
「また暗闇に捨てる気なのかよ!」
 どうとでも言うがいいさ。お前は俺に負けたんだ。
 二人いる限りどちらかが負けてどちらかが勝たなければいけない。そうでなければ俺の使っているこの体に失礼だから。両方が勝ったり負けたりしたらこの体は死ぬだろう。それはこの上なく迷惑なことだから。
 でもさ、俺思うんだ。
「おれのどこがいけないって言うんだ! おれならこの世界を守る兵器になれる! お前みたいな甘ちゃんな考えは少しも持っていないんだぞ!」
 これってすごく哀しいよな。
 これってすごく痛ましいよな。
「お前みたいな奴が兵器になんてなれるものか。おれの方が兵器にふさわしいんだ」
 なんで俺ってこんなに哀しい魂なんだろう。
 どうして俺って分離して生まれてきたんだろう。
「おれはそんなくだらない感情に流されはしない」
 そういうことじゃないんだよ、ヴェイグ。
 お前は何も分かっちゃいない。お前は、いや、あんたは勘違いしてるんだ。
「勘違い? そんなもの」
 俺は兵器になるつもりはない。
 俺は兵器になるつもりはない。
「何を言って――」
 もう一度言う。俺は、
「俺は兵器になるつもりはない」
 ああ、声が出た。
 俺の声が出た。俺の言葉が出たよ。
 やっと。
「ごめん、ヴェイグ」
 それでも俺は俺として生きていたいから。
 だからごめん。
 ごめん――。


 引き返すとそこにはスーリだけが立っていた。
「解決したか? 樹」
「おかげさまで」
 無理な笑みではなく自然なものを作ることができた。それだけ気持ちが落ち着いたということなんだろう。
「あいつらは?」
「奥で待っている。――会いたいか?」
 この質問も二度目だな。前回はあっさりと断ってしまった。最後には結局会わされてしまったけど本当に会いたくなかったんだよな。
 でも今は。
「会いたいよ」
 今はもう違う。なぜなら俺は、俺の中の暗い気持ちに打ち勝ったから。
「じゃあ会おう。会って話をしよう。そしてその後にはお前の意見を聞かせてくれ、樹」
「何だよそれ。あんたも混ぜてほしいの?」
 冗談半分に聞いてみた。それほど相手の態度が今までのものより砕けていたんだ。とても話しやすいような親しみのこもった、そんな感じの。
「それもいいかもな。混ぜてよ樹」
「え? どうしよっかなー」
 まるで友人とふざけるような会話が繰り広げられていく。そんな他愛ないことを繰り返しながら建物の奥へ奥へと引き返していった。
「そうだよ混ぜてよ。俺もお前たちの仲間に入れて――」
 足が止まった。相手の姿はどこにも見えなかった。
 ただ、感じたものは。
「スーリ、あんた……」
 後ろから俺の体に腕が回されているんだ。
 少しも温かくない無機質な腕。
「ごめん、少し黙っててくれないかな」
 かすかに震えていた。
 信じられないことではなかった。逆に、すごく安心できることだった。
 だってこんなことをしてくるっていうことは相手にも心があるっていうことだろ? 相手にも心があって、迷ったり悩んだりして分からなくなったから俺たちに混ぜて欲しいだなんてことを言ってくるんだよな?
 いくら忠誠を誓ったと言っても所詮は違う心だもんな。当たり前だ。
 相手の癖のある髪が頬に触れる。
 何もかもが冷たかった。だけど俺はこの人はとても温かいと思った。
 静かな後ろからの抱擁。兄という名の温かみ。
 人らしい素直な気持ち。
「できることなら、君を傷つけたくはなかったんだ」
 ああ、この人も耐えていた。
「そしてこれからもずっと仲良く平和に暮らしていたかった」
 この人も何かに耐えていた。必死になって耐えていた。
「許してくれないかもしれない。だけど俺はずっとずっと――」
 耳元から聞こえる声は無機質なものじゃなかった。とても大きな感情を含んだ人らしい声だった。
「――ごめん」
 それなのに。
 やがて俺の意識は闇に呑まれる。

 

 データ入力開始。
 製造番号027、パスワード657982362。
 技術面、製造番号001のものをコピー。
 体内の魔力解放不能。新規データ挿入。
 右側の物質により精霊召喚呪文発動。詠唱文入力。
 呪文使用法、製造番号002のものをコピー。
 視覚、異常なし。聴覚、活性化。
 削除物確認。全意識、思考削除。
 パスワード再入力。
 確認完了。
 削除作業、一時間使用。これより開始。
 データ入力終了。

 

