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76

 どれくらいの時間が経過したか分からない。
 何かが俺の心の中に入り込んできたような感触があったのは覚えている。
 だけどそれだけで、その後はどんどん意識が薄れていっただけで。
 再び目を開けることができたのは、誰かが俺の名前を呼んでいるような気がしたからだ。
 目前に広がるのは暗闇。それと一人の人物。
 俺の前に立っていたのは――。

 

「――止まった。やっと、やっと止まった」
 そいつは柄にもなく息を荒げていた。少なくともこいつのこんな姿は一度も見たことがない。
「やっと止まってくれた、樹。やっと」
 同じことを繰り返して言う。やっぱりどこか変だった。
 この場にいるのは藍色の髪を持つ少年ただ一人。
 そう。俺はずっとこいつに呼びかけられていたような気がするんだ。だけどそれに答えることはできなかったんだと思う。なんか、頭がぼんやりしててよく覚えてないんだけど。
「あ、ジェラー」
「え?」
 呼びかけたら変な顔をされた。なんだか驚いているようにも見える。俺、何か変なことでも言ったか? さっぱり分かんねえ。
「あ、いや……。君、もう大丈夫なの?」
「は? 何がだよ」
 相手は一体何を聞いているのか。心配してくれるのは嬉しいけどどんな理由で心配してくれているのかよく分からない。どこからどう見たって俺は大丈夫だっつの。
 いや、そうでもないか。さっきまで意識なかったんだもんな。心配されて当たり前なんだろうか。また迷惑をかけてしまったのかもしれない。
「はあ……。大丈夫ならいいよ」
 疲れたように少年は息を吐く。そんなことをされても困るんですが。
 っていうか、ここはどこ? なんでこんなに真っ暗なんだよ。俺って確か建物の中にいたはずだろ。それがなんでこんな――、
「あれ?」
 ちょっと待てよ。何か変だ。いや、何かを忘れている気がする。
 何を忘れた? 何を忘れた? 思い出せ、思い出せ。
 思い出せよ。
 思い出したいのに。
「無駄だよ」
 思い出せったら!
「無駄なんだよ! 君は記憶を蝕(むしば)まれたんだ!」
「どうして!」
 思わず叫んでいた。納得いかなかったから。
 じっと見つめてくるのは藍色の瞳。
「――あ」
 え?
 見せられたのは表情。顔に浮かんだ感情はとても悲しそうなものだった。
 あまりにも唐突で予想もしなかったそれによって俺は何も言えなくなる。
 痛い。すごく痛い。
「僕は間に合わなかったんだよ」
 少年はさっと顔を伏せた。瞳と同じ色の髪によって相手の顔が見えなくなる。
「ここは精神の世界」
 次に口を開くと聞き慣れない単語を言ってきた。
「精神? 精神って何の――」
「君の心の中」
 俺の心の中。
「君は心を読まれるのを嫌っていたよね。それなのに入ってきたことは謝るよ。だけどこうでもしなければ君を止められなかったから」
「だから何なんだよ、その止めるとか止まったとかってのは」
 問いを投げかけるとジェラーは黙った。自分から話し出したのにその先を言いたくないようにも見えたが、俺としてはそんなことをされるのは迷惑なことだった。だってそうじゃないか、何も分からないんだから誰かに聞くしかできることがないだろ。
「樹」
 顔を上げないままでジェラーは言う。
「この世界から出られる?」
 とんでもなく単純な質問だった。
 だけど。
「精神の世界から出るってことは、目を覚ますということなのか?」
「そう」
 目を覚ます、か。
「あのさ」
 それならばその前に知っておかなければならないことがある。相手は知らないかもしれないけど聞いておかなければ気がすまないことがあるんだ。
「俺の記憶が蝕まれたって本当?」
「あ――」
「いいから。怒んないし嫌わないから」
「……うん」
 相手はやはりおかしかった。いつもの様子とかけ離れすぎていた。冷静でもなければ無感情でもない。そう見えてしまうのはここが精神の世界だからなのだろうか。
