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シンはいつでも独りだった。
白黒の世界にいても別の世界へ行っても他人と馴れ合うことを嫌い、近づいてくる人からあからさまに遠のこうとしていた。傍には誰もおらず独りで行動し、あらゆることを自分だけの力で解決して生きているようだった。
俺は長い間そんなシンの行動を見ていた。いや、そんな行動を彼の視点から眺めていたと言った方が正しいか。いつもいつも独りぼっちで自ら他人を避け、何日も何日もどんな思いを抱えて過ごしていたのだろう。そしてもし俺がシンだったらどんな行動を取るのだろうか。
そんな彼の生活が変わったのは、シフォンという名の鳥に会ってからだった。
実際シンにとっては再会した、と言うべきなのだろう。相手もシンもお互いのことを知っていた。鳥は翼の生えた『天使』の姿になったり、銀色の羽を羽ばたかせる巨大な姿になったりしてシンの傍へやってきた。シンはこの鳥だけは避けたり遠ざけたりしなかった。もっとも、俺にはその理由は分からなかったのだけれど。
だけどなんとなく感じるものはあった。
再会した時シフォンは傷を負っていた。どこかの魔物に襲われたのか、それとも何かの事故にあったのかしたのだろう。その時シフォンは『天使』の姿になって小さく呟いていたことを覚えている。
「僕は何も望んではいけないんです。でないと――」
その後にどんな言葉が続くのかなんて予想もできない。でも、この呟きは俺にとってもシンにとっても何か大きなものを与えたに違いなかったと断言できる。
思うんだ。この二人、似たもの同士なんだ。
二人とも何か大きなものに縛られている。二人とも強い力を持っている。そして二人とも、孤独であることを余儀なくされているんだ。
シンはきっとそのことに気づいて、相手と自分の似ているところが分かってしまって相手に心を開いたのだろう。その気持ちは俺にだって分からなくはない。誰だって本当は独りは嫌なんだ。いくら強がってたって独りぼっちは嫌なんだよ。
シフォンの事情は分からないけど、シンは進んで独りになってた。ダザイアとかスーリやウィーダ、それにヴェイグが彼に話しかけてきても少し言葉を吐き出すだけだった。本当にシンは心の底からダザイアやスーリに反対していた。あの白黒の世界から逃げ出すには大きな力と孤独が何よりも必要だったんだ。
俺のやるべきことが終わった時にシンの命は止まる。確か彼は俺にそう言ってきた。俺のやるべきことというのが世界の変革なら、シンは俺を欠陥品にしてしまえば良いと思ったのだろう。そうすれば命は止まらない。生きられる。
生きられる。
そっか。そうだよな。言ってたんだ、生きたくなったと。世界にある楽しいこととか嬉しいこと、美しいものとか愛しいものなんかを知ってしまったから生きたくなったと言っていたよな。
なあ、これってさ、欲――だよな。
欲、ううん、望みって言った方がいいかな。
望みって人なら誰でも持ってる。魂である俺だって持ってるんだ、持ってない人の方が珍しい。でもシンは人でも魂でもない。
それでも持っている望み。
望みと言っても、すごくすぐに手に入りそうなもの。いや、すでに手にしていて必死で抱え込んでいるもの。
『生きたい』
言葉が反響する。
生きたい。
生きていたい。
俺として生きる。
俺として――シンとして生きたい。
言ってたんだ、あの人。
自分として生きたいって。
あの世界のために縛られずにシンとして生きたい。決められた命ではなく自由な体で生きていたい。
どうして分からなかったんだろう。この気持ち、全く俺と同じなのに。
俺は。
俺は今まで真実を知らなかった。それに比べてシンは何もかもを知って理解もしていた。さらに何の力もなかった俺に対しシンは強大な力を得ていた。
比べてみたら似ているところなんて少しもないように見える。それでも内に秘める思いは全く同じだったんだ。
なあ、生きることって、誰かに決められなきゃならないことなのかな。
自分の生きたいとおりに生きることって、不可能なのかな。
そんなことはない。