 頭に響く機械音。
 止まったかと思うと俺の中から多くのものを奪い去った。
 ずっと近くで人の息を感じていたけど、機械音が止まるとどこかへ行ってしまった。
 たった一人だけ取り残される。だけど目を開くことも体を動かすこともできない。
 俺は独り。
 独りぼっち。
 救いようのない孤独。
 孤独。
 コドク――……。


『言っただろ? 君の、勇気と正義を見るって』
 俺の中の記憶が消えてゆく。
『記憶がないんだよ』
 俺の中の感情が消えてゆく。
『私は二度と戦えないのよ』
 俺の中の心が消えていく。
『ぼくは自分が分からないんだ』
 俺の中の全てが消えていく。
『ぼくが孤独にはさせないから。きっと傍にいてあげるから』
 俺の中の俺は、消えた。

 +++++

 我は名を持たない。
 肩書きは兵器だったが我は欠陥品。
 我は私。
 私は排除する。主の邪魔をするもの全てを。
 心など私に必要ない。早く消し去ってしまえばいい。
 私はわたくし。
 わたくしは愚かだった。他人の声に耳を傾けすぎていた。
『――樹』
 このように、このように。わたくしはもう騙されはしない。
 わたくしは自分。
『樹、いつ……き』
 自分を呼ぶか。自分に名などない。
 名など必要ないのだから。
 自分は僕。
『何を考えてるの? 早く目を覚まして』
 僕に命令するのか。命令してもいいのはあの方だけだ。
 あの方に従えば救われる。
『あの方だって? 従うだって? 本当に馬鹿なことしか考えられないんだね、君は』
 僕を卑下するのか。
『卑下でも何でもするよ。君は、いや、今の君はこの上なく愚かだから。君は自分の存在理由を知りながらも自分として生きたかった。違う?』
 自分として生きる? そんなことはありえない。不可能だ。
『不可能だとかそんなことはまだ分からないじゃない。どうして何もしないうちに全てを決めようとするの』
 決まっているのさ、全てはずっと昔から。
 これは変えられない運命。
『変えられないなんて言葉――』
 僕はおれ。
 おれはあの方のためだけに有る兵器。
 おれはあの方を守るべくして生まれてきた兵器。
 おれは兵器。
 おれは。
『どうでもいいから早く起きてよ樹! 起きて、起きろったら!』
 おれは――何?
『樹は、樹だろ! それ以外には何もない。何もないんだから!』
 おれはイツキ?
 イツキはおれ?
 おれは、俺は樹?

 

 俺は誰?
 樹は誰?
 たくさんの人が呼んでいる。俺に向かって樹と呼んでいる。
 今だけじゃなく昔も呼んでいた。じゃあ本物はどちら?
 俺は樹? そうじゃない。
 俺は兵器? そうでもない。
 だったら俺は何? 人でもない、兵器でもない、樹でもない。
 俺を樹と呼ぶ声。俺に向けられた声。
 名前。
 区別するための番号。
 それが樹。俺にとっての樹。
『樹は、樹だろ! ――』
 分からない。俺は何?
 俺の中の樹って何?
 俺ノ中ノ――。


「樹! 樹ってば!」
 ダレカガオレノナマエヲヨブ。
 デモドウジニワカルンダ。オレガオレデナクナッテイクコトガ。
「そうだよ君が君でなくなっていく……嫌だろ、そんなの?」
 ワカラナイ。アタマデカンガエルコトモデキナクナッテキタカラ。
「君が分からなくともこっちではちゃんと分かるよ」
 ソッチガワカッテモイミガナイ。
 シコウガキエテイクンダ。
「まだ間に合う。だから早く目を覚まして――」
 モウイインダ。
 モウオレハツカレテシマッタンダ。
「疲れたなんて言ってる場合じゃない!」
 イキルコトニ、カンガエルコトニツカレタ。
 ヒトトセッスルコトニツカレタ。
 タタカウコトニツカレタ。
 シンジツヲウケトメルコトニ、ツカレタ。
 ダカラモウネムラセテクレ。コノタマシイヲヤスマセテクレ。
「樹、君は……」
 ドウシテオマエハソウヤッテオレノナマエヲヨブンダ。
 ナゼオマエハオレノジャマヲスルンダ!
 ジャマヲスルナ! オレガキエルジャマヲスルナヨ!
 オレノコトナンテステテオケバイイジャナイカ、オレノコトニカカワッテクルナ!
 キエロ……オマエガキエロ!
 オレヨリサキニキエテシマエ!

 

 ミセテヤル、改造サレタ兵器ノチカラヲ。

 

 

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