俺にできることを。
俺にしかできないことを。
俺がしなければならないことを。
俺がやりたいことを。
第五章 生きたいが為に
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「樹!」
なんだかすごく懐かしいような声が俺を呼ぶ。振り返るとそこには見慣れた人々の顔があった。
「よかった無事だったんだね。もう大丈夫なんだね」
かなり嬉しそうな表情で話しかけてくるのは外人。その隣にはすました顔のラザーがおり、二人の後ろには隠れるようにジェラーがいた。よく分からないが全員集合していた。まあこっちとしては捜す手間が省けてよかったんだけど。
ふと目を向けると外人が何やら手招きしている。ふらふらと彼の元へと歩いていくと耳元でこそこそと囁いてきた。
「その様子じゃアレートにこっぴどくやられたみたいだね」
内容はそんなものだった。
「こっぴどくってお前」
「見りゃ分かるよ。君って本当にアレートには弱いんだから」
相手は言いたいことを正直に言ってくる。言い返してやりたいけど当たっているようなものなので言い返せない。
「何を二人してこそこそと話してんだよ」
「わっ!」
いきなり割り込んできたのはいつものように機嫌の悪そうなラザーラス。いや、こいつはこれで普通なのかもしれないな。ただ顔つきが最初から悪そうなだけなのかも。
『樹。またどうでもいいことを真剣になって考えてるんだね。まったく馬鹿みたいだ』
降ってきたのは石のように冷たくて痛い言葉だった。なんで年下の少年からこんなことを言われなきゃならないんだろうか。
「ラザー、樹があなたの顔つきについて真剣に考え――」
「あーっ! もう、分かった分かった! 分かったからこれから作戦会議を始めよう! 異存は!?」
当たりはしんと静まり返った。なんだか奇妙な視線を感じるがこの際無視しておこう。ここは強引にでもプラス思考で。うん。
「よしでは。これからの行動について決めましょう。まずは俺の意見を言います」
まだ静まり返っている。誰か何か言ってくれよ。これじゃ俺一人だけぺらぺら喋って恥ずかしいじゃないか。
「皆さん、樹が喋れって願ってるよ」
真っ先に口を開いたのはジェラー。しかしお前また人の心を読んだのかよ。皆にばれたからってそんなに嫌味っぽく利用しなくてもいいじゃないか。
「とにかくだ。俺はこれから力石と黒いガラスって物の所へ行こうと思っている。そしてそこへ行って――」
「壊すの?」
言葉を制するように発言したのはウィーダと呼ばれていた少女。
俺は一つ頷いて見せる。
「兵器は力石と黒いガラスから作ったんだとあいつは言っていた。だからその二つがなくなればもう兵器は作られないようになるはずだ」
「だけどそんなことが可能なのか?」
今まで静かに様子を伺っていたラザーが口を開く。その視線は比較的鋭いものだった。
「何か……都合がよくないことでもあるのか? ラザー」
一瞬視線を俺からそらして腕を組み、ラザーは再び目を見て口を開く。
「昔から力石と黒いガラスのことは知っていた。かなり有名な話だったんだ、俺や師匠でなくても誰だって知ってることなんだよ」
「え? 何だって――」
ちょっと待てよ、何? 知っていた? 誰でも知ってるようなって、一体どういうことだ?
助けを求めるようにして外人やアレートに視線を送ってもただにっこりと笑みを見せられるだけ。つまり分かっていないんだろうな。
「まあ昔の話だから知らなくても無理はないと思うが」
一つ咳払いしてラザーは続ける。
「そうだな、確か――魔法がなくなった時点でその存在があやふやになったんだ。だけど今も後生大事に抱えて離さない奴もいるらしい」
俺のようにな、と続けてラザーは子供のように笑った。その時のその瞬間だけはラザーが俺より年下か同い年のように見えて仕方がなかった。
「つまりはこの世界にある力石と黒いガラスを壊しても、他の世界に散らばっているものがあるから兵器を作る阻止はできないっていうことだね?」
横から口を挟んできたのは外人だった。こいつって俺より頭いいんじゃないんだろうか。なんか悔しいぞ。
「それでも今の私たちにできるのはそれしかない。私たちは私たちにできることをすればいいんだよ、多分」
一見俺の意志に賛成してくれているように見えるアレートだが、最後の『多分』という単語が非常に引っかかる。多分じゃなくて絶対って言ってくれたらよかったのに。そりゃ、俺だって人のことは言えないんだけど。
「じゃあまず力石と黒いガラス破壊計画ってことで。異存は?」
「ある」
背後からの突き刺さるような声。驚いて振り返ると白い大地の上にスーリが立っていた。
体が勝手に反応して剣に手が触れる。どうやら俺の中の兵器は相手を敵だと解釈したらしい。
「お前らごときに壊せるような代物じゃないんだ、あれは」
相手は傷一つ負っていない。確かあの時シンと対立していたはずだろ? それなのになぜ。あの人はどこにいる?
