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彼は壁を作ったはいいものの今度は出られなくなってしまった、と皆は解釈した。しかしはたして本当にそれは正しいのだろうか?
本人に直接聞けばすぐに分かるのだろうけど、さすがにそんなことをできるような状況ではない。それに聞いたとしても教えてくれない可能性だってある。だってあの人ってああ見えて都合の悪いことは言いたがらないのだもの。そう簡単に教えてくれるような内容ではなさそうな気がする。どうしてだかそう思えてならないのだ。もっとも、これに確証なんてものは少しも存在しないのだけど。
ひょっとしたら、そう、本当に現実ではあり得なさそうな――いや、充分あり得そうだと解釈することも可能だけど、もしこの予想が当たっているならば。
彼は確かに自らの意志で壁を作ったのだろう。そして出られなくなった。それは間違いないんだと思う。だけど。
もしこの事態を苦にしていないとすればどうだろう?
私たちの勝手な解釈で彼の心の中の壁を壊したところで彼自身が救われなければ何の意味もないのではないだろうか? あの時言っていた時間が必要だという言葉の意味は本当にそのままのものであって、彼は私に余計なことをしてくれるなと言いたかったんじゃないんだろうか? だとすれば私たちは何もすべきではないのではないだろうか?
考えても答えは出ないのにどうしてこんなに考えてしまうんだろうね。人ってつくづく不思議な生き物。彼もまた、あの光の魂の中でこんなことを考えていたんだろうか。
私には他人の心を理解することができない。だけどそれってこの世に生きている人全てに言えることでしょう? 人の心が読めるというジェラーだって心の中にある言葉を聞くことができるだけで完全にそれを理解することはできない。もし理解できるような能力があるとすれば、それは神様だけが持つことを許されるだろう。
だけど私はこう考える。神様なんてきっといない。そうでなかったらどうして神様はこんな世界を作ったのかまるで理解できないもの。たとえこの考えに反発できるほどの言い訳を並べ立てられても私は決して我慢することができない。だってこの世界のせいで犠牲になっている人がいるということは紛れもない事実なのだから。それを神様は理解できる? あの人達の思いをあなたは本当の意味で『理解』できる?
よそう。考えすぎだ。考えたら止まらなくなることはいけないことだ。周囲が見えなくなって何をしていいか分からなくなってしまう。
「ねえ、やっぱりもういいよ」
周囲の状況は少しも変わっていない。師匠の質素な家の前、私とジェラーとラザーとリヴァと記憶をなくした彼と。丸く円を描くようにして立っている様は端から見れば作戦でも立てているかのように見えるかもしれない。
「もういいって? 諦めるのか?」
「そういうことじゃなくて、その――もう少し様子を見た方がいいと思うの」
私の言葉にラザーはあからさまに不満そうな顔をする。さっきまですごく生き生きしていた顔だったのでなんだか申しわけないように思える。
たとえそれでも結果を求めすぎて早まることはよくないことだ。
一つのことに熱中したら周りが見えなくなる私にはこの言葉がよく胸を打った。私に会う人みんながそう言ってくるんだもの。ああでも、あの人達は誰も言ってこなかったな。今はいない師匠にまで言われたことだというのに。
ねえジェラー。あなたには聞こえてるんでしょ? 私のこの気持ちがあなたには『理解』できる?
「樹」
呼びかけると黒い瞳が私の顔を見た。
「また――」
会いに行ってもいい?
