77
目を開けると暗闇ばかりだ。まるで心の中の黒い光が勝っているかのように。
そして決まって現れるのは光だ。まるで心の中の白い光が呼んでいるかのように。
だけど光だからと言ってそれがよいものばかりだとは限らない。偽りの善があるように、偽物の光だって存在する。
俺が見るべき光はどちらなのだろうか。いや、見ても構わないものはどちらなのか?
答えなど誰も教えてくれないのは分かってる。
俺は生きるべきなのか、死ななければならないのか。
すでに俺の中で答えは出ていた。
そう、俺は。
俺は。
再び意識が戻ってくるのにあまり時間はかからなかった。ただ単純に体が落下していったということだけを覚えていた。それ以外は本当に何も分からなかったので、目が覚めたこの場所がどこなのかということも当然のごとく分からない。
体を起こすと周囲がよく見えるようになった。しかしそう言えども周囲はどこを見ても闇しかなかった。どこへ向かえばいいかとか、どちらが右でどちらが左なのかすら分からないような状況だった。
ただ心に残っているのは痛さと孤独だけ。
「馬鹿だ」
口から言葉を吐き出してみる。
「俺は馬鹿だ」
自らを卑下する言葉。そこには少しの嘘も含まれていない。
この暗闇は何のためにある? 俺を閉じ込めるためにあるんだろ。俺は世の明るみに出るべき存在ではなかったんだ。俺なんかが前に立つべき場所なんて最初から存在しなかったんだ。
それなのに俺は出た、何も知らずに。大抵のことは知らなかったなら仕方がないと許される場合が多いが俺は決して許されないだろう。それにたとえ誰もが許しても俺は自分を許すことはないだろう。俺は自分のことを知らなさすぎた。故に愚かな行為を平気で重ねた。それによってどんな歪みが生まれているかなんて少しも知らずに。
その結果がこれか。否定はしない、いやできないんだ。自分で自分の愚かさを理解してしまったから。
俺は世界を一人よがりの欲望だと呼んでいたが、自分自身も立派な一人よがりの欲望を抱えていたことに気づいた。俺は自分というものを大切にしすぎていた。親しくなった者たちから嫌われたくなかったばかりにその親しくなった者たちを傷つけていた。これは謝ってすむような軽い問題ではない。それに俺は気づくのが遅すぎた。もはや今となっては俺にできることは一つしかない。一つしかないんだ。
地面を踏みしめると大地を感じた。何かを感じられるということは、俺が今ここに確かに存在しているということ。
俺の存在理由は薄れて揺れている。分かってる。楽しかったよ、ありがとう。
だけど俺にはもう生きる権利はないから。俺にできることは何もなくなったから。だからせめて独りで。
「樹?」
それは俺の名前。多くの人がそう呼んできた。その度に俺は返事を返していた。
だけどもう遅いんだ。
「やっぱり樹だ。こんなところにいたんだね」
耳に入ってくるのは優しい言葉ばかりだったんだ。今も、昔も、そしてきっとこれからもずっと。
やめてくれ。俺に優しくしないでくれ。
「まったく捜したんだよ? ジェラーは出ていったきり帰ってこなかったし待ってたら急に地面が崩れたりしてさ。でも無事でよかったよ。さあ一緒に皆を捜しに行こう」
ふっと手に温かいものを感じる。愚かなことに俺はそれを手放したくないと思ってしまった。
いけない。いけないんだこんな心持ちになったりしては。俺は誰かから優しくされるべき人じゃない。人ですらない。手放せよ、手放せ。離れなければならないのだから。
離れ、ろ。
「嫌」
「え?」
「嫌だって言ってるんだよ。俺はもうお前らの元へは帰らない」
手に触れていた温かさを俺は自分から遠ざけた。
もうこれ以上知ってすがりたくはなかった。これだけで充分だった。だけどこれらはすべて俺だけの幸福。この幸福がある限りこいつは幸せにはなれない。
