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85 

 静かな寝息をたてながら、樹は机に突っ伏して居眠りしていた。布団もかけずに眠るなんて風邪をひきそうだと思ったけれどジェラーはそんなことはお構いなしにつかつかと樹に歩み寄った。
 この藍色の髪の少年は私を樹の精神の中へ連れていってくれると言う。聞けば樹自身も自分の心の中に入り込んだことがあるらしいが、私はまだそんな経験はないのであまり実感がない。そもそも精神の世界ってどんなところなのか予想すらできない。だけどジェラーにはそれが確かに「見える」らしいのだ。
 ジェラーは人の心が読めるらしい。もっと正確に言えば人の考えていることが言葉となって頭の中に流れ込んでくるのだそうだ。つまり聞こうと意識しなくとも傍に近寄るだけで頭の中に入ってくる。聞き様によっては便利な能力かもしれないけど、なんかそれって辛くないのかな。
 だって嫌なことまで聞こえてくるんでしょ?
「アレート、行くの? 行かないの?」
「行くよ」
 少年は私の前に立ってこちらを見上げてくる。彼の傍には眠り続けている黒髪の少年がいる。
「分かった」
 一つ頷くとジェラーは私の手を取った。私は抵抗することもなくされるがままにする。
 樹と私とジェラーとの三人の手が触れた。
 そして溢れてくるのはまばゆい光。

 

 光に怯えながらもゆっくりと目を開ける。
「わ……っ」
 一気に汗が体中から吹き出してきたように思えた。それほどまでに目の前の光景に驚きと不可解さとを感じたのだ。
 目前に広がるのは真っ白な大地。あのアユラツとは違って影すらない白い世界。本当に白だけで構成されており、他の色彩は私のような別の世界から来た者だけが持っているようだった。
 足元が何やらふわふわしている。体が浮いているような感じでなんとも不安定だ。見下ろしてみてもただ真っ白であるだけなのでそれが何のためにこうなっているのかなんて分からなかった。
「じゃあアレート、僕はここで待ってるから」
 ふと隣に目をやると藍色の色彩が目に入る。ジェラーだ。
「君は樹を捜しに行くんでしょ?」
「うん。あなたは行かないの?」
 ジェラーはちょっと表情を変えた――ように見えた。
「記憶がなくなってる人の精神世界に入るのは初めてだから、僕はここから動かない方がいいと思って」
「そうなんだ」
「できるだけ早く済ましてね」
 私は一つ頷くと足を前に向けて歩き出した。

 

 白い大地を踏むと足が地面にめり込むような感覚がした。例えるなら、そう、沼。
 後方から風が吹き抜けていく。それはほんの少しだけ冷気を帯びていた。まるで冬の日のような気候。もしかしたら足下の地面は雪で覆われているのかもしれない。
 精神の世界に降る雪はあくまでも精神の中だけのもの。それってつまり、彼の心の中は冷たく凍え切ってしまいそうになっているということ? 今はまだ暖かさが残っているけど――。
 また後方からの風。追い風となって私の身体を前へと押していく。さっきよりも強い風だったので思わず足を速めてしまった。
 そしてふと気づいて、立ち止まる。
 影があった。
 前方に何かの形を示すかのような影ができている。後ろには少しもなかったそれが前方からでき始めているかのように。その光景はアユラツにそっくりだった。
 下を見ると自分の靴が見える。手が見える。服が見える。影によって彩られているだけの色素のない姿。それでも充分分かるだけの彩りだった。
 吹き抜ける風は一層冷たさを増したように思えた。
 私は自分でも分からないほど急いで歩いていた。この光景を見せられたからなのか、それともジェラーに早く帰ってこいと言われたからなのか。どういう理由からのものなのかは分からなかったけど確かに心の中に焦りが生じ始めていたのだ。もしかしたらこの風のせいなのかもしれないし、地面の雪のような不安定な台座のせいなのかもしれない。
 殺風景だった世界の中にも前に進むにつれて何かが現れ始めた。それは一本の木だったり小さな凍った水たまりだったりと様々だ。それら全てが冬に見られるようなものであり、次第に影だけだった色彩が鮮やかな赤や青によって塗り替えられていくようになった。
 それでもまだ見方によれば殺風景な大地の上を進んでいく。
 長いこと歩く必要はなかった。私が目指した場所は、あまりにもあっけなく見つけることができたのだ。
「あ――」
 思わず声が漏れる。
 それによって目の前の閉じられた黒い瞳がゆっくりと開かれた。
 中に宿るは、光のみ。

 

 闇もなく、ただ純粋な光だけの魂。真っ黒な髪の毛と少し茶色を帯びた黒い瞳。
「樹」
 名前を呼ぶと懐かしさがこみ上げてきた。
 相手はこちらに向かって歩いてきた。私はその一歩一歩が地面を踏みしめて近づいてくる音にどうしていいか分からなくなってしまった。だって相手はあまりにも――痛々しいほどに無表情だったから。
 目の前まで来て相手は足を止めた。手をのばせば触れられそうなほど距離は縮まっている。本当は会ったら言おうと思っていた言葉があった。だけどそういうものってほら、会ってしまえば無意味になってしまうものでしょう? だから私が何も言えなくなったのはそれと同じ。決して、相手が知らない人のように見えたからではないんだ。
 そう、そうだよ。相手は私もよく知っている相手じゃないの。樹。名前はそれ。私の弟にあたる少年。黒髪と黒い目の、いなくてはならない存在だった一人の人間。
 優しい人。自分よりも他人のことを思いやることができるとても強い人。私なんかよりも勇気があって、自分の中の正義を見出すことができる人。いつも傍で笑顔を見せてくれた人。他の人とすぐに打ち解けられる、素直な人。
 だけど今は? こんな何の感情もない顔は見たことがない。
 何もかもが消えてしまったというのだろうか。あの優しさも、強さも、勇気も、素直さも。
 私はじっと相手を見据える。こんな顔を見ていたら私の方まで無表情になってしまいそうだった。再会できた嬉しさとか、山ほどある言いたいこととかが全てかすれて消えていくよう。消えてしまった後に残るものは一体何だと言うのか?
 何も残らなかった。
「樹、早く目を覚まして」
 口から出た言葉に感情は宿っていただろうか。相手は私の目を見ただけでその堅い無表情は少しも崩さない。
「みんなあなたのことを心配しているんだから」
 それだけを言うと目を伏せた。視界が真っ暗闇になっても構わなかった。誰の顔も見たくなくなったのかもしれない。
 風の音だけが妙に大きく聞こえる。
「アレート」
 びくりと肩が跳ねあがる勢いで驚いた。思わず目を開け、正面にいる黒い瞳を覗き込む。
「俺にはまだ時間が必要なんだ。迷惑をかけてるのは分かってる。だけどそれでも必要なものがあることを教えてくれたのは他でもない君なんだ」
 君という響きには親しみがこもっていて、それはやはり相手が樹であるということを強調しているように聞こえた。
「ちゃんと帰ってくる?」
 無意識のうちに手をのばしていた。
「必ず」
 手は冷たいものに触れて止まった。その拍子にそれが一瞬ぴかりと光る。
 こんなに近くにいると思ったのに、目の前には硝子(ガラス)のような壁があったんだ。
 それが今はただ痛かった。透明な硝子の上で握り拳を作る。今すぐにでもこの壁を壊してしまいたいほど忌々しい。忌々しかったけど、これを壊すことはできなかった。
 壊そうと試みたわけじゃない。試みることさえできなかった。なぜならこの壁は樹の心が作ったものであり、私がどんなに力を振るっても壊せるようなものではないということを知っていたから。
 彼の言葉に嘘は見えなかった。本当に相手は私たちの元へ帰ってくることを拒んでいるんだ。理由は定かではないけど、それだけは嫌というほどはっきりと分かってしまったのだ。
「私、待ってるからね」
 必死になって声を絞り出す。相手の黒い瞳は完全に私を見ていた。
 それでも口は開こうとしない。
「他のみんなだって待ってるんだから」
 一歩後ろへ下がる。雪のような地面が足を飲みこんでいく。
「あなたのこと心配してるんだよ」
 また一歩後ろへ。ざくり、という音が耳に届いた。
「早く帰ってきてね」
 最後の言葉を吐き出した後、樹の口が動いた。何かを言っているようだったけどその声はあいた距離と壁にぶつかって私に届くことはなかった。
 堪え切れなくなって相手に背を向け、一目散に逃げるようにもと来た道を走り出した。

 

 

 目を開けると朝になっていた。私はどうやら樹の傍でそのまま眠っていたらしい。部屋を見回してみてもジェラーの姿はない。
 樹はまだ眠っていた。光の宿っていない瞳は閉じられている。眠っているから当たり前のことなんだけど、今はただその目を見たくなかったのでなんだかほっとした。
 部屋を出るとジェラーが壁にもたれかかって立っていた。まっすぐこちらを見上げてくる。どうやら私が起きるのを待っていたらしい。
 相手は先ほど会ったばかりの樹なんかよりも豊かな感情を宿しているように見えた。
「ねえジェラー」
 私はどうしていいか分からないの。
「何か樹のためにできることってないかな」
 目の前の少年はまるでその問いを予想していたかのように一つ頷いた。
「ないとは言えない。もっともこれは可能性にすぎないことなんだけど」
「構わない」
 相手の言葉に少しでも希望が見えた気がして嬉しくなった。可能性でも彼のためになるなら構わない。とにかく何でもいいから彼のためになることをしてあげたかったのだ。
「だから、教えて。私は何をすればいいの?」
 藍色の瞳は私のどんな顔を映しているのだろう。
「樹は力石と黒いガラスの魂だった。それは知ってるよね?」
 話を始めたジェラーの言葉を聞き逃さないよう注意しながら一つ頷く。
「多分、樹は力石と黒いガラスを壊してしまって心が弱っているんだと思う。壁を作ってしまったけれど今度は出られなくなってしまった。だから時間が必要だなんてことを言っているんじゃないかな」
「だったら力石と黒いガラスをまた作れとでも言うの? そんなことをしたら兵器の製造は止められないじゃない」
「違うよ。そういうことじゃなくって――」
 そこで一旦言葉を止めてジェラーは何かに気づいたかのように視線を横に泳がした。私もそちらを見てみる。視界に映るのは、狭くて質素な一本道の廊下。
 廊下の上にはリヴァセールが立っていた。すたすたと歩いてこちらに向かってきている。相手は私とジェラーの姿を見て顔に少しばかりの疑問を浮かべているようにも見えなくはなかった。
「こんなところで何してるの? 二人とも」
 すぐ傍で立ち止まって話しかけてきた。
「樹のためにできることをジェラーに聞いてたの」
 別に隠す必要もなかったので正直に話す。リヴァは一瞬訝しげな顔をしたが、すぐに表情を元に戻して私の話を聞いてくれた。
「樹の魂は力石と黒いガラスのもの。そして今は心の中に閉じこもって外へ出てこようとしていない。なぜなら無意識のうちにでも自ら壁を作ってしまったから。だからその壁を壊すために力石と黒いガラスが必要になる――ということだよね?」
 話を聞き終えた後にリヴァは簡単に要約してくれた。この人ってもしかしたら私やジェラーよりも頭いいんじゃないんだろうか。そう思うと少しだけ悔しかった。
「だけど力石と黒いガラスは樹が壊してしまったじゃない。もし新たに作ったとしてもそれじゃあ――」
「いや、あのアレート?」
「え?」
 私の言葉を止めたのはリヴァだった。人の意見って最後まで聞くべきものなのではなかったの?
「忘れてない? 力石と黒いガラスはアユラツにあったものだけが全部じゃないんだよ」
 リヴァの言葉によってある台詞が思い起こされる。それはかつてラザーが樹に言っていた言葉。昔のこと。かなり有名だった話。
「あ、あぁそっか」
 それでやっと納得した。じゃあアユラツまで行って粉々になった力石と黒いガラスを集めなくてもいいってことなんだ。
「じゃあその力石と黒いガラスはどこにあるか知ってるの?」
 二人に問うと両者とも黙り込んでしまった。これは知らないんだな、きっと。
「ラザーなら知ってるんじゃない? っていうか持ってるって言ってなかったっけ?」
 やっと口を開いたのはリヴァだった。そして何かを示すように後ろを振り返る。
「えっとあの、ぼく樹を迎えに来たんだよ。樹のお姉さんに樹のことを話したら学校にも行かせた方がいいって言うから。だからラザーに頼んでここまで連れてきてもらったの」
 この人はごくまれに子供のような口調をする。だけど誰もそれを咎(とが)めないし何より相手の自由を奪う権利なんてない。それでも私にはなんだかその口調がまるで何かを怖れているように聞こえてならなかった。
「で、そのラザーは?」
「家の前で待ってるって」
 ああ、それで後ろを振り返ったりしたんだ。納得。
「それならラザーに聞いてこようか。行こう、ジェラー」
「ぼくは樹に説明してくるよ」
 それだけを言ってリヴァは樹の部屋へ、私とジェラーは家の玄関へと向かって行った。

