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 今の樹は樹であって、でも樹じゃなかった。
 机を挟んで見える黒い瞳も不安そうな光が宿り、しきりにきょろきょろと落ち着きなく周囲を見回している。かと思えば誰とも目を合わさぬように下を俯いたりと彼であって彼でないような態度を示していた。
「じゃあ、何も覚えてないのか」
 隣の席でラザーが呆れたように吐き出す。その鋭い言葉に樹は一つ頷いただけだ。後はただ下に顔を向けるだけ。
 この広間には全員が顔を出していた。それぞれ違った面持ちをしてはいるもののやはり樹のことが心配らしく、誰もここから出ていこうとはしない。そんな素振りすら見せない。
 ラザーの言葉を最後に沈黙が訪れた。誰も言葉を発しようとしない。その様はまるで事実から逃れたいがために抗っている行為のようにも思われた。
「何も覚えてないんだ。自分が誰なのかもあなたたちが誰なのかも分からない。本当に頭の中が空っぽだ。何も残ってないんだ……」
 呟くようにして発した樹の声はとても沈んでいた。
 なんだか別人みたい。
 声も頭も姿も何もかも同じだけどその存在は別のものみたいだ。そしてそれ以上に前と違うのは、あの不安そうな瞳。
 以前の樹の瞳はあんなに不安そうじゃなかった。いつも光が秘められてて笑うと子供っぽくて、でもふと大人のような寂しげな眼差しに変わることもあって。
 それが今はただ不安が見えるだけ。彼の中の光は消えてしまったというのだろうか。
「しかしまあ、困ったことになったねぇ」
 はあ、と一つのため息。それを発したのはリヴァセールだった。
「樹のお姉さんのこととか学校のこととかどうしようか?」
「俺に聞くな」
 渋い顔をしたのはラザー。そっか、確か二人とも樹と同じ学校に通ってたんだっけ。本当にまあ仲がよろしいことで。
「こんな時に師匠がいてくれたらいいのに」
「まったくだ。どこをほっつき歩いてんだろうなあの馬鹿野郎は」
 今度は二人で合意していた。何やってんだろうこの人たち。
「いない人のことを非難したって仕方ないでしょ。今は僕らしかいないんだから僕らだけでどうにかするしかない。そうでしょ?」
 この場を仕切ったのは最も年下の少年だった。なんだってこんなことになってるんだろう。
「んーじゃあぼく、樹のお姉さんに話してくるよ」
「だったら俺が送ってやる」
 リヴァとラザーはそう告げると席を立って外へ出た。一気に家の中が静かになった気がする。
「ジェラーはどうする?」
「僕は……師匠を捜してくる」
「そう」
 そして少年も出ていく。
 残されたのは私と樹だけ。
 樹は下を向いて何も言わずに微動だにしない。今は髪が邪魔になってあの不安そうな目は見えなかった。
 言葉をかけることもできずに沈黙が続く。
 どうしよう。こんな空気だとこっちの身が持たない。ここから逃げ出したい。でもこの人を一人にするわけにもいかない。
 そもそもどうしてこんなことになってしまったんだろう。
 いや、原因なら分かる。きっとこれはあの時のシンの仕業。だけど一体何のために彼は樹をこんな目にあわせているのだろう? 相手側の目的が少しも見えてこない。
 ねえ樹。あなた本当は分かったんでしょう? 分かったけど伝えられないでいるんでしょう? 私に何を求めているの?
「はあ……」
 自然とため息が零れる。なんだか一気に疲れてしまったみたい。
 天井を見上げると木の色が目に入った。とてものどかな感じ。小さい頃はよくこんな家に憧れてたっけ。
 束縛されるのは嫌だった。ずっと見張りの目が届いていて。だから国を出た時、私は本当の意味で国を捨てたのかもしれない。自由になりたかった。自分の思うとおりに生きられる自由が欲しかった。それ故に私は国のために戦ったんじゃなく自分のために戦っていただけだったのかもしれない。
 そう思うとやるせなかった。だから今まで信じたくなかった。その本質に気づいてそれを信じるということは、私をそういう人間だと決めつけることに繋がってしまうから。
「あの、さ」
 深い不安に覆われた声が意識を呼び戻す。
「俺って何者なの?」
 黒い瞳はまっすぐこちらを見ていた。その中に宿るのはやっぱり光ではなくて。
「ずっと心の中のどこかから叫んでるんだ。俺は生きちゃいけない魂なんだ、って」
 この目。この輝き。
 望みの欠片も見出せない。
「なあ、教えてくれよ。俺は何をしたの? どうして生きちゃいけないの? 教えてくれなきゃただ怖いだけで何も分からないよ」
 胸の奥が熱くなるのを感じた。
 嫌だ。嫌になった。なぜそんな目をしているのか分からない。
 分かってくれたと思ったのに。あの時の言葉は嘘だったの? どうしてそうやってあなたは犠牲になろうとするの。生きたいと思っていたんじゃなかったの?
「誰だって、死ぬのは怖いよ」
 私は立ち上がっていた。
 自分がどんな顔をしていたか分からない。優しく微笑んでいたようにも思えるし、目を見開いて相手を睨みつけていたのかもしれない。
「あなたはもっと別のことを怖がってる。自分の罪? 犯した犯罪? そうじゃない。あなたは別のものに怖れを抱いている」
 相手は私を見上げていた。虚ろな瞳はしっかりと焦点が合っている。それでも顔はこれでもかと言わんばかりに歪んでいた。とてもとても哀しい瞳。
「あなたはきっと、未来を怖れてるんだ」
 吐き出した言葉に自信なんてこれっぽっちもなかった。
「ミライ――」
 まるで機械が作り出す音のように少年は繰り返す。
 未来。これから起こること。過去に多くの犠牲を生んでしまった彼。怖れることといったら、それが再び繰り返されること。
 自分のせいで多くの人が死んだ。何の関係もない大勢の人を巻き込んだ。普通の人に耐えられるような役目じゃない。しかし彼はそれを受け入れてしまった。
 受け入れることは悪いことじゃないと思う。事実に目をそらすのはもっといけないことだから。自分の存在によって失われた命を無視する行為に他ならないから。それを踏まえた点では彼は優しく強い人だった。
 だけど彼はそんな優しさと強さの裏にあるものに気づいていない。彼の存在がなぜ必要なのかということ。そしてそれを突き動かしている様々な人の思い。気づいているようで気づいていない、分かりそうで分かることなど不可能な世界の思想。
 否定したいならしてみなさいよ。できないでしょ、あなたには。
 私は全て教えてもらった。あなたの知らないことも何もかもを。
 知らないでしょ? この世界の成り立ちなんて。知識にないでしょ? あなたのお父さんの本当の願いなんて、さ。
 ああ、私、なんて嫌な奴なんだろう。
 もし無事にこの世界に帰ってこれたらちゃんと話そうと思ってた。スーリには口止めされてたけど絶対に言おうと決めていたのに。
 それなのに話していない。教えられないよ。
 目の前の景色が歪んで相手の顔が見えなくなった。どうしてだか、私の方こそ虚ろで不安に満ちた目をしているんじゃないかと思えてならなかった。
「あの」
 懐かしい人の声が喋っている。
「あの!」
 はっきりと相手の顔が見えないのでどんな表情なのか分からない。
「――……あの」
 強くなったかと思うと弱々しくなってしまって。
 不安が晴れたのかと思うと一層増しているように見えて。
 この人は偽ってる。自分を偽って顔に仮面をかぶせている。
「一人にさせてくれませんか」
 仮面の下の顔は少しも見えなかった。

 

 皆はすぐに帰ってきてくれた。
 私は一人で椅子に座ってぼんやりとしていた。帰ってくると皆してどうかしたのかと聞いてくる。よっぽど心が顔に表れていたんだろう、何でもないと言ってもなかなか引き下がってくれなかった。
 なんだか私は、樹に自分の気持ちがちゃんと伝わらなかったような気がして悲しかった。だけどどこかでそうだと言い聞かせる自分がいて怖くなった。だって本当は自分でも何が言いたいのか、どんな気持ちを伝えようとしていたのか分からなかったから。
 全てにおいて『怖い』という感情が宿っていた。それは今の樹であり、同時に他の全てのものに対する私の心にも言えることであった。
「怖いな」
 両腕で自分の身体を抱え込む。
「自分が怖い」
 あの光を抱えた彼がいなくなってより怖くなったみたいだ。
 いき過ぎた行為を止めてくれようとした人。時には道を正してやらなければならなかった人。その人がいなくなっただけでこんなにも恐怖が押し寄せてくるものなのか。
 頼れるものが何もない。一番必要としている人が傍にいない。どうしていいか分からない。何をすべきかも分からない。まるで道に迷った迷子のように。
 気づけば夜の帳(とばり)が下りていた。樹は部屋に閉じこもったまま出てこない。リヴァセールは樹の家に帰り、ラザーラスは修行をすると言ってどこかへ行ってしまったきりだ。私はすることもなくただこの状況に戸惑っていた。
 師匠、何やってんだろ。早く帰ってきて欲しい。あなただけが頼りなのに、どうしてこんな時に限って姿を暗ましてしまうんですか?
 いない人に呼びかけても仕方がないことだった。この状況は何も変わりはしない。無駄なことだ。それもちゃんと分かってるのに。
「そんなに、怖い?」
 夜空の下、扉の前でそんなことを考えていると下の方から声が聞こえた。聞き慣れた少年の声。
 ジェラー。ジェラー・ホクム。名前を知らないと言っていた子。私と同じように自らの出生を知らない子。
 その大きな瞳が私を見上げている。藍色のそれは今は闇に紛れて黒のようにしか見えない。
「樹に会いたい?」
 私は素直に頷く。
「でも無理なんでしょ? 今の彼は何も覚えていないもの。だけど闇になったわけじゃない。本当に記憶と同じように光と闇も忘れてしまったみたい」
 今の彼に見えるのは虚ろなものだけ。光も、闇さえもないただの空洞。
「そうだよ。だけどあなたが望むなら僕は樹の元へ連れていくことができる」
「どういう、こと?」
「精神世界、って分かる?」
 無表情のまま淡々と語る少年の声を聞きながら、まさか、と思った。

 

 

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