なぜなら幸福というものは誰かを犠牲にして手に入れるものだから。
「どうしたの急に? 君は樹でしょ?」
「当たり前だ、俺はヴェイグなんかじゃない」
「そう、君は樹でぼくはリヴァセール。これは今までとずっと同じことだよね?」
どうしてそうやって聞いてくるんだ。俺に何を望んでいるんだ、お前は。
いや、こいつはきっと何も望んでいない。ただ。
「お前もう帰れよ」
ただ自分が幸福になりたいだけなんだ。
こいつも人間。欲があるのは当然のこと。だけど今の俺にとっては醜い考え方のようにしか思えないんだ。おかしなことだ。俺自身も貪欲な魂を抱えているというのに。
「君、どこか変だよ。何かされたの?」
相手は眉をひそめていた。俺の方がもっと眉をひそめてやりたかった。
「何かされただって? そんなことはない。何かされたのはお前の方じゃないのか」
「ぼく? ぼくは何もされていない」
「ならばなぜそのように聞いてくるんだ。俺はただ自らの愚かさに気づいただけだ。そして行かなければならない道を見つけた。後はただその道を歩いてゆくだけなんだ」
相手はさらに変な顔をした。俺は落ち着いていられただろうか。普段の顔でいられただろうか。
どうやら言ったことの意味は相手には伝わらなかったらしい。それきり何も言ってこない。言葉の意味も理解できなくなるほど変わってしまったのか。変わるのは悪いことじゃない。自分だってここへ来て大きく変わってしまったのだし、向上心を持たない者は愚か者になってゆくしかないのだから。
「君が何を見つけたかなんて知らないけど」
ほらまた軽い言葉を吐き出す。
「ぼくは君の心配もしてはいけないというの?」
心配?
心配、だって?
「言ったじゃない。君を独りにはしないって」
誰かを思いやる優しい気持ち。
何かを大切に思う素直な心。
「ぼくは君を守らなくちゃならないだろ?」
そしてものを望む愚かな欲望。
繰り返される思考。ずっと変わらずに流れていく単純な言葉の群れ。
「――はっ」
笑いたくもなってくる。皮肉にもあいつと同じように。
「はは、ははは」
そうか、そうだったんだ。なんて簡単なことだったんだろう。
「ははは、はははははは、あはははは、はは――」
何度も何度も繰り返されるとさ、気づくことだってあるんだ。その本質は少しも本心が表れていないものだということだとかさ。
「お前、やっとさ、やっと分かったよお前の言っていることの意味が」
「え? どういうこと?」
「お前はただ俺を利用したいだけなんだろ、自らの幸福のために」
相手は言葉を失う。それが物語るのはすなわち。
「別に俺はそうだとしても構わないさ」
愚かしい。
非常に愚かしい。
それが人という生命体。
「所詮お前も人だもんな。俺とは違って本物の人間だ。俺は人の形をした別の生命体。お前らとはすべてが違うんだ」
すべてが異なっているんだ。命のあり方も、考え方も、与えられた宿命も。
俺はもっと多くのものを背負っていかなければならない。
「邪魔なんだ」
そこまで愚かしいと分かっているから。
「お前はもう、邪魔なんだ」
俺が行くべき道を歩んでいくためには。
「これ以上俺の前に現れてくれるな」
相手が何かを言う暇も作らずにさっと背中を向ける。そのまま暗い床の上を足音も立てずに歩いていく。
一歩、二歩と。
「勇気」
足は止まった。
「ぼくは君に勇気を教えられたんだよ」
何かが胸の中に込み上げてくる。
「君はどんなに強大なものにも立ち向かっていった。羨ましいくらいに勇気を持っていた」
やめろ。
「君には優しい心もあったけれど、とても大きな勇気を持っていたんだよ?」
やめろ、やめろよ!
俺は何も知らない、俺には何もないんだ!