何も知らない相手に対し、最後まで言葉を吐き出すことはできなかった。
白い大地に彩りが現れることはなかった。
地面は雪で覆われておらず、風は冷たくも温かくもない。木々の姿も水たまりの面影もどこにも見えず、ただ何かの壊れた跡が所々に放置されて風化しているものだけが視界の中にちらついていた。
足下にはきらきらと光っている石のようなものが幾つも落ちている。
私はその場にしゃがみ込み、それを手でかき集め始めた。
数は限りない。当然だ、だってこんなにも粉々になってしまったのだから。
「お願い――」
本当は自分で自分が何をしているのかよく分かっていない。こんなことをして相手を困らせるのではないかという思いもあるし、私があの人を助けてあげなければならないんだという強気な思いもある。どちらが正しいかなんて分からないけどどうしていいか分かるはずもなく、ただ今の自分にできることを持てる限りの力でやっておきたいと思ったんだ。
あなたの迷惑になる事をしたいわけではない。でも、あなたを光の中に連れ戻してあげたい。
二つの思いがぶつかり合ってどうしていいか分からない。
なぜ記憶を失ったりなんかしたの。どうして何も教えてくれないの? 何かを望むことっていけないことじゃないんでしょ? あなたの言うとおり人は欲望を持ってる、でもだからこそ何かをやり遂げるための力を内から引き出せるんじゃなかったの? それが人ってものなんだってあなたはちゃんと分かっているのに。
今更何を望む? もう答えを出してしまったはずなのに。やっぱりあなたはどこか微妙な点で弱い。もっと自分に自信を持って自分自身を見極めなくてはならない。そのために必要なのは、『独りの時間』じゃない。
あなたに足りないもの。それは――。
「アレート……さん?」
突然名前を呼ばれ、はっとして振り返った。その拍子に手に抱えるようにして集めていた石の欠片を地面に落としてしまう。
「あ、ご、ごめんなさい。驚かすつもりではなかったんです」
そう言って落とした石の欠片を集めてくれる。素早く集めるとそれら全てを私に渡してくれた。
私の目の前にいる相手。それは自分で武器商人だと名乗っていたラスだった。
「そんな石ころ集めて何してるんです? もしかして宝石の鉱石だとか?」
「あなたこそ何をしているの? この世界には何もないでしょ」
この世界――白黒の世界。名前をアユラツという。思えばこの商人のおかげで私たちはここまで来ることができた。
でもそれはまた別の話。
「何……と聞かれても困るんですけどね」
少し下を俯き相手の表情が見えなくなる。ばつが悪そうに頬を掻きながら相手はいつもと変わらない口調で続けた。
「樹さんは一緒じゃないんですか?」
この人は何も知らない。
「私一人だけだよ」
「珍しいですね」
「そう?」
相手は顔を上げなかった。
「そうですよ」
なんだか私には今のラスは別人のように思えてならなかった。
「ねぇ」
私はまだ石を集め続けていた。そしてラスもまた私について来ていた。特に何かを求めている様子もなく、ただ樹の姿がないことに少しばかりの不満を持っているように見えた。
「何?」
「この世界にはシンさんもスーリさんもいましたよね」
「そうだね」
「でも今はどこを捜しても見当たらないんですよ。どこにいるか知ってます?」
地面に散らばった石をかき集める音だけが響く。
「知らない」
「二人とも?」
「だって私たち、シンに飛ばされたんだもの」
詳しく言えば少し違うが似たようなものである。相手は何も知らないから詳しく話す必要はない。
「ふぅん。僕はたった一人置いていかれて寂しいですよ」
「……あなた置き去りにされてたの?」
そういえば誰も相手のことを気にしていなかったからあり得ない話ではない。むしろその線でいくとかなり納得できる話である。今まで別のことで頭がいっぱいだったのでなんだかラスには悪いことをしてしまったように思えた。
「まったく! ひどいですよね皆さん。この僕という存在をすっかり忘れ去って自分だけ幸せになれればそれでいいと言うんですよ!」
「ごめんなさい」
「別にあなたに対して言っているわけではありません」
そうだとしても私も忘れていた一人。反省せずにはいられない。
「もう一人なんて嫌ですよ。ねえアレートさん、僕もそちらに連れていってくれませんか? 大丈夫、あなたたちの邪魔をしようというわけではありませんから」
「――分かった」
断ることはできなかった。こういうところ、樹に似てしまったように思えるんだよね。無駄にお人好しで、他人のことを本気で心配することができて。
「ありがとうございます。ずっと待っていた甲斐がありました」
ラスはにこりと微笑んだ。とても輝かしい笑顔だった。
「すみません」
そして謝ってきた。
意味が分からなかった。だけどきっと迷惑をかけてすまないと思って謝ってきてくれたのだろうと解釈すると、私は集めた石の欠片を袋の中に入れて立ちあがった。
「もうどうなってもいい?」
――え?
後ろから聞こえた声に振り返る。そこにはラスがいたが、彼はいつもと変わらない笑っているような真面目さを意識しているような表情をしていた。
「どうかしました?」
挙句の果てにはどうかしたのかと聞いてくる。
さっきのは空耳?
「何でもない」
吐き出すように言って前を向く。
「臆病で意気地なし!」
誰かのからかうような声が聞こえたが、私は知らず知らずのうちに何も聞こえていないと自分に言い聞かせていた。
私一人だけの力でこの世界へ来れるはずがないことは分かっていた。
「もう帰る?」
「うん」
白い世界の中に一つの色彩が見える。それは見慣れた深い藍色。
「それからラスも一緒に連れていