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 確かに人は愚かで醜い。同じ過ちを平気で繰り返す。
 だけどそんな人をあなたは信じた。
 そう、あなたは――。

 

第二章 壁と壁の先に

 

82 

 耳元で空気がざわつく音が聞こえる。まぶたの裏に光を感じ、ゆっくりと眩しさに負けないように目を開いた。
 目の中にまず入り込んできたのは木造建築の天井。見覚えのある景色だと思って体を起こしてみると、本当に見覚えのある部屋だったので少し驚いてしまった。
 窓から差し込む光はやわらかく温かい。自分が寝ていたのは一つの部屋の中にあるベッドだった。傍には小さな机があり、一輪だけ花が飾られている。
 ここは、師匠の家だ。
 そうだ、戻ってきたんだこの世界に。
 ベッドの上から体を下ろし、壁にかけられている鏡の前に立った。映し出されるのはすっかり疲れ切ってしまった自らの姿。服装はあの世界に行った時のものと変わっていなかった。ただ、泥やら血やらですごく汚れてしまったけれど。
 なんとなくそんな自分が寂れているように見えた。
「あ、気がついたんだ」
 部屋の扉が開いてリヴァセールが入ってくる。見たところあまり元気そうには見えない。
「よかったぁ。起きてる人が誰もいなくて暇だったんだよ」
 そう言って笑う顔は無邪気な子供のよう。
「誰も起きてないんだ」
 声を出すとぼんやりしてた頭が冴えてきた。
 再び鏡と向き直って髪を手で整える。いいかげん長くなってきたから切りたいなんてことを考えながら簡単に服のしわを直した。
「少し風に当たってくる」
 隣にいたリヴァに声をかけて部屋の外に出た。この廊下もいつもと変わらないな。
「ちょ、ちょっと待ってよ。ぼくの話聞いてた?」
「へ?」
 後ろから相手はついて来ていた。ああそういえば誰も起きてなかったとか言ってたっけ。
「ぼくも一緒に行くよ、アレート」
「うん、分かった」
 返事を返すと相手はなぜか安心したように息を吐いていた。

 

 私は樹の姉だと言われた。
 アユラツに封印した力石と黒いガラスの扉やアユラツへ行くための扉の鍵を身体に秘めている人らしい。らしい、と言うのはまだあまり実感がないからである。
 私の役割は大層なものじゃなかったけど樹のそれはあまりにも大きすぎた。スーリは樹のことを兵器と呼び、シンは欠陥品だと言っていた。樹はアユラツのために作られた兵器であり、シンによって欠陥品にされたらしい。
 しばらくはアユラツで私と樹は暮らしていたと言う。少し思い出してきたことはあってもやはりほとんどは忘れてしまった。それがなぜ別の世界へ追いやられたのかというと、全てシンによってもたらされたことだった。
 シンはとても樹のことを嫌っていた。だけど私に対しては嫌な目を向けてこなかった。彼が私と樹を別の世界へ飛ばしたことによってスーリも動き出したと言う。スーリは樹が欠陥品であることに気づいたのでわざと自分が悪役になり樹を鍛えようとした。
 実際スーリもシンもどんな目的で動いていたのか私には分からなかった。あんな風に説明されても少しも理解できなかった。
 だって二人とも本音を言ってくれなかったのだもの。分かるはずがないよ、まったく。
「アレート?」
 はっとして顔を上げると目の前には不思議そうな表情が。どうも考え込んでしまったらしい。
「何でもない」
 そしてはたと思いつく。
「それよりリヴァ。あなた大丈夫だったの?」
「へ? ……ってああ、あれね……」
 あの後。
 樹たちと力石と黒いガラスの封印場所へ行ってシンの魔力の暴走があった後、世界は本当に崩れてしまいそうなほど揺れていた。どうしようかと混乱している時に飛び込んできたのがラザーだった。
 ラザーは私たちを一点に集めようとした。だけど樹が気を失って倒れてしまった。彼は樹を背に背負い、揺れる地の上で魔法を使った。
 その時最も大変だったのが今目の前にいる青年さんである。この人って呪文とか魔法とかには強そうなのに「こんな無茶な移動は嫌だ」とか何とか言ってそれはもう大変だった。無事に辿り着いた時にはすでに気絶。まあその後私たちも気を失ってしまったんだけど。
「本当に怖かった。これ以上ないってくらい恐ろしいことだったよあれは」
 そして今はぶつぶつと愚痴をこぼしている。
「なんであんな滅茶苦茶が許されるかなー。まったくラザーもああいうところでいいかげんなんだから――」
「俺が、何だって?」
 かと思えばリヴァの背後に噂のラザーが。
「あ、ラ、ラザー起きたんだ」
 ラザーは腕を組んでじろじろとリヴァの顔を見ている。かなり何か言いたそう。
「師匠がいねえ」
 ……はぁ?
「お前ら知らねーか?」
 ああ、そういうことか。なるほど。
「見てないけど」
「っていうかぼくらさっき起きたばかりだし」
 とりあえず二人して答えるとラザーは少し肩を落とした。
「そうか。じゃあ仕方ねえな、俺ちょっと捜してくらあ」
 腕組みを解いてズボンのポケットに手を入れるとラザーは背を向けて歩いていった。銀色の長い髪はさらさらとしていていつ見ても綺麗。私の髪とは大違いだなあ。
「あれ、ちょっと待って。師匠がいないんだったら誰がぼくらをこの家に運んだんだろう?」
「え? ……あっ、そっか。ここって師匠しか残ってなかったもんね」
 アユラツからこっちに帰ってきてまだそんなに時間は経ってないはず。目を覚ましていない人を放っておいて外出するほど師匠は悪い人じゃない。つまり私たちが着いた時にはいなかったんだろう。
「大丈夫。悪い人はいないよ」
 なんてことを考えているとちょっと下の方から声が。視線を少し下げてそちらを振り返るとそこには藍色の瞳を持つ少年がいた。
「ジェラー。起きたんだ」
 この子を見たらついつい頭をなでてしまう。今回も同じ事をしてしまった。藍色のふわりとした髪は触ると気持ちいい。
「は……。えらい違いだねジェラー君」
「何が?」
「樹がなでたらすぐに手で払いのけるのにさ」
 目の前ではひそかな喧嘩が始まろうとしていた。なんでそんなつまんないことで喧嘩なんかしようとするかなー。本当情けないと言うか、何と言うか。
「アレート、君って……」
 ふと気づけばジェラーが変なものでも見るような目で見てきていた。
「ま、まあまあ。一回外に出ようよ。風に当たると気持ちいいよ」
 隣から聞こえたリヴァの声にはっとした。そういえば元は風に当たるために部屋を出たんだっけ。
「じゃ、行こうかな」
 廊下をすたすたと歩く。この家は狭いのですぐに大きな机が陣取っている広間に出た。そして家の扉を開ける。
 太陽の光が眩しい。
 ああ、やっぱり帰ってきたんだなとまた実感させられた。

 

 樹はいつになっても起きてこなかった。
 師匠の家の外で風に当たっていると気持ちよかった。なんだか嫌なことが全部吹き飛んでいくようで、ずっとこうしていたかった。
「あれ、お前」
「おかえり」
 ぼんやりと家の壁にもたれて立っているとラザーが帰ってきた。帰ってきたのは一人だけ。捜すと言っていた師匠の姿はない。
「師匠いなかったんだね」
「ああ。あの野郎見つけたら絶対ぶん殴ってやる」
「はあ」
 ラザーは私の隣に立った。とん、と壁にもたれかかる。
「他の二人はどうした?」
「二人ともどこかに行っちゃった。知らない」
「ふうん」
「なんで樹のことは聞かないの」
 正直に言うとラザーは少し顔を歪めた。そんな顔されても困る。
「あいつはまだ起きねえだろ」
「どうしてあなたにそんなことが分かるの?」
「分かるさ、すっかり気を失っちまってるんだから」
 相手の言葉には説得力というものが明らかに欠けていた。それでもなぜかラザーに言われると信じてしまいそうになる。
「まあほとんど長年の勘、みたいなものだけどさ」
 後に付け加えるようにしてラザーは言う。それだけを言うと目を閉じて腕を組み、すっかり静かになってしまった。
 彼の言う長年というのは一体どのくらいなのかなんて想像できない。だってこの人って不老不死なんだもの。もっとも私も樹も似たようなものなんだけど。
 ときどき不思議に感じることがある。どうして私はここにいるんだろうって。あんなに長い間城の外へ出たいと思っていたのに今更何だって言われたらそれまでだけど、今となっては私の帰るべき場所はどこなのか分からなくなってしまった。小さい頃から住んでいた城はなくなり、私の知っていた親や国の人達も皆いなくなってしまった。今はここでお世話になってるけどいずれは出ていかなければならないだろうし、だけど出ていったとしてどこへ行けばいいのかなんてさっぱり分からない。ガルダーニアへまた戻るのか、それともアユラツへ行くのか?
 はあ。樹はいいよね、帰るべき家がこの世界にちゃんとあってさ。本当に羨ましいや。
 ふと扉が開く音が聞こえた。誰か外に出てきたらしい。そちらへ自然と目を向けていた。
「――あ」
 目に入ったのは黒い髪に黒い瞳。
 そこにいたのはあの羨ましい羨ましい樹という一人の少年だった。
「起きたんだ」
 声をかけると彼はこちらを振り返った。そしてまじまじと私の顔を見てくる。
 なんだかその視線が痛い。何か言いたいなら言えばいいのになんでそんなに見てくるんだろう。じれったいなあ。
「あの」
 久しぶりに聞く声はいつもと少し様子が違っていた。
「あの、俺って――」
「おい!」
 樹の声と別の声とが重なる。
「お前なあ、よくも今までのんきにぐーすかと寝てくれやがったな。こっちは気を失ったお前を担いだり移動魔法使ったり家の中に全員を運んだりで疲れちまったしその上に師匠がいねえんであっちこっち捜し回ったんだぞこの野郎!」
 ありったけの不満を寝起きの少年にぶつけているのはさっきまで静かに佇んでいてなんだか格好よさげだったラザーラスだった。樹の襟元を思いっきり掴んでなぜかかなり怒っているらしい。そんなに疲れたんだろうかなあ。
 しかしここまで言いたいことを言われているのにも構わず樹は何も口出ししない。なんか様子が変。おかしい。おかしすぎる。
「……なんだよ。なんでそんなまじまじと見てくるんだお前」
 やがてこの空気が嫌になったのかラザーは手を離した。どうやら樹にまじまじと見られたらしい。またですか。
 二人してじっと樹の顔を見る。なんだかおろおろして情けない奴だった。なんでそんな顔するのかまるでわけが分からない。いつものようにどうでもいいことを喋ってくれたらこっちとしても助かるのに。
「あの……俺」
 やはりじれったい。はっきり言えばいいのに。っていうか言って欲しい。
「俺、いわゆる記憶喪失ってやつらしいんですが」
 …………。
「はあ!?」
 私とラザーの声が見事に重なったのは言うまでもない。

 

 

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