「シンは?」
俺とまったく同じ質問を発したのは藍色の髪の少年。いや、これは。
少年はこちらを見上げてくる。
「あいつはもういない」
表情一つ変えずに淡々と言う。
「あいつは逃げた」
そうか、だったらよかった。あの人に限ってないとは思っていたけど、もしやられたなんてことになっていたらどうしようかと思った。少しだけ安心する。
「なぜお前はそんなことを聞く? あいつのことなどどうでもいいことだろ。むしろ嫌っていたんじゃなかったのか?」
嫌っていた? ああそういえばそうだったな。
「あいつなど信用するな。最後に痛い思いをするのはお前自身なのだとまだ分からないのか」
「そんなこと関係ない」
分かってるんだ。もう充分痛い思いをしてしまったから。
「あの人は、シンは俺とジェラーを逃がしてくれた。あんたから守ってくれた。それだけでいいんだ」
「お前――」
驚いていたのはスーリだけじゃなかった。そういえばこいつらには何も話してなかったんだっけ。驚くのも無理はないよな。俺だって最初は。
「そんなことはどうでもいいんだ。お前はやはり俺たちに逆らうのか、樹」
他にどうしろって言うんだよ。
「あんたのやり方は間違ってるんだ。兵器なんて作っていいものじゃない」
「それがお前の意見なのか」
俺は頷く。もうこれ以上この意志を変えるつもりはない。
「そうか」
相手は小さく呟くと、少し下を俯いて額に手を当てて顔を歪めた。やっぱり耐えてるんだ。この人も何かに耐えてるんだ。
……あれ? 『やっぱり』?
やっぱりって何?
「ならば仕方あるまい。欠陥品は欠陥品でしかないということか」
あ――そうか。そうだったんだ。
俺はこの人に。
「哀しいな……俺はお前を信じて今まで生かしておいてやったのに」
顔を上げるとスーリは表情を変える。それは戦う者の顔。
俺は一歩前へ進み出る。皆を背中にかばうようにして出たつもりだったのに、隣にはラザーとジェラーの二人が一緒に出てきていた。
もう避けられないのかな、これから起こるだろう事を。
一度目を閉じて相手の言葉を思い出す。確か相手は言っていたんだ、本当は俺を傷つけたくはなかったと。相手は自分の意志で動いてるんじゃないんだ。だけど相手を突き動かしているのはダザイアの意志ではない。きっと相手を、スーリを支配しているものは彼の『存在理由』なんだ。
スーリはダザイアを尊敬し、忠誠を誓っている。彼がそうする理由は彼という存在が『創られた者』だからなのだろう。
自分の意志や意見を殺しているんだ。だけどそれって哀しくない?
「アレート、リヴァ」
目を開けて後ろの二人に呼びかける。振り返りはしなかったけど二人の表情が見えてくるようだった。
「二人はここから離れて力石と黒いガラスの元へ向かってくれ。俺たちも後から追いかけるから」
そう、追いかけるから。どんなことがあろうと絶対に。
「だけど、樹」
不安そうな、いや不満そうな声は少女のもの。俺だって分かるさその気持ちは。だけどどうしてもこの少女にはこの人と戦ってほしくなかったんだ。
「リヴァ、アレートを頼む」
一呼吸おいてから返事が返ってくる。
「いいの?」
「だから大丈夫だって」
口元が勝手に微笑む。知らないうちに心を安定させようとしているんだろう。それほど動揺しているのだろうか、俺は。
「分かったよ。君がそう言うなら」
やがて後ろで足音が響く。最初は一人だけのものだったが、ゆっくりとした二人目の足音も響いてすぐに聞こえなくなった。
あっさりと別れてしまった。いや、別れさせてくれたのか。
「あんた止めなくてよかったの?」
「止める必要などない。俺がすべきことはお前を作り直すことだ」
作り直す。
「そんなことできんの?」
「できるかではない。しなければならないんだ」
「はあ」
相手は相変わらず厳しい態度と口調だったが言っていることはどうもおかしなことばかりだった。可能性とかそういうものを全部無視している。ただ義務だけを追い求めているんだ。
『樹、本当にこれでいいの?』
ふと頭に響いてきたのはジェラーの声。
これでいいかって、どういう意味だよ?