「このまま逃げてしまっていいの!? ぼくは君に勇気を教えられたのに!」
「うるさい!」
大声で叫ぶと喉が痛くなった。
相手をその場に残し、俺は暗闇の先へと走っていった。
分かってる。
俺は誰かを幸せにしたいんだ。
幸せにするためには幸せになってはならない。
幸せになってはならない。
決して。
どんな理由があろうと。
見えるのは闇だけ。
俺は流れの止まった物事の中で燃える生命を見た。
生命はいつでもどこでも眩しいほどに光り輝いていた。だけど力強いものもあれば醜くゆがんだものもあり、本質が全く見えてこないものもある。それでもそれらは何か一つのことに支えられているかのように粘り強く、いつになっても止まらないような勢いを持っているがある時突然ふつりと止まる。そしてまた同じようなことを繰り返していく。
どれほど人からさげすまれた者であろうと生命の炎は燃え続けている。他者よりはるかに劣っている者も、頭のできが凡人とは比べ物にならない者も全て同じだ。生命の炎から見ればどれも同じで少しの格差もない。全て同じなんだ、全て。
だけど俺から見ればこの上なく羨ましいことだよ。ああ、まったく、本当に。俺もその生命を持って生まれてくればどれほど幸福だっただろう!
俺はちょうど今、目の前に現れた生命を殺した。
折れた剣から滴り落ちるのは黒ずんだ熱い血。鮮血は服やら顔やらに飛び散ってあらゆるものを赤く染めている。
この意志のもとで剣を振るったわけではない。だが、そうだ、ただ一つ邪魔だと感じたんだ。その瞬間に俺の中の兵器が目覚め、目の前の生命体を亡きものにしたのだ。
だけど悪いのは相手だ。こんな場所に魔物がいること自体がおかしい。この世界には『彼ら』の他にはどんな生命体も存在しないのではなかったのか? これは明らかな矛盾なんだ。
そしてまた一つ別の命の炎を見る。
ひどく、いかがわしいほどひどく歪んだ生命だった。
「お前、なんて顔をしてるんだ」
相手はすぐに声をかけてきた。
日の元では輝いていた白銀の長髪も暗闇では冷酷に感じられる。少しも美しさなど残ってはいなかった。
「俺はどんな顔をしているかなんて分かるはずがない。人は自らの顔を見ることはできないのだから。鏡や写真でもまがい物だ。同じように、俺も人のまがい物だけど」
「そういうことを聞いてるんじゃない。俺は」
「黙れよ」
もういい。もういいよ。これ以上何も言わないでくれ、ひどく疲れてしまうから。
そうだよもうたくさんだ。早いところ俺の前から消えてくれ。消えてくれよ、お願いだから。
「あんたはなぜこの世界へ来たんだ?」
泣きたい。
「それは、師匠に誰かの助けになることをして来いって言われたから」
「じゃあもう帰れ」
「なぜ?」
「帰ってくれ!」
泣けない。
「二度とその汚れた面を俺の前にさらけ出すな!」
相手は何も言ってこなかった。自分でもよく分かる、酷いことを言ってしまったと。
だけどその言葉はあながち嘘ではない。なぜなら俺が相手の倍以上に汚れた魂を抱えているのだから。自分で自分を罵ってやりたかった。思いっきり馬鹿にしてやりたかった。
「あんたさ、気づいてないんだろうから教えてやるけど」
まるで自分で自分の首を締めるようなことを相手に向かって放ってしまう。
「あんたがいることで何か変わった? 何も変わっていやしないんだ。あんた本当はいらない奴なんだよ。ちょっと他の人よりも腕が立つからって一緒について来たりしてさ、はっきり言って邪魔なんだ」
心にもないことだ。向けるべき相手が違うのに。
ああ、なぜだ。
「いらないんだよ、戦いにしか脳がない奴なんて」
「お前」
「いらないんだよ! それに不老不死だって気色悪いんだ! さっさと俺の前から消えろ!」
「樹!」
「黙れよ!!」
止まらない。もはや止めるためのすべは失われた。
誰か、誰か。
「あんたなんていらない、あんたの存在感なんてなくなったんだ! ここに居るべきなのはあんたじゃない、そうだよこれ以上俺に関わってくる理由がどこにある? 俺は、俺はあんたみたいな奴と一緒には居たくない。あんたみたいな汚れた歪んだ生命なんかと一緒になんて!」
仕方ないんだ! こうでもしなければ俺はもっと酷い奴になってしまうんだ。こうする以外の方法なんて一つも思いつかないんだ。だから、だから!