 

 ラザーラスは家の壁にもたれかかって何かを待ち構えるかのようにしてリヴァを待っていた。扉を開けた瞬間に「遅い」と怒鳴られた時はびっくりしてどうしていいか分からなかった。
「なんだお前らか……」
 私とジェラーの姿を認めた後でも彼は少しも恥じた様子を見せなかった。間違ったのにすごい態度。少し見習いたいような気もしなくはないけど、それはこっちとしてはちょっと腹が立つものだった。
「あの野郎、説明するにしては長すぎだろ」
「ねえラザー」
「あ?」
 どうやら相手は本気で苛立っているらしい。その証拠に口から出てくるのは鋭い言葉ばかりだった。
 こういう場合は無駄に干渉しないに限る。
「ラザーは力石と黒いガラスのある場所、知ってる?」
「……は?」
 相手はぽかんと口を開いてしまった。あまりにも唐突に聞きすぎちゃったかな。もう少し説明を加えるべきだったんだろうか。
「樹の記憶喪失を治すのに必要かもしれないの」
「はぁ……」
 まだぽかんとしている。
 と思ったのも束の間だった。相手はふっと表情を改めるとずかずかと目の前まで歩み寄ってくる。顔と顔が触れそうなほど近づいてくると、こそこそと耳元で誰にも聞こえないように小声で囁(ささや)いてきた。
「警察の本部にはたんと置いてある」
 顔を離すと相手の顔が見えた。その瞳には怪しげな光があからさまに宿っているのが分かる。
「必要なら俺が取ってきてやるよ」
 盗ってくる、の間違いなんじゃないだろうか。
 この人どうしようジェラー君。
「警察のことなら警察に頼めばいいでしょ」
 藍色の髪の少年は呆れたようにラザーを見上げていた。同時に吐き出した言葉にラザーは面白くなさそうな顔をする。
「どうかな。あんな野郎どもがこんな自分勝手な理由で納得してくれると思うか? それに警察どもだって欲ってもんがあるもんよ。そもそも力石と黒いガラスを本部に置いておくこと自体がおかしいんだ」
 そう言うとラザーは人を小馬鹿にしたように鼻で笑った。この人ってこういう話に関してはかなり性格が変わるよなぁ。
「そうじゃなくて。リヴァも警察なんだから彼に頼めばいいって言ってるの」
 ジェラーはさらに呆れたような怒ったような口調で言った。それによってラザーは頭に疑問符を浮かべる。
 もしやこの青年さん、リヴァの職業を知らなかったのでは?
「何言ってんだお前」
「だから。リヴァが警察だから彼になんとかしてもらうよう頼めばいいって言ってるの」
「警察? ……あいつが?」
 あからさまに顔を歪ませるラザーラス。これはもう完全に知らないんだな。間違いない。
「あ、ラザー……」
 後ろから声が聞こえた。ちょうどいいタイミングで現れたのは噂になっていた張本人。彼の後ろには樹がぼんやりとした顔で立っている。
 ラザーは声を聞いてびっくりしたようにすごい勢いでリヴァセールの顔を見た。そしてさっき私にしたのと同じようにしてずかずかと相手の前まで歩いていく。
「お前、警察だったのか」
「そーだよ」
 きょとんとして答える警察の青年。
「な、なんてこった……」
 リヴァの答えを聞くとラザーは口の中でそれだけを呟き、そのまま力が抜けたようにぺたんと地面に座り込んでしまった。

 

 

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