「君が覚えていることを言ってみて」
 いくらか落ち着きを取り戻したように見えたが本当にそうなのかは分からなかった。だけど俺にはどうすることもできないし何も分からないから言われたとおりにするしかなかった。
 俺が覚えていることか。覚えているのは――。
「ラザーと玉を探しに遺跡みたいな場所へ行ったよな。そこで玉を見つけたけどなんか気を失っちまって。結局そのままそっちと合流したんだっけ」
「うん。そうだね」
「それで扉を開いてアユラツに行ったけど俺は取り残されたみたいに皆とはぐれてて。精霊を呼んで一緒に捜したりしたけど闇の精霊と契約しただけだったな。それからヴェインに会って」
「うん」
「ヴェインに会ってから、どうだったっけか……あ、そうだったスーリに会ったんだ。スーリに会って話をしてたら街だった場所に案内されてたり。そこでなぜかラスに会ったりもしたんだったなぁ」
「そうなんだ」
「でもラスとはすぐに別れてスーリに建物の中へ案内されてさ。すごい埃だらけで椅子に座るのも一苦労だったんだ。落ち着いてから何を言われるのかと思ったらいきなり俺の本名で呼ばれてさ、それからこの世界の過去話が始まって」
「うん」
「ダザイアという人の存在、世界を滅ぼそうとした少年。いろんなものが俺の頭を支配していくようで怖かったのかもしれない。立て続けに俺のことも知らされた。アユラツのために作られた兵器だということ。シンのせいで欠陥品になったということ。最初は他人事だと思って聞いていた話が、なんだかどんどん俺の中の何かに共鳴していって、それが何なのかまだ分からないときにダザイアに会わされた。そこで聞いたことも俺の中の何かがちゃんと知っていて」
「うん」
「あいつが、ダザイアが俺の存在理由は世界を変革することだって言ってきたんだ。俺、なんだかそれがとても許せなくて、なんで自分一人だけの意見だけで全ての生命の運命を変えなきゃならないんだろうって思って必死で、本当に心の底から必死になったんだ。そうしたら俺の中の何かが変わったように感じられて、でもそれが何なのかは分からなくて、気がついたらまた現実に呼び戻されていたんだ」
「うん」
「今度は誰にも会いたくなくなった。俺と関わるだけで、いや俺と関わる以前からこの世界の一人よがりな欲望に巻き込まれてしまうと知ったから。だから誰にも会いたくなかったのにスーリは皆のいる部屋へ俺を連れていった。俺は誰の顔もまともに見れなくて、目も耳も塞いで一人で自分を止めていた」
「そうだね」
「再び自分が戻ってくるにはとても時間がかかったんだ。俺の中にいるヴェイグの心が俺に語りかけてくるんだ。俺が兵器にならないならヴェイグが兵器になるというような事を平気で言ってきて。そればかりかあいつは皆のことまでいらないものだなんて言ってきてさ。俺、その言葉を聞いてかっとなった。本当に腹が立ったんだ。今まで俺を支えてきてくれてた人に対してそんなことを言うあいつが腹立たしくて、いつのまにかあいつの支配から抜けることができていたんだ」
「うん」
「それから、それからは確か――スーリに会ったような気がする。会って何か、何かをされてとても驚いたり痛くなったり大きなものを感じたような気がするけど……でもそこから何も覚えてないんだ。覚えてないんだ……」
 全ての言葉を吐き出し終えると、失った記憶の欠片を見たような気がした。
 結論は何の問題もなく導き出されたものだった。俺の記憶は確かに蝕まれていたのだ。覚えているようなのに少しも思い出せないんだ。思い出そうとしてもただ暗闇が見えるだけで鮮明な光が見えてこない。俺は本当に自らの記憶を失ったんだ。
「ジェラー」
 呼びかけると相手は一つ頷いた。
「分かってるよ。帰るんでしょ?」
「ああ。頼むよ」
 少年はまっすぐ俺の顔を見る。その表情には少しの感情の欠片も見えない。
「じゃあ目を閉じて――」
 言われたとおりにすると本当に真っ暗になった。
 そして。


 ゆっくりと目を開く。
 少しの希望を抱きながら目を開けた。暗闇の先にあるものは光であって欲しいと願っていたから。もっともそれは一人よがりの願望でしかないし、俺なんかが望んでいいものじゃないというのも分かっているのだけど。
 目を開くと体が自由に動かせることを感じた。どうやら俺はどこかで横になっているらしく、視界に映っているのは高いような低いような白い天井だけだった。
 ほんの少しだけ起きようかどうか迷ったけれど起きることにすぐに決めた。ここでずっと悩んでたってどうしようもないもんな。そんなどうでもいいことを考えながら体を起こす。
 体が浮くように感じられた。
「痛……」
 次に頭痛があった。思わず座ったまま手で頭を押さえる。
「大丈夫? 樹」
 すぐ傍から先ほどまで話をしていた相手の声が聞こえた。そちらに視線を向けると藍色の瞳が俺の顔を覗き込んでいる。
 何か答えようとしたけれどできなかった。なぜなら。
「とりあえず立ちあがって」
 少年の声に我に返る。そうだった、いつまでも座ってる場合じゃないだろ。
 ここはどこかの部屋だった。どこなのかと聞かれても困る。ただ一つ言えることは、扉の向こう側から誰かの話し声が聞こえるということだけだ。俺にはその誰かというのが誰なのかすぐに分かった。
『樹、聞こえる?』
 いつものようにジェラーは声を出さずに語りかけてくる。きっと扉の向こうの人のことを気にして声を出さないようにしているんだろう。
『聞こえたらちゃんと返事をして』
 別にそんなことしなくたってちゃんと聞こえるって。今までずっと聞こえてたんだから今になって急に聞こえなくなるわけないだろ。
 もしかしてこれって俺の魂が力石ってやつからできてるから聞こえるんだろうか。だとしたら今は皮肉にもありがたいものだ。こうして声を出さずに相手と会話ができるのだから。
『それは今は置いといて。この建物から出るにはあの扉の先へ行かなくちゃならないんだ。だけど扉の先には』
 分かってるって。あいつがいるから行けない、だろ?
『そうだよ。だからといって呪文で移動するのもやめといた方がいい。呪文はいくら押さえても魔力を放出するものだからね。それに二人だけ外に出ることも危険だから』
 そうか、呪文も駄目だったのか。でもだったらどうすればいいんだよ? 安全にここから出られる方法なんてないじゃないか。
『元々安全に出られるなんて思っていなかった』
 響いてきたのは覚悟の言葉。
『方法は二つに一つだよ。君と僕が犠牲になるか、全員で犠牲になるか』
 答えは非常に簡単だった。