「それはお前だけの意志だろ。俺はお前にどう思われていようとここに居続けるつもりだ」
違う、違うんだ、そんなことをしては駄目なんだ。あんたは俺から離れなければならないんだ。
これはあんたのためなんだよ。
体が震える。
「何だよ、化け物のくせに」
呟くように口から出たのは誰を指す言葉だったのだろう。
永遠の命。死を知らない生命。過去に縛られた真っ黒の光を抱える魂。
最期のない、生から離れた異端者か。姿形は他の人と変わらないが内に秘めた命の炎は燃え尽きている。それは二度と燃えることはないだろう。なぜならすでに命は生きていないのだから。
だけど確かに今ここで息をしている。生きているんだ。
つまり生きても死んでもいないということ。その存在は不必要だ。
化け物だ。
誰が。
誰が?
「もう飽きただろ、生きることにさ」
「樹、お前は」
「いっそのことここでくたばっちまえばいいんだ、全て」
「全て?」
「そうさ全てが。お前も、世界も、何もかもが。もちろんこの俺の存在だって」
口では何とでも言える。でもそれだけで何も起こりはしない。
意志だけで何かを変えられるほど世の中は甘くない。
「化け物は化け物らしくこの闇の中に閉じ込められていろよ。そしてもう出てくるな」
なんて一方的な意見なんだろう。
泣きたいよ。
「樹、お前は本当にそう思っていないだろ!」
相手の言葉にはっとした。でもここで言い返したりしたら肯定と見られてしまう。
実際はどちらなのだろう。この考えは確かに俺の中にあるものだ。あるものだけど口に出したりしてはいけなかった。なぜならこれらの考えはすべて自分に向けられたものなのだから。
そうだよ相手は化け物なんかじゃない、俺が、兵器であるこの俺の方がよっぽど化け物と呼ぶにふさわしいんだ! ああ、もう嫌だ、もう何もかもが嫌だ! どうして何事も上手く終わってくれないんだよ!
誰も俺の気持ちを分かってくれない。誰一人として俺のこの思いに気づいてくれない。なんでだ。なんでだよ! なぜ誰も分かってくれないんだ! ああ、分かってくれないことがこんなにも苦しいなんて。悲しいなんて。思ってもいなかった。少しも考えたりしなかったんだ! 分かっているようで分かってくれていない! どこか微妙な点においてあざ笑うかのようにずれが生じる! これを埋められるのは誰? このずれを元に戻せるのは一体誰?
無意識のうちに自分の手は折れた剣を握り締めていた。たくさんの命を奪った剣。奪ったのは剣。だけど奪うように仕向けたのは他でもない俺のこの心。
この心さえなければすべてが上手くいった。
この魂さえ現れなければ世界は平和でいられたのに!
世界を狂わせたのはアユラツでもダザイアでもスーリでもシンでもない。俺という存在があるばかりに世界を犠牲にした! 誰も責めることはできなくて、ただ一方的に俺が悪いだけなんだ! ああ、どうして! どうして今になってから分かったんだよ!
「おい、樹?」
「黙れ、黙れ! 何も聞きたくない、何も見たくない! これ以上俺に関わってくるな、近寄ってくるなよ! どうしてそこまでして俺の傍へ来たりするんだ、俺はあんたたちに何もしてやれないだけなのに!」
むしろ危害を加えている。肉体的にも、精神的にも。
人と関わるには良い意味でも悪い意味でもそれなりの覚悟が必要なんだ。
うわべだけがすべてではない。内に秘めた心の底まで見通すことなど不可能なのだから。
「確かに、君の意見は間違っちゃいない」
ふとこれまでと違う人の声が聞こえた。すぐ近くで揺れるのは暗闇に紛れて黒く見える藍色。
「だけど君、信じてあげられないの?」
信じるだって。
信じるだって?
