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第五幕
―失ったもの―

 

 分かってしまったんだ。気づいてしまったんだ。
 自分という存在の重さを、自分が犯した償い切れない罪を。
 だけど気づいたからといって何ができるだろうか? 謝ってすむような問題じゃないのに。
 俺はどうするべきなのだろう。
 俺は。
 おれは。
 私は。

 

第一章 思い出

 

81 

 俺は深い闇の中にいるらしい。意識がぼんやりして、よくものが考えられないんだ。
 体はうまく動かせない。だけど視界だけはしっかりしていた。目の前に広がる闇だけは形を少しずつ変えながら俺の中に入り込んでくるようだ。
「――」
 ふと聞こえたのは誰かの声。明らかに俺に向けられている、きっと俺の名前を呼んでいるのだろう。
 でも目は開いているのに。
「――様、――」
 やがて視界に一筋の光が差し込んできた。急に明るくなって――いや、少しも明るくなんかなかった。
 目の前に広がるのは白黒の世界。
「やっと起きましたね」
 すぐ後ろから声をかけられた。そしてようやくこの状況がおかしいことに気づく。
 視界に映るのは白黒の世界の一つの部屋のようだった。俺は机に突っ伏して眠っていたらしく、目の前の机の上にはくしゃくしゃになった開かれた本があった。よく見てみると周囲には本の山ができている。
「そんなに疲れるようならもっと暇なときに休んでいればいいんですよ」
 体は動かせない。俺の意志と関係なく勝手に動いてくれるんだ。
 そうだ、きっとそうだ。俺は今別の人の視点から世界を見ているんだ。誰の視点から? 多分過去の誰かのものだ。
「しっかりしてくださいよね、ダザイア様」
 呼びかけられて分かった。ダザイア――俺の親。
 俺は今、ダザイアなんだ。
「どうかしましたか? ぼんやりして」
 何も言わなかったので不思議に思ったのだろう、さっきから執拗に話しかけてきていた相手――スーリはダザイアの顔を覗き込んだ。
 俺は何もできない。
「何でもない。少し寝ぼけてしまったみたいだ」
「だからもっと休みなさいって言ってるんですよ。あなたは俺たちより若くないんですから」
「私をお前たちと一緒にしてほしくないな」
 部屋は暗かったけど光が満ちているようだった。
 今とは違ってダザイアは生きてるし、スーリも無機質な声なんかじゃなく人らしい表情を見せながら会話をしていた。これが一人の人のためにあるものだなんて信じられないようなことだ。
 どうしてだろう。
「スーリ、ヴェイグは元気か?」
「はい。とても元気です」
「そうか」
 俺はダザイアなのでダザイアの顔は見えない。どんな表情をしているかなんて知ろうとしても無理だった。だけどなんとなく分かるような気もする。
 ダザイアは立ちあがった。目の前に開かれてあった本を閉じ、そのまま部屋の扉の方へと歩いていく。
「どちらへ?」
「少し風に当たってこようと思ってね」
「俺も行きます」
 平凡な日常。安全なひととき。
 もしかしたら俺は地球で暮らさなくともそれらを手にしていたのかもしれなかった。もっとも、今ではそんなものは影も形もなく消え去ってしまったのだが。
 外に出るとすぐに真っ白な空が見えた。ダザイアは上を見上げている。その視界には黒い太陽と共に高い建物のような階段が映っていた。あれは力石と黒いガラスが封印されている場所。
 この人はどんな気持ちであの場所を見上げているのだろう。この人はどんな気持ちでこの世界を見つめているのだろう。答えのない疑問は頭の中にあふれてくるばかりで少しも解決してくれない。
「スーリ」
「はい」
 目は空に向けられたままだった。
「私は間違っていたんだろうか」
 彼の呟きは俺の中へ入っていく。
「それは俺には答えられません。ただ」
 隣から聞こえてくるのは今とは違ったスーリの声。
「ただ?」
「俺はあなたに従うだけです」
 それだけを言うと両者とも黙り込んだ。
 なんとなく、俺は悲しかった。
「あの」
「どうした? スーリ」
 二人の会話は俺の中に直接入り込んでくるんだ。気持ちとか感情とか、そういうものも全て含めて。
 泣きそうだ。
「……何でもないです」
「そうか」

 