「自分で改造しておきながら後悔するようなら最初からしなければよかったんじゃねえか」
「馬鹿を言うな。これは仕方がないことなんだ。あいつをあいつのまま兵器にするにはこうでもしない限り不可能だったんだ。お前にだって分かるだろ」
「分かるかよ。分かってたまるかあんな欠陥品野郎なんか――」
 扉を開いても気づかないのか、少しだけ会話を俺の前で繰り広げていた。しかしそれもすぐに止まる。
 最初に気がついたのはあの人だった。
「起きたみたいだぞ」
「え――」
 その場にいたのはただの二人。俺の兄弟とも言えるスーリとシンだけだった。多くの機械に囲まれて狭そうに立ってこちらに目線を向けてくる。
 まるで何か物質でも見るような視線だった。
「起きた、のか? 一人で?」
 おかしなことを問いながらすたすたと無防備に歩いてくるのはスーリ。
「まだ一時間も経っていないのになぜ?」
「よかったじゃねえか失敗して。お前の機械いじりの腕もそこまでだったということだろ」
「お前は黙っていろ!」
 大人なのに喧嘩なんかしている。情けない。
「失敗ならもう一度やり直すまでだ。ヴェイグは必ず改造しなくては通用しないんだ」
 呟くような独り言を言いながらスーリは俺に手をのばしてくる。
 相手は何も知らないし俺は何も言わない。
 俺が言うべき言葉は――。
「ジェラー!」
 相手の手が触れるほんの一瞬前程度になってから思いっきり少年の名前を呼ぶ。それと同時にスーリののばされていた手がぴたりと止まり、さっと顔色が変わったように見えた。けどもう遅い。俺の背中に隠れていたジェラーの呪文の刃がスーリに襲いかかる。
 しかし相手とて甘くはない。咄嗟に呪文に反応してかろうじて刃を避けた。だからといって俺たちだって休んでいる暇なんてない。もう一つ放った呪文の刃は周辺の機械を次々と破壊していった。それによってスーリの注意がそちらへ向く。
 そこを見逃さずにジェラーは一歩踏み込んだ。相手の目の前で呪文の刃を放つ。スーリはそれをも避けたがもはやバランスは完全に崩れていた。その何瞬間か前にはすでに俺の手は左右の剣へのばされている。握り締めると思いっきり地面を蹴って相手の前へ走った。
 ひとつ、ふたつと数える隙すらなく。
 俺の剣の一本がスーリの喉元へ突き付けられていた。
「止めてくれるなよ、スーリ」
 相手は動かない。背後にはジェラーが控えているからなのか。
 いや。
「それからシンも邪魔しないでくれ」
 今まで身動き一つせずに黙っていた相手にも言葉をかけておく。ずっと見られていたらしく、痛いほどの視線を感じ続けていた。
「どんなことをされようとも俺は兵器にはならない。こんな世界のためだけに生きるなんてそれこそ愚かなことなんだ。俺の存在理由なんて、自分で決めればそれでいいじゃないか!」
 何が起こっていたかなんてもう忘れた。いや、記憶にないのだから忘れたという表現はおかしいか。だけどたとえ何をされても俺は俺でしかないのだから。
「――は、はは」
 小さな声。だけど。
「はは、ははは……」
 悪寒が走る。
「ヴェイグ・ベセリア」
 変わらない声で呼ばれた。びくりとした。
 手に剣を通しての感覚が伝わってくる。相手は、スーリは素手で突き付けられている剣を握っていた。手からは当然のごとく血が出ている。
 剣に血が伝い、それはやがて俺の手に触れる。
「ひ――」
 あまりにも冷たくてきもちわるかった。
 きもちわるい。きもちわるいんだ。
「自分の存在理由、だと?」
 いや違う。きもちわるいのは血の冷たさだけじゃない。これは。
「お前が私に逆らうことが愚かだ!」
 剣はあまりにもあっけなく折れた。破片が飛び散って床に落ちる。
 そんなことに気を取られている場合ではなかった。なかったのだけど遅すぎた。気がつけば俺は床に倒れかけていた。そのまま床の上へ落ちるのかと思われた。
 でも落ちなかった。
 ありえないことだった。でも実際にありえることになったのだ。体は風のように軽くなり、頭の中には多すぎるほどの知識があふれ、それに合わせてまるで機械のように体が反応した。
 折れた剣を片方に構えて俺は立っていた。そう、倒れずに床の上に立っているのだ。あの状態からどのようにしてこうなったのかなんて自分でも分からない。だけど実際に自分の姿を見せられると信じる他に仕方がないものがあった。
 頭の中に一つの単語が甦ってくる。それは『改造』。
 改造。
「計画に狂いはないんだ」
 俺は改造された魂。
「我々の計画に逆らう気か!」
 相手の持つ空気は尋常じゃなかった。もはや今までの姿とは似ても似つかないほど変わっていた。
 だけど俺が驚いたのはそんなことに対してではなかった。それよりももっと驚いたのは。
「さっきからずいぶんと偉そうなことばかり言ってんじゃねえかよ、ダザイアの言いなりの人形が」
「お前――」
 驚いたのは、シンがスーリを止めていたということだった。
「動くなよ? 動いたらお前の大事な大事な機械を壊してやる」
 相手を脅しながらシンは隣にあった機械を軽く蹴った。がんっ、という機械音が部屋の中に響く。
 機械を壊されるのはよっぽど困ることなのか、スーリは手を下に下ろして何もしてこなくなった。正直言って助かったのでほっとする。
 だけどどうする? 互いに互いの目的が見えない今、迂闊に行動してはいけない。このままだと――、
『少し様子を見ていよう』
 俺の隣にはジェラーがいた。
 そうだな。焦っては駄目だ。急いては事を仕損じるって言うしな。
「何のつもりだ、シン」
 先に口を開いたのはスーリ。彼の声にはいつものような無機質なものは含まれていなかった。
「なぜヴェイグの肩を持つ」
「別に肩を持ったりなんざしてねえよ。俺は俺のためにやってるだけだ」
 少しも焦った様子を見せずにシンはスーリの前へ歩いていった。その顔には厳しさや怒りのようなものが見えたりもしたが、それよりももっと大きな感情を必死になって隠しているようにも見えた。当然俺には何なのかは分からないけど。
「おいクソ欠陥品野郎」
 一人でぼんやりと事を傍観していたら声をかけられた。呼び方はひどいものだったがなんだか慣れているらしく、なぜかすぐに俺のことだと分かってしまったのだ。
「お前らとっとと逃げろ」
「え?」
 何を言われるのかと思っていたが、聞こえてきたのは短い命令だった。
 だけど。
「聞こえなかったのか。逃げろっつってんだよ馬鹿が」
「な、なん――」
「勘違いするな。俺はあくまで俺のためにやっているんだ。お前らにここにいられるとこっちが迷惑なんだよ。だから早く消えろって言っているんだ」
 あの人はよく聞こえる声で言ってくる。
 俺は。
「そんな勝手な真似が許されると思っているのか?」
 俺はあの人を。
「この世界から逃げられるとでも思っているのか!」
 俺はあの人の言葉を。
『どうするの? 樹』
「いいからさっさと行け! 樹!」
 俺はもう一度あの人の言葉を信じる。
 体がふっと軽くなったように感じられた。大丈夫、今なら。
「行こう、ジェラー!」
「分かった!」
 掛け声と共に部屋の中を走り抜けていった。今まで感じていた恐怖や迷いは心の中から離れていった。今なら兵器の力にも改造の力にも打ち勝つことができるような気がしたんだ。
「行かせるか!」
 背後からはスーリの声が。だけどその直後に何かが爆発するような音が聞こえた。きっとあの人が呪文を使ってスーリを止めたのだろう。
 それでも俺は前だけを見る。
 扉を抜けるとすぐに閉めた。そこで一度立ち止まって息を整える。後ろの部屋からは二人の大人が喧嘩をしている声と音だけが響いていた。
『行こう。皆のいる場所は知っているから』
 少年の声に一つ頷くと、ただ力の限り扉から遠のこうと走り続けた。