「一体何を? 人をか? 人間を信じろって言うのか? 俺という存在を作った人間の心を信じろとでも言うのか? どうして? なぜ信じなければならない。いやなぜ信じられるだろうか! あんな欲にまみれた生物の何を見て信じろって言うんだ! もう無理だ、人間以上に信じられないものなんてないのだから!」
俺に何をしてきたか分かってるのか? 何も知らない奴ならまだ許せる。だけどただ一つの物質としか見てこなかったあの瞳はどうなる? 俺にあの瞳を持つ人間を信じろと言うのか? あんな瞳ができる奴を信じろと言うのか!?
ああもういいよ。もう分かったから。どんなに変なことができる力を持っているといっても所詮はお前らは人間だ。人なんかに俺の気持ちは伝わらないから。伝わっても理解できないだろ、こんな立場に立たされでもしない限り。
すぐ裏切っていくんだ。何もかもを。
「我は契約者。我は召喚者。我は魔の魂の所有者――」
『樹さん、あなたは』
折れた剣を床に投げ出す。代わりに握られているのは、大きすぎる渦巻いている魔力。
「我は光。光の魂に応えよ、世界の欠片の者たちよ」
『あなたは僕が誰だか知っていますか?』
知らない。
『あなたは何をしているの?』
知らない。
『あなたは何を望んでいるの?』
知らない、知らない。
『あなたはどうして怯えているの?』
知らない! 俺は何も知らないんだよ!
『あなたは何が』
うるさい! 黙れ!
『あなたはなぜ』
黙れ、黙れよ! 俺に話しかけてくるな!
『では、あなたは――』
話しかけるなって言ってるだろ! 黙らないようなら、
「あなたはこの世界が嫌いなの?」
――そうさ、大嫌いだ。
早く消えてしまえばいいのに。
早く崩れてしまえばいいのに。
「そうなんだ」
急に視線を感じて振り返った。そこには誰かが立っていた。
分かったのはその人が薄く残忍に笑っているということだけで。
「君と僕はいい友達になれそうだ」
気づけば俺は深い闇の底へ落下していたのであった。
手の中で渦巻く光を見ながら考える。
今まで俺が望んでいたものは何だったろう。
力が欲しかった? 理由が欲しかった? いや、そんなものは少しも望んでいなかった。
俺が本当に欲しかったもの。
俺が本当に欲しいと願うもの。
それは――。
落ちて行く先で赤いものを見た。
周囲の黒を打ち消すかのごとく鮮やかな赤が一面に広がっており、見るだけで気分が悪くなりそうなほど気持ち悪かった。その正体が一体何なのかは分からないが、俺はその中心あたりへと落下していったことは事実のようだった。
「赤い……」
完全に落ちてしまう前に口からこぼれる。俺はどうしていいのか分からない。
地面に着地する際には願ってもいないのに兵器が目覚めた。ほとんど何の傷も負わずに無事に地面に降り立つ。昔では考えられないことだった。あの時なんかは見事に不時着したのに今ではもう。
足元に感じるのは何とも言い様のない感触だった。どう形容していいのかまるで分からない。ただ言えることは非常に不安定であって今の俺の心情とよく似ているということだけだった。
常に足がぐらついて頭がくらくらしてくる。
矛盾だ。これはもう明白な矛盾なんだ。この世界に色があるなどと誰が言った? いや言いはしなかった。逆のことを言っていたのになぜ。
ああもうどうだっていい、そんなことは考えるだけ無駄なことだ。俺はこの不安定でぐらぐらした地面の上という居場所を見つけた。色は燃えるように鮮やかで力強く、それに加えて不気味さを交えている真紅の色彩だ。見ただけでひどく気に入らないのだけどきっと俺はここに居るべくして導かれたんだろう。それこそあの明るい世界に出てもいい権利なんて有していないのだから仕方がないことだ。
ふと感じたのは視線。そこに含まれているのは分かりやすすぎるほどの殺気だった。きっとまた魔物でも現れたのだろう。
案の定背後には大勢の魔物がいた。今までに見たことがない魔物ばかりだ。俺の背丈の倍以上はありそうなのが何匹もいたのだ。