 気がついた時には俺はダザイアではなくなっていた。代わりに別の誰かになっているようだ。まだ誰なのかは分からないけれど。
 傍には誰もいない。さらにここは白黒の世界ではなかった。どこまでも見渡せるような緑の草原の上に一人だけ立っている。天に輝く太陽の光はなんだか懐かしくて、実際に帰ってきたような気分になれて少しだけほっとした。
「おい」
 なんてことを考えていると『俺』は口を開いた。
 この声はシンだった。
 俺は今、シンになっている。
「なぜついて来た」
 どうやらどこかに誰かがいるらしい。状況からして後ろにでもいるのだろう。シンは振り返ってくれないので俺には少しも分からない。
「なぜついて来たんだと聞いている」
「……お兄ちゃん」
 耳に届いたのは一人の少年のような声。
 もしかして。
「ごめんなさい」
「謝ってる暇があったらとっとと帰れ、欠陥品野郎が」
 言葉を吐き出すとシンは歩き出した。『欠陥品』は後ろに残されたまま。
 しかしすぐに足を止めた。そしてまた鋭い口調で叱りつけるように言う。
「なぜついて来るんだ。帰れと言っているんだ、俺は」
「う、うん。分かってる。でも、帰り方、分かんないよ」
 おずおずとした口調で『欠陥品』は答えていた。その言葉が終わるか終わらないかのうちにシンは後ろを振り返り、相手の元へつかつかと歩み寄った。
 目の前にいるのは一人の少年。黒い髪と茶色を帯びた黒い瞳を持っている『欠陥品』と呼ばれている兵器。
 つまり、『俺』だった。
「あ、あの」
 びくびくしたような表情の『俺』の前でシンは足を止めた。
 この人の瞳に『俺』はどのように映っているのだろう。この臆病で小さくて冷たい兵器である俺はどのように思われていたのだろう。
「ヴェイグ」
 呼びかけられたわけじゃないのに俺に向けられているように思えた。目の前にいる兵器はじっとシンの瞳を見ていた。
「お前、ダザイアのことをどう思う?」
 それは安易な質問。だけど俺には到底答えられそうにないものだった。
「お父さん? どうって、好きだよ。それに、スーリ兄ちゃんも、ウィーダ姉ちゃんも好きだよ。好きだよ」
 そしてシンも好きだ、とは言わなかった。そりゃそうだよな、言えるわけがないよな。
 だって『俺』はシンのこと――。
「はんっ、馬鹿馬鹿しい! 何も知らない愚かな出来損ないが!」
 何か心の奥で黒いものが渦巻いていた。それが言葉と同時に俺の中に入ってくる。
 兵器はきょとんとしていた。大方、愚かという言葉の意味が分からなかったのだろう。自分が卑下されていることにも気づいてないんだ。
 俺、子供だな。なんだか情けないよ。
「もうこれ以上ついて来るな。向こうに送ってやるからあいつらにこのことを言うんじゃねえぞ」
「あ、うん、ありがとう……」

 

 俺はなかなかシンから離れられなかった。
 兵器がシンの呪文によって白黒の世界へ送り返されてからも俺はシンの中にいた。彼は一人になると長い間草原の上を歩き、やがて唐突に足を止める。なぜなら彼の前に一人の人が現れたからだ。
「あなたは、もしかしてあの時の?」
 あの時? 俺には分からない。
 彼はこの時点ですでに偽善者になっていたんだろうか。
「誰だ」
 そうではなかった。もし偽善者になっていたならこんなに鋭い言葉を口に出したりはしない。
 相手は一人の若い男性だった。見たこともない、いかにも平凡そうな顔をしている人。どこをどう見てもシンと関わりがあるようには見えないただの一般人だ。
「あはは、忘れちゃいましたかね。俺はつい先日あなたに助けられたんですよ。ほら、あっちの方の森で魔物に襲われている時に」
「忘れた」
 きっぱりと答える様はいかにもシンらしかった。
「いいんです。忘れられても」
 だけど相手は少しも嫌そうな顔なんかしなかった。嬉しそうににこにこと微笑んでいて、本当に心の底から幸せそうに見えて仕方がない。
「でもね、助けられた人っていうのは助けた本人が忘れちゃってもずっと覚えているものなんですよ。俺は一生あなたのこと覚えてると思うんです。だってあなたのおかげで俺は生きていられるんですから!」
 ああ、本当に、本当に嬉しそうだ。
 俺はまだこんな顔をした人を見たことがないというのに。
「そういうわけで、何かお礼がしたいんですが。俺にできることってありますかね?」
 俺って人を幸せにすることなんてできるのかな。
 今まであんなに傷つけてきたというのに、今更だけどさ。
「――この辺りで」
 シンの言葉が俺の中に入る。
「銀色の鳥を見なかったか」
 どきりとした。
「いえ、見てませんが……」
「だったらもういい」
 そうか。シンはあの鳥のために、いやシフォンのために白黒の世界からこちらへ来ていたんだ。
 ただシフォンのためだけに。
「すみません、お力になれなくて」
 相手の男の人は申し訳なさそうな顔をしていた。きっと心の底からの本音なんだろうな。少しも嘘が見えない目をしている。
「気にするな」
 急に涙があふれてきた。
 俺は嬉しいのか悲しいのか分からなかった。だけど視界がぼんやりしてしまって何も見えなくなってしまったので、この涙を隠そうと必死だということだけはよく分かったのだった。

 

 

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