シンは俺にこのことを教えてくれようとしているのかもしれない。過去を振り返ってありのままの自分や世界を見せ、どんな思いを抱えていたのかということを知らせて。
でもやっぱり感じる。
あの人は俺を嫌ってる。恨んでる。この暗い闇を通して見える彼の姿は俺の知っている相手とは違う空気を持っているんだ。俺の知ってるあの人なんかよりももっと穏やかで落ち着いている、それでも哀しみのあふれている空気を。
彼の気持ちが分かったところで俺にはどうしようもなかった。どうすることもできなかった。俺は相手の思うままに踊らされていることしかできないのだから。相手は俺のことを恨み続けているのだから。
しばらくするとまた場面が変わった。
今度は白黒の世界の大地の上に立っている。若干視点が低くなっていることからしてウィーダかヴェイグにでもなったのだろう。
「ウィーダ!」
呼びかける声が聞こえた。そっか俺、ウィーダになってるんだ。
振り返ってみると黒い髪の少年が――ヴェイグが走ってこちらに向かってきていた。
「ウィーダ姉ちゃん!」
「どうしたの? 今は修行の時間でしょ」
答えた少女の声は綺麗だった。
「うん、でも、スーリ兄ちゃんにシン兄ちゃんを捜してこいって言われて捜してたんだ。お姉ちゃん、知らない?」
「見てないよ」
綺麗だけど少し冷たさが混じっていた。
「私も一緒に捜してあげる」
「いいの?」
「うん。ちょっとシンには言いたいことがあったから」
目の前の少年は大きな目を丸くした。いつかシンに見せたものと同じようにきょとんとした表情をしている。
「じゃあ私はあっちの方を捜すから」
ウィーダの小さな手は力石と黒いガラスが封印されている場所の方角を指差した。
「見つけたらスーリ兄ちゃんの所に行ってね」
「分かった」
そこで二人の子供は別れる。
ヴェイグに背を向けたウィーダは軽い足取りで道のない大地の上を歩いていった。
大地には草も生えていない。ところどころに大きな岩がごろりと転がっていたりもするけれど、それはこの荒野のわびしさを増しているだけであった。
しかしそんな白黒の荒野のある一点に一つだけおかしなものの姿があった。
おかしなものとは言っても別の世界では当たり前のものである。あったのは一本の木。葉と葉の間には赤いリンゴが実っている。
そう、赤いんだ。
リンゴだけじゃない。この木には色彩があるんだ。葉は鮮やかな緑色をしているし幹は少し濃い茶色をしている。別の世界ではどこにでもありそうな一本の木。それでもこの世界にとっては異端とされる色彩を持つ木。そんなものが荒野の真ん中に一つだけぽつんと置き去りにされていた。
ウィーダはその木に近づき、赤く熟したリンゴを一つもぎ取った。形はよいものとは言えなかったけれど、とても美味しそうなリンゴだった。
「兄さんたち、喜んでくれるかな」
発した声は悲しげだった。
ウィーダは何も知らないはずだった。だけどきっとどこかで感づいていたんだろう、自分はこの世界の者じゃなかったと。そう思わせた原因はこの色彩のある一本の木なのかもしれない。
また軽い足取りで大地の上を歩き出した。今度はその綺麗で悲しげな声で、いつか聞いたことのある懐かしい歌を歌っていた。
再び黒いものの中に放り込まれたような気がした。すぐに分かった、これはシンの視点なのだと。
また独りだった。彼は独りでいることに抵抗がないから仕方がないと言ってもいいかもしれない。だけどなんだか俺は、俺として動いているのではないにしてもこんな孤独はもう嫌だった。
早くシンから離れてしまいたかった。でもここで感じるものはシンの思いが一番強かった。その強い思いが俺を引き止めて、彼のことをもっと知りたいと思ってしまうまで引きつけてゆくのだった。
一つの部屋、だろうか。白と黒の世界かどうかは暗いからよく分からない。視界に移るのは印刷された活字――本だった。傍に鳥の姿は見えない。
こんな暗い中でよく本なんか読めるな、と思ったが実際に彼は本を読んでいたわけではなかった。なぜなら長いこと活字と睨み合っていて、いつになっても次のページへ進まないのだ。開いて手の中に持っているだけであって読んでいるわけではない。考え事でもしているのだろう。
ちょうどそんな時、部屋の中にウィーダが入ってきた。さっきの続きなんだろう、手には赤いリンゴの姿がある。
「シン。スーリ兄さんが捜してるよ。早く行きなさい」
シンは何も答えなかった。視界がぼんやりする。
「聞いてる? 聞いてないでしょ。ほら、早く目を覚ましてってば」
ウィーダは目の前まで来た。やっとシンは顔を上げ、相手の青い瞳の中を覗く。
「……うるせえよ」
最初に吐き出した台詞は冷たい刺が含まれていた。
「じゃあ行きたくなったら行ってね。私向こうで待ってるから。向こうに来たら一緒にこのリンゴ食べよう」
「待て」
「え?」
シンは相手の腕を掴んだ。
「ヴェイグはどこだ」
「あなたのこと捜してる」
「どこだと聞いている」
「知らない。自分で捜せばいいじゃない」
二人ともどこまでも強気だった。それぞれに思うことがあったのだろうけど、俺にはそんなもの少しも分からない。
「じゃあ私、本当に行くからね」
「勝手にしろ」
それだけを言うとウィーダは部屋を出た。
ぱたんとシンは本を閉じる。閉じた時に本の表紙が見えた。分厚くて難しそうな本だった。だけど表紙には何の文字も書かれてなかった。
本を傍の机の上に置き、椅子から立ち上がる。そして歩いて閉じられている窓の傍へ行った。部屋の扉とは反対方向にあるそれは今は外からの光を遮断している。それでもうっすらと、外の景色を見ることができた。
シンは窓を見ていた。窓の何を見ていたのかは知らない。窓の外の景色を見ていたのか、それとも窓に映った自分の姿を見ていたのか。彼の赤い瞳は静かに窓を見つめていた。
ダザイアもスーリもウィーダもヴェイグも、ここに住む人々は皆それぞれいろんなものを抱えている。だけどそれは何のためにあるものなのだろう。ダザイアは世界の変革のために、スーリはダザイアのために、そしてウィーダとヴェイグはダザイアのために?
それに比べてシンは、自分のために。
シンは何を楽しいと感じ、何を愛しいと思ったのだろう。彼は何のために生きたいと思ったのだろう。そしてどうしてそれを俺が壊さなきゃならないのだろうか?
これじゃ俺、お人好しでもなんでもないよな。
いろんな人の心を理解して、それぞれの事情を知ったように解釈して。それだけで人が救えるのなら誰だって苦労はしない。それが限りなく不可能だからこそ悩み続けるのだと分かっている。
それでも彼の、シンの気持ちは分かるような気がした。いや実際に分かってしまうんだ。俺と同じ気持ちだから。だからこそ痛みを感じるし望みが見えてくるし何よりも悲しくて涙があふれてくる。
だって、だってさ。自分の生きてる理由とか、しなければならないこととか、寿命だとか義務だとか。それらがあらかじめ決められてるんだよ。欠陥品になってしまったからといってただの従僕みたいな扱いして、それでも優しい言葉をかけてきたりしてさ。
優しいのか厳しいのか分からない。分からないよ、もう何もかもが。
優しさの裏には目的があり、厳しさの一片には愛情がある。『家族』という名のあたたかさ。こんな家族、あたたかくもないただの偽りだ。俺は、少なくとも俺はこんな『家族』は知らない。
家族ってもっとあたたかいものだろ。家族ってもっと信じられるものだろ? それなのにどうしてこの人々は――。
そりゃそうだよな、シン。勝手に創られて勝手に欠陥品になってて。挙句の果てには決して逆らえない環境に追いやられたりしたら、そりゃ俺を欠陥品にしたくもなるよな。そうしなきゃ気がすまないよな。そうでもしなきゃ心が潰れそうになるよな。そうだ、そうだよ。それが当たり前のことなんだ!
何もかもに裏切られて。
「俺は」
慕っていた者に捨てられて。
「俺はどうして」
愛せると思った者にも避けられて。
「どうして死ななきゃならないんだろう」
ただ、本当に。
「どうして生きてはいけないんだろう」
本当に、単純に。
「俺は――……」
俺は、ただ。
自分という存在を知りたかった。
なあ、みんな。
俺、ちょっと疲れてしまったんだ。
疲れてるのは俺だけじゃないって分かってる。けど、それ以上に俺は少し時間が欲しいんだ。
それで何かが変わるわけじゃないとは分かってる。それでも考えるだけの時間が欲しい。
わがまま言ってごめん。だから。
もう少し、このままで――。