こいつら俺を殺すのかな。でもなぜ魔物は人を襲うのだろう。ゲームでも魔物はいつも勇者に倒されて終わりだ。魔物だって一つの命であるはずなのに、どうして外見とか偏見だけで悪者にされてしまうのだろう。
でももういいや。考えるのは疲れてしまった。
手の中に握っている魔の力はすべてを壊してくれるだろうか。
試してみたい。兵器の力がどこまで世界を壊せるかを。
壊せ。壊してしまえ。
何も残らずにすべてを壊してしまえ。
すべて――。
「あなたはその力を使ってはいけない。だから下がっていて」
風のように隣を通りすぎていったのは見なれた黄色い髪。その少女は俺の前方に立って魔物の群れと向き合う。
どれくらいの時間が必要だっただろう。少しの時間もいらなかったのだ。俺はまた人に頼った。言い返すほどの暇を与えてくれなかったから。
自らの身長ほどある鍵を巧みに使用して少女は魔物の群れを一掃していく。だけど少女にも隙が生じることがある。一対無数で勝負する方がおかしいんだ。
俺の手はいつしか剣にのばされていた。だけど俺の意志はしっかりしたままであった。自分の思いどおりに体が動いた。まず足が前進を始め、次に腕が剣を振り上げて瞳が敵の姿を確認した。敵はちょうど少女の隙を狙って攻撃を仕掛けているところだった。俺は気持ちがしっかりしたまま体を動かした。
剣は魔物の体を受け止めた。命までは奪わなかった。少女には攻撃が届かなかった。二人とも無傷だった。
この動作は兵器のものではない。この動作は俺の心が操作したもの。
「アレート……」
静かに少女の名前を呼ぶ。そのまま消えてしまいそうだった。
やがて無言で少女は魔物の息の根を止める。俺はすぐ傍でその動作を眺めていた。
「なぜあなたは独りでいるの?」
少女は手にしていた鍵を消した。振り返りもしない。
「なぜあの人達を遠ざけたりなんてことしたの」
「なぜも何もない。俺はもうあいつらの元へは帰らないと決めた。あんたに関しても同じだ、アレート。早いところ俺の前から消えてくれ」
この少女さえいなければ俺は今頃この世にいなかっただろうに。
「あなたそれ本気?」
「本音に決まってるだろ」
苛々する。どうしてそうやって何かと聞いてこようとするんだ。どうせ聞いたって何も分かりはしないのに。
そうだよ俺の気持ちは誰にも分からないから。だからこうやって遠ざけようとしているのに。誰もが勝手に勘違いしていって。最期に辛くなるのは誰だと思ってるんだ。自分勝手にもほどがある。
――ああ。
「だったらどうしてそんなに苦しそうな顔をしているの」
長い髪が揺れて相手の顔が見えた。ひどく厳しそうな、怒っているような表情をしていた。
「ねえ、あなた本当はまだ生きていたいんじゃないの?」
一気に大きな圧力を感じた。
なぜ分かる? どうして分かるんだ? 俺は誰にも伝えていないはずなのに。
「どうして分かったのか分からないって顔してるね。私だってずっとあなたのこと見ていたんだから。そうだよずっとずっと見ていたんだから――」
厳しかった顔が少し和らいだ。けど、それだけ。
「あなたは何を望んでいるの?」
いつもそうだ、いつだってそう。やっぱり誰だって同じなんだ。分かってくれているようで実は少しも分かってくれていない。
「うわべだけの同情なんていらない。何も分かってないくせに分かったかのような口を利くな」
そんなことをされるくらいならいっそ嫌ってほしい。その方が俺にとってはずっと救いになるから。見せかけだけの心配なんて何にもならないのだから。
「私は」
また少女は口を開く。
「私はあなたに同情なんてしていない」
否定するのか、あんたの意志を。
いや違う。これは。
「今のあなたのままであるならあなたに同情なんてしない。だけどもしあなたが変わるようであるならば、私は同情することもあるだろうし逆に恨み続けることもあるから」
何を言っているのかまるで分からない。だったら何だ、この少女は今の俺を見て一体何を思っているのだろう?