 改造されたせいなのか、俺は少しも疲れというものを感じなかった。いくらでも走り続けられるような気さえした。だけどそうすることなんてできるはずがない。なぜなら今は俺は一人で行動しているわけではないのだから。
 かなり多くの距離を走ったような気がするが途中で止まらざるをえなくなった。
「ごめん、ちょっと……止まって」
 声をかけてきたのはジェラー。それを聞くと無意識のうちに体が止まっていた。
「疲れたか?」
「そ、そんなことないから」
「いーから。無理するなよ」
 わざわざ俺のスピードにあわせる必要はないんだ。本当なら俺がジェラーのスピードにあわせなくてはならないのだし。
 こんなことが起こるなんて本当に予想できないことだよな。昔はあんなにすぐに疲れていたのに今では全く逆だ。ああ、まったく人生ってのは何事でも起こり得るから恐ろしいんだ。
「何を一人で変なこと考えてるの」
 横から白い目で見られた。
「と、とにかくだ。あいつらがいる場所ってのは――」
 言いかけてから一つの疑問が浮かんでくる。
 そういえばなぜジェラーだけがあの部屋にいたのだろう。俺を捜してくれたのは嬉しいけどどうしてジェラーだけなんだ? 他の皆は捜してくれなかったのか? それとも何か危険な目に遭っているのか?
「それは順を追って説明するよ。だけど勘違いしないで、他の皆は決して君を見捨てたわけじゃない。むしろ」
 藍色の大きな瞳がこちらを見上げている。その中に輝く光は何を示しているのか。
「分かった。聞かせてくれ」
 休憩も兼ねて床の上に腰を下ろす。前にも感じた冷たさが今は少しも感じられなかった。どうやら余計なものは消し去ってくれたらしい。本当に、余計なものは。
「僕らは初め、ある部屋の中で待たされていた」
 やっぱりこの建物って無駄に部屋が多いような。いやいや今はそんなことどうでもいいんだ。
「待っていて最初に部屋に入ってきたのはアレートで、君がどこかへ行ってしまったと言っていた。それからしばらく誰かが来るのを待っていたけど誰も来る気配はなくてずっと部屋の中で閉じこもっていたよ。迂闊に行動できないしね」
「じゃあどうして――」
「焦らないで。真実は逃げたりしないよ。途中で来客があったんだ。君や僕らにとっても顔見知りのね」
 顔見知りと聞いて思い浮かぶのはごく少数の人々のみ。俺だってそこまで顔が広いわけじゃないのだから仕方がない。
「それは?」
 続きを促すとジェラーは少しだけ目を泳がせた。
「ラスだった。彼が言うには君が大変だから早く捜した方がいいということだった。どうしてそんなことを知っているのかと聞いたら商人だからと威張って答えていたよ」
「商人だからって……」
 なんていいかげんな理由なんだ。
「それからこうも言った。今の樹には心があってないようなものだから何を言っても無駄だ、と。どうやら兵器として改造されているらしいと言ってから口を閉じた」
「そう――」
 言うべき言葉が見つからない。
「ラスの言葉を聞いて全員が全員口をそろえて君を捜しに行こうと言うんだ。だけど大勢でこの場所を移動することがどうしてできる? ここはあの人たちの掌の上なんだ。僕は誰か一人だけが動いた方がいいと言った」
 ふと相手の腕に目がとまった。先ほどまで戦っていたせいなのか、服の下から少し出血の跡が見えている。
「それから誰が動くかということになった。全員自分が行くと言って意見が少しもまとまらなかった。その隙にラスは部屋から出ていって今にも喧嘩が始まりそうになったんだ。だから僕は彼らを落ち着かせるために一つの話を始めた」
 静かな口調で少年は話し続ける。
「僕は――」
 だけどその話もここで一度止まってしまった。
 どうして止まったのか聞こうとしたが、迷っているうちにジェラーは言葉を吐き出す。
「僕は自分のことを全部知っているだけ話した」
 それはあまりにも唐突であり。
 加えてあまりにも残酷なことだった。
 自分のことを話すということは、心が読めるということをばらすということ。
「なん、で?」
 納得できなくて聞き返す。そうだよ納得できるわけがなかったんだ。
 だってそんなことをすれば。
「分かってる。分かってて話したんだ。全員に嫌われるだけの覚悟もあったよ。僕は」
 違う。違うだろそんなの。そんなの理由になってない。
「僕は君と違って自分を大切にしないんだ」
 俺と、違って。
 俺と、違って?
「仕方なかったんだよ。こうでも言わなければ全員が行動することになってしまうんだ。それでは誰も助からない。だってそうでしょ、意識のない君の目を覚まさせられるのは心の中に入り込める僕しかいないのだから」
 なんだよそれ。なんなんだよそれは。
「ジェラー」
 俺は泣きたくなった。
 藍色の瞳は情けない顔を映している。
「辛かった?」
 声は震えた。相手は何も答えずに顔を伏せた。
「辛かっただろ」
 少年は静かに首を振った。それは肯定ではなく否定を表していた。
「ごめんな」
 どうして謝っているのか分からない。なぜこんなに苦しいのか分からない。
「ごめんな……!」
 本当に泣きそうになったんだ。
 だけど俺にはもう、一粒の涙さえも残ってはいなかったのだ。
「君が――」
 聞いたことのないような声色でジェラーは言う。
「君が改造されているのを見て、僕は悔しかったのかもしれない」
 少年はぱっと顔を上げた。
「だから止めようとして、止めようと――」
 相手の表情から伝わってくる気持ち。それは。
 止めようとして。止めようと?
 俺を止めようとしたと言っているのか?
 だったら、じゃあ、俺は一体何をしていたんだ?
「その傷――」
 再び目にとまったのは相手の腕の傷。しかしジェラーはさっとそれを隠してしまった。
「どうしたんだよ?」
「なんでもないよ。なんでもないから」
「なんでもないことないだろ」
「いいからほっといてよ!」
 そうやって言われると放っておけなくなる。
 今の俺にとって相手の背後に回ることは簡単にできることだった。
「な、何す――」
 何と言われようがもう遅い。俺はすでに相手の隠そうとしている傷を見てしまった。
 それは明らかに切り傷。すなわち、誰かから剣での攻撃を受けたということ。
 思い当たるのは。
「――俺?」
「違う!」
 まだ何も言ってないだろ。
「違う、君じゃない。君じゃないんだから、これは――」
「俺がやったのか? 俺がやったのかよ!?」
 そうならそうだと言ってくれよ。でないと俺は何も分からない。そう、何も。
 教えてよ。教えてくれよ。本当のことを隠されるのは嫌なんだ。もう嫌なんだよ、隠されることなんて! どうして教えてくれなかったんだ。俺のことなのにどこに隠さなければならない理由がある? 俺には知るべき権利だってあるはずだ。あるはずなのに――。
「い、樹……」
 体がぐらりと揺れた。下に目をやると床が崩れかかっていた。それだけではなく建物全体が崩れているようにも見える。
 壊れる。こわれる。こわれるんだ、全体が。
 こわれ――。
「うわあああああっ!!」
 こらえ切れなくなって、叫んだ。


 傷つけたくない! 傷つけたくない!
 誰も傷つけずに生きていたいんだ!
 誰も巻き込んだりしてはいけない! 誰も悲しませてはいけないんだ!
 そうやって生きていたかった、生きていたかったんだよ!
 それなのに俺は、俺は、俺は――!


 もう駄目だ。もうおしまいだ。
 もう何もかもが崩れてしまったんだ。
 ああ、こんなことならいっそのこと――……。

 

 

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