『今までと違って相手、かなり疲れてるみたいだよ』
相手に表情は見えない。
『もしこのまま君がスーリと戦って勝ったりしたら、君は確実に相手の心を壊すことになるよ』
その一言は静かに俺の心を打った。
ああそうか、そうなんだ。俺と相手は対立している。それぞれお互いに譲れないものがあって対立している。そしてその譲れないものは互いに正しいと信じきっている。だからこそ譲れないんだ。だけどそうだからこそどうしても対立する人が現れてしまう。自分が正しいと思っていても誰か他の人は違う見方をするかもしれないのだから。そして今は現に対立している。互いの譲れないもののために。
だけどどちらか一方しか選べないとなったらどうなるか。それが先ほどジェラーの言っていたことに繋がるんだ。
「甘ったれるな」
何か察するものでもあったのかスーリはこちらを強く睨みつける。
「俺はお前を壊す」
決意、と呼ぶべきなのか。それとも逃げていると取るべきなのか。
「あまり時間がない。あいつが馬鹿な真似をしないうちにすべてを終わらせなければならないから」
「だったら」
俺も腹を決めるべきなのだろう。
「来い、樹! この世界の大地の力を見せてやる!」
相手は空中から剣を作り出して構えた。左右に一本ずつ、俺と同じように。
「どうする、どうする?」
まるで子供が笑うようにラザーは言う。視線は相手に突き刺さったまま。
「すべて君の判断に従うよ」
渦巻く魔力を生成しながらジェラーは構える。今だからよく分かる、少しの隙もないんだ。
決まってる。すべてを力に変えるんだ。
「今はただ俺を信じていてくれ!」
自らの力でニ本の剣を抜く。剣の感触が俺は生きているんだと感じさせてくれた。
この場でこんな理由のために死ぬわけにはいかない。俺にはやるべきことがあるとやっと分かったのだから。そう、やっと気づいたんだ。
ごめん、みんな。ここまで迷惑かけてしまって。
だけどあと少しだけ力を貸してくれないだろうか――。
「我は契約者。我は召喚者。我は魔の魂の所有者」
腕にはめられた腕輪が光を放ち始める。
「我は光。光の魂に応えよ、世界の欠片の者たちよ――」
目前で剣が風を切る音が発生した。俺は後ろに体をそらして最小限の動作でスーリの剣を避ける。しかしすぐに二本目の剣が素早く空を切った。俺には到底できないような早業だ。
揺れるのは銀色の髪。相手の剣を受け止めてくれたのは巨大な鎌を構えたラザーだった。すぐにスーリは距離を取るべく後ろへ下がる。相手の足が地面に触れた瞬間に頭上から光があふれた。
俺はすっと手を上にあげる。
「流星よ、メテオシャワー!」
呪文の文句を口にすると大規模な呪文が発動した。光の中から流星が地へと降り注ぐ。広範囲な呪文だったのでほとんど相手を狙うということはできなかった。
だけどこれならいくらあいつでも少しはまいるだろう。何も見えないからよく分からないけど。
「あまり油断しないこと」
「分かってるって」
すぐ隣から注意が飛んできた。しかしそう言った本人であるジェラーはさっきから様子を見るばかりで何もしていない。
やがて呪文が止まると光も消えた。ぼろぼろになっていたのは大地。相手は――、
「甘い。非常に甘い」
相手は俺の背後にいた。
「お前の力はその程度なのか」
後ろから首に剣の刃を当てられている。少し下に視線を落とすと銀色に光る剣が視界に入った。
やばい。これ、すごくやばい。俺の中の何かが叫んでいる。
叫んでいる。
「もう終わりだ、ヴェイグ」
終わり。
終わり?
「今すぐ楽にしてやる。だから大人しく――」
ふと何かが通りすぎた。ちょうど耳のあたりで金属音が響く。
その音によってはっとした。右肘で相手の体を突いて体をひねり、地面を力の限り蹴って相手から離れる。信じられないことだがこれも兵器の成せる業なのか。
「しっかりしろよ、樹」
何かを地面に放り投げるような音と共にラザーの声が聞こえる。よく見てみるとスーリの足元に落ちているのは一本の短剣だった。きっとさっき耳元で落とされたものなのだろう。そしてそれを投げたのはこの青年なんだ。
「お前に戦略というものはないのか?」
疑問の言葉を投げかけてラザーは前へ出た。手には何も持っていない。先ほど放り投げたのはあの大きな鎌だったんだ。だけどなぜ?
などと考える暇もなく戦いは再開された。ラザーは短剣を使ってスーリの剣を受け止めている。隙があれば短剣を突き出したりしているがあまり効果はないようだった。どうも相手からの攻撃を受け止めるのに精一杯のようだ。
これが力の差なのか。三人がかりでも少しも揺れないんだ。まるでレベルが違う。違いすぎるんだ。
いや、考えろ。何か手はあるはずだ。こうしてラザーが時間稼ぎをしてくれている間に何か考えなくてはならない。何か、何か。
『――ちょっと待って?』
「え?」
横に目をやると少年がいる。彼の大きな瞳はスーリでもラザーでもない別の何かを映しているようだった。俺もそちらに目を向けてみる。
そこにあったものとは。いや、いた人は。
「時の支配者よ、公正なる判決を――」
はらりと落ちるのは純白の羽。
「ジャッジメント」
空を舞う羽が風に飛ばされた。
何の音もない。
時が凍りつく。
世界が真っ白になる。
真っ白に。
ああ綺麗だな。光が輝いているんだ。
光が槍のように突き刺さってくるんだ。貫通してどこかへ消えてゆくんだ。
体が壊れる。
兵器が、壊れる。
「駄目だ」
俺が壊れる。
「そんなの駄目だ」
世界が壊れる。
「俺にはまだ」
やらなければならないことがあるのだから。
ごおっという音と共に世界が動き出した。どこかから吹きつけてくる風によって舞っていた羽がどこかへ飛ばされる。
俺は地面に突っ伏していた。体中が巧く動いてくれない。それでも顔を上げてみると周囲の状況がよく分かった。
スーリもラザーもジェラーも皆同じように地面に膝をついている。今ではすっかり静まり返って誰も動いていなかった。
否。一人だけ動いていた。
誰かが何かを蹴り飛ばすような音が聞こえた。その音を発したのは他でもない、一人だけ動いている人。
「おい」
低く響く声はすべてを映しているかのようだ。
「こんな場所で何をしている?」
俺のいる場所からはいくらか離れた所で話している。話しかけられているのはスーリ。そして話しているのはあの人。あの人の後ろにはもう一人、誰だか知らない人がいた。
シンはスーリの髪を掴んで彼を立たせた。見るからに痛そうなのにスーリは何も言わない。じっとシンの顔を見て、厳しい表情を壊さないまま相手に従っているようだった。
「なんとか言ったらどうだ」
そのままの姿勢で少し時間が経過する。
風がまた吹いて純白の羽が舞った。その羽の持ち主は分かっている。持ち主はシンの後ろで身動きせずに佇んでいる知らない人なんだ。
青い髪は肩よりも長く、白いローブのようなものを身に纏っている。そして背中には純白の羽が生えていた。見た目はまるで、天使だ。
異世界って本当に何でもありなんだな。こんな光景を見せられて今更だけどゲームの世界に入っているような感覚が襲ってきた。兵器の次は天使ですか。そのうち神なんかも出てきそうな勢いだ。
「樹、おい」
「へ? あ……」
気づけば横にラザーとジェラーがいた。いつまでもへばっているわけにはいかないと言わんばかりの顔で俺を見ている。そういえば俺だけが地べたに寝そべってたんだっけ。
「君、本当に起きられるの?」
「なんてことないさ、このくらい」
ゆっくりと体を動かしてみる。痛みは先ほどより幾分ましになっていた。これなら起きても大丈夫そうだ。
兵器の力は嫌なものだけど便利なものだな。
だけど、それに捕らわれすぎてはならないから。
「しかし一体何をしようというんだ、あの男」
腕を組み前をじっと見据えているのはラザーラス。その鋭い視線の先にはスーリとシンがいる。俺も真似して目を向けてみたが、その二人の姿を見た瞬間になぜだか言い様のない大きな不安に襲われた。
不安が現実となるかのようにまた誰かが何かを蹴る音が聞こえた。今度はそれが何を意味するのかよく分かった。
蹴られた相手は俺の前まで飛ばされてきた。それはスーリだった。仰向けで地面の上に寝そべっている。俺は相手を見下ろした。
相手はやはり一つも表情を変えていなかった。少しも生きている感じがしない。俺はなんだかいたたまれなくなって、彼の傍にしゃがんで何か言葉をかけようとした。
「スーリ――」
どうしてかな、こんな時に限って言葉が見つからないんだ。
彼の瞳が俺を見た。その瞳はまるで言葉なんていらないと語っているような気がした。そのせいでますますどうしていいか分からなくなってしまう。
「なんで反撃しないんだよ」
口から出た問いは本当に俺の疑問だったのだろうか。
相手は一つまばたきをした。そして閉ざしていた口を開いた。
「俺はあいつに何もしてやれない。だからじっとしているしかない。これであいつの気がすむならそれは喜ぶべきことだ」
俺には分からなかった。何を言っているのかまったく理解できなかった。
「何だよそれ?」
「お前にもいずれ分かるさ」
それだけを言うとスーリは立ちあがった。体には多くの傷のあとが見えるのに少しも痛そうな素振りを見せていない。きっと痛みも分からないんだ、彼は。いやわざと隠しているのかもしれない。だったら余計にいたたまれない。
スーリが立ち上がると彼の前にはすでにシンが立ちふさがっていた。この人もスーリと同じような感情を押し殺したような顔をしている。一体何が彼らをこうさせているかなんて予想もできないことだ。非常によく似ているのにこんなにも考え方は違うけれど。
「お前は何をするつもりだったんだ」
静かに問うのはシン。問われたスーリは何も答えない。
「黙っていればすむと思うな」
彼の瞳に光が宿る――ように見えた。
ふと誰かの足音が聞こえた。こちらへ向かってくる足音。均整のとれた速さで少しの乱れもないそれはすぐ近くからのものらしい。そちらへ顔を向けるとその人の姿よりもまず最初に薄い黒の瞳が見えた。相手もこちらの目を見た。足はその時点で止めていた。
それは羽を持つ青い髪の人だった。髪は青いのに目は黒いんだな。どこか無理矢理くっつけられたような印象を受けた。髪にも、目にも、そして純白の羽にも。
目があった時は長くはなかった。相手はすぐに目をそらしてしまったんだ。その後は止めていた足を動かしていた。まるで何事もなかったかのように。
あれは誰なのだろう。
「ねえ、今のうちにここから遠ざかった方がいいよ」
俺の隣で少年は言う。
「逃げるのか? 俺は嫌だね。そんなみっともない真似はしたくない」
「だったら一生ここで寂しく生きることだね。さあ君はどうする? 樹?」
「そんな、冗談だって。こんな世界なんかで住みたかねえや」
「嘘つきだね。嘘つきは泥棒になるんだよ」
「悪かったな、元泥棒で!」
目前ではのんびりとした時間が過ぎているように見えた。だけどこんなものに逃げてしまって本当にいいのだろうか? 後悔しないだろうか?
きっとするに決まってる。
「スーリ、シン!」
ごめん二人とも。俺のわがままに付き合わせてばかりで。
「もうやめろよ、こんなこと!」
逃げようって誘ってくれてありがとう。酷いこと言ってごめん。突き放してしまってごめん。ごめんな。
「なあ、あんたたちは幸せに暮らしたいだけなんだろ? それがなんでこんな喧嘩なんかしなくちゃならないんだ?」
あの二人にも言いたかったな。いや言わなきゃならなかったのに。どうして言わなかったんだろう、そしてなぜ今も言えないのだろう?
ジェラー。あんたには聞こえてるよな?
「幸せになりたいんだろ。俺だってなりたいよ。そのためには喧嘩なんか――」
「黙れ!」
世界がぐるりと回った。見えるのは空と、金色の短い髪。
「何が幸せだ、分かってないくせに分かったような口を利きやがって!」
赤い瞳の中に鋭い光が宿っている。
「お前みたいな奴がいるから世界は、あいつは、そして俺は――」
相手の顔の向こう側に巨大な魔力の渦が巻いている。俺は締めつけられて動けない。動けない。誰か。
「やめろシン!」
「うるさい!」
聞こえてきたスーリの声も虚しくかき消されただけだった。力が爆発しているみたいにどんどん増幅されていくんだ。もはや誰にも止められない。
「樹!」
ああ、俺、死ぬのかな。
今度こそ終わりなのかな。
「やめてくれ――」
もう声も出ないんだ。世界は真っ白だ。
何も分からない。
「やめてくれ、やめてくれよ! そんなでたらめで雑な力でこの子を壊さないでくれ!!」
……『この子』。
俺、弟だから。
そして相手は兄だから。
だけどあんたも兄だよな、シン。
「黙れ、黙れ! お前らなんて全員消してやる! すべてなくなってしまえばいいんだ、すべて! 消えろ! 消えろ! 消えろ! 何もかも壊れてしまえ! 壊れて――……」
「シン」
ふわりとした声が静かに遮った。
魔力の渦が増幅を止める。
「シン、落ち着いて」
静かな、本当に静かな声だ。聞いているだけで心が冷静さを取り戻してくるような声。こっちまで落ち着いてしまう。俺に向けられたわけじゃないのに。
だんだんと状況が分かってきた。魔力はまだ消えていないけど随分ましになっている。俺の周囲には魔力で壁が作られていた。そのせいで誰も何もできなかったんだろう。
そして目の前には、見上げた先にはシンがいる。彼の大きな手は紙のように真っ白の手に握られていた。いや、上に重ねられていたんだ。
白い手の持ち主は、『天使』。
静かな微笑は心を和らげてくれる。
「あなたが意のままに行動して良い時は今じゃない。そうでしょう?」
とてもゆっくりとした口調で一つ一つの言葉をはっきりと発する。それを聞くと心が安定するけれど、他にも何か妙なものがあふれてくるように感じられる。それが何なのかは、相手の言葉が俺に向けられたものではないから分からないのだけれども。
こんなものを真正面からぶつけられたシンはどんな顔をしているのだろう。
張っていた氷が一気に割れるようにして周囲の魔力の壁が壊れた。音を立てて砕けたそれらは砂のように粉々になって風に運ばれ、消えてゆく。体に痛みはなかったので、俺は立ちあがった。
「大丈夫?」
「平気か?」
また心配かけちまったか。やっぱり後でちゃんと謝らないといけないな。だけど今は一つ頷くだけにしておいた。今は謝っている暇なんて与えてはくれないのだから。
「そうだ」
シンは俺の顔を見た。
「そうだ、その通りだシフォン」
シフォンというのが『天使』の名前なのだろうか。
「俺はまったく、馬鹿だった」
自分を卑下している。相手の言葉に俺は驚きを隠せない。
だけどそれが間違いだった。俺は驚いている場合じゃなかったんだ。シンの手の中の魔力が急に活性化されて鋭さを増した。何か言う暇さえなかった。彼の魔力はスーリを捕えていた。
何をするつもりなのかは知らない。でもすごく危険なことだと俺の中の兵器が言っているのが分かる。
止めないと。
止めないと大変なことになる。
「シン、やめ――」
「樹! 馬鹿!」
踏み出した足ものばした手も何者かによって止められた。
「何すんだよ! 止めないといけないだろ!」
「止めるとかそういう問題じゃないんだよ! あんなのに近づいてみろ、お前なんて一瞬であの世行きだ!」
俺を止めていたのは不老不死の青年だった。ラザー。心配してくれるのは嬉しいんだ。だけど俺だって同じくらいあの二人のことを心配しているのに。
『君の言い分は分かるけど。でもだからって君をそのままにすることは君を見殺しにすることになるんだよ』
分かってるさ、そんなこと。でもこれじゃ駄目なんだ、このままじゃ二人とも危ないんだ。
「シン、お前……」
聞こえた声にはっとする。
「どこまで逆らう気なんだ!」
この声はスーリのもの。だけど今にも消えてしまいそうなほど痛々しい。
現状は何も起こっていない。何かが起こって今はそれが終わってしまったのだ。二人とも地面に足をつけて立っている。立っているけど、明らかに様子が違う。
「行くぞ、シフォン」
「はい」
シンに呼ばれて青い髪の『天使』は、シフォンは光に包まれて鳥の姿に変わった。銀色の羽の鳥。常にシンと共に行動していたあの鳥だ。
何も言わずにシンと鳥は姿を消してしまった。白い空の中を巨大化した鳥に乗って飛んでいってしまったのだ。残されたのは、青い髪の青年だけ。
「スーリ」
声をかけた瞬間だった。
俺の目の前で彼は力を失い、その場に静かに倒れた。