「今のあなたは同情する価値もないのよ。分かる? 私は他の皆と違って正直に思ったことを言わせてもらうから。あなたと違ってね」
「何だよそれ。俺が正直じゃないと、嘘を言っているとでも思っているのか」
相手は口を閉ざして頷く。さっぱりしすぎていて逆に気に障った。
しかし俺はどこかで別の感情を感じずにはいられなかった。
「嫌えよ」
口から出るのは確かに思っていることだっただろうか。
「俺を嫌え」
嫌え。嫌ってしまえ。そうでもしてくれなければ本当にやっていけないんだ、もう。
「あなたの言葉の裏にはいつも理由が隠れているんだね」
あんたの言葉にだっていつも同じ理由が添えられてるじゃないか。その自分の意を貫こうとする言葉には。
「あなたは嘘をついている」
お前は正直すぎる。
これが二人の差。俺と相手を決して繋げない根本的な格差。
なぜだろうな。会った当時は似ていると思っていたというのに。
「本当は私にはなぜあなたが死を選ぼうとしたのかは分からない。だけどあなたは戻るべきよ。そうでなければ何もかも見失ってしまうんだから」
「違う」
やっぱり何も分かってない。戻ることがどんな意味を持っているかこいつには分かっていないんだ。
「違わない。今すぐ戻りなさい!」
「違う! 俺に近づくことは破滅にしかならないんだ、そうと分かっていながらどうして傍へ戻れるだろうか?」
「じゃあ何? あなたは皆を救おうとして自ら離れていったと言うの?」
「仕方ないだろ! こうする他にはどうしていいか分からないんだ!」
分からないんだ。今ここで本当のことを話していいかどうかも分からないし、他の方法で皆を救うその方法も思いつかない。だからこれが今の俺にできる最大の善行であるんだ。もちろん、こんなことをして誰一人として許してはくれないのだろうけど。
「俺は嫌われて当然の、魂だからさ」
口に出すと声が震えてみっともなかった。
「今のあなたには誰も救えない」
また否定するのか。
「どうして。俺なんかがいるから世界は狂うのではないか。いなくなったらそれで救われる人だっているはずだ」
「どうしてなんて言葉は聞き飽きた。あなたは本当にただの嘘つき」
そんなことはない。もはや俺の中の嘘は消えたんだ、あんたのせいで。
相手を睨みつけるほどの余裕はまだあった。
「否定するの? だったらそうすればいいよ。だけどそんな愚かなことをするなら私はあなたを恨み続けるから」
卑下されることは決して気分がいいものではない。
ああ、もしも俺の気持ちがちゃんと正確に相手に伝わっていればこんなことにはならなかっただろうに。そうだよなぜ相手は俺の心を理解してくれないんだ。どうして途中から折れ曲がってしまったんだ!
「俺は、俺はただあいつらを救いたいんだ! 嫌なんだよ、もう俺のせいで誰かが傷ついたり悲しんだりするのを見るのは!」
「まだそんなことを言うの? あなた何も分かってない!」
飛んできたのは厳しさや怒りだけの言葉ではなくて。
もう何も理解できない。
「分かってないのはどっちだ! 人の気も知らないで自分が正しいことでも言ってるかのような口ぶりなんかしやがって!」
「あなた――」
「黙れ!!」
大きく息を吐き、また吸い込む。
目の前にちらつく黄色い髪が俺の目を奪っていた。
相手は俺と同じでこの世界の関係者。だけど決定的に違うことがある。
俺にとってはこいつも他の皆と同じなんだ。
「誰が人間なんかの言うことなんか聞くか」
俺の気持ちは誰にも分からない。誰にも。
「人間なんか信用できるかよ!」
吐き出してから相手の視線が痛くなる。
「そうだ、そうだよきっとそうなんだ」
聞こえてきた声はまるで独り言だった。そんな不安定な言葉は聞きたくなくて顔を別の方向へ向ける。
「そうだよ人は、私のような人間は愚かで醜い。だけど今は私たちを批判するあなたの方がもっと哀しい」
今度は何が言いたいんだよ。
でももういい。もう何もかもを終わりにしてしまいたい。
「俺がいることで皆は幸せになれないんだ。だったら俺はここにいるべきじゃない。だから死ぬ。これが俺の考えだ。この考えを変えることは決してないだろうから」
「違う、違う! あなたはただ逃げてるだけじゃない! 自分の存在理由を盾にして、ただ逃げてるだけじゃない!」
相手も自らの考えを変える気は少しもないようだった。これではいつになっても前へ進めない。
「だったら言ってみろよ! なぜそこまで俺の考えを否定するのかという理由を!」
理由もなく否定することはないだろう。俺だって相手を嫌いになれない。だからせめて理由だけでも聞いて終わりにしたかったんだ。
「理由? 理由なんて説明するほど必要なものなの?」
「場合によってはなくてはならないものなんだよ」
「だけど今は必要ないでしょ」
思いがけない強い言葉に声が出なくなった。
「だって考えてもみてよ! あなたがいなくなった後のことを。きっとあなたに代わる兵器が作られると思わないの? そしてまた同じ過ちを繰り返していくことがあなたには分からないの!? それじゃ何も変わらない、何も救えない! あなたはあなたが消えることによってあなたの代わりとなる兵器に苦しみや哀しみを与えようとしているのよ! ねえ、それはあなたが一番よく分かっていることでしょう!? あなたの苦しみや哀しみは受け継がれていくのよ! それはいけないことだって、あなたにはちゃんと分かるでしょう――?」
声はほとんど安定を失って、いつ聞こえなくなるか分からないほどぐらついていたものだった。それでも伝わってくることは大きすぎて俺はどうしていいか分からなくなる。
「樹!」
まるで祈願でもしているような呼び声によってはっとした。
俺は気がついた。
「ここで止めなければならない。止めることができるのは、あなたしかいないのだから」
この人は。
「でも俺は」
この人は俺にとっては他人だ。他人だけど。
「俺は誰にも頼っちゃいけないし、誰の傍にいることも許されない――」
「だったら私が許してあげるよ。これでいいでしょ?」
他人だけど俺のことをこんなにも考えてくれていた。
他人なのに俺以上に俺のことを考えてくれていた!
「アレート、俺……」
「何?」
「俺に、できるかな」
いいのかな、本当に。
俺、まだ生きていて許される?
「俺にできるかな、誰かを幸せにすることが」
こんな俺だけど何かを望んで許される? こんな俺なんかが誰かのために生きられる?
「もう死ぬなんてこと考えたりしない?」
「それは――」
「はっきりしなさい! 生きていく上でたとえどんなことがあっても自分を犠牲にすることを考えてはいけない! ……死んでしまってはそこで終わりなんだから。何も残らなくなるんだから」
光を見た気がした。
「本当は死にたくなんてなかった」
もはや隠すことなんてなくなっていた。
いくら強がっていても仕方がないことでも、自分が消えてなくなるということは怖かった。すぐに誰もが忘れてしまって誰にも覚えてもらえないんじゃないかと恐れていたんだ。
「大丈夫。だってあなたは――」
手に温かいものが触れる。
その瞬間にぱっと暗闇がはれた。俺が立っているのは、真っ白な空の下の広大な大地の上だった。
「あなたは独りじゃないから」
俺の前へ来て少女は――アレートはにこりと笑った。
「さあ、皆を捜しに行こう!」
手を握ったままアレートは駆け出す。俺は引っ張られて躓きそうになったがなんとか体勢を立て直し、光の満ちた広い大地の上を走っていった。
風がとても冷たく感じられた。だけどそんなことよりもっと胸の奥が熱くなった。目の奥から涙があふれた。なくしたと思っていた涙があふれた。
ただ一対一で心の底からぶつかってくれたことが嬉しかった。本気で正直に伝えてくれたことが嬉しかった。
だからこそ俺は暗闇から抜け出すことができたんだ。
自分のことを真剣に考えてくれる人がいることが、こんなにも救われることだなんて今まで少しも気づかなかったことだった。
闇は消えた。
光の中で生きられることに、俺は感謝しなければならない。
大丈夫。
今ならきっと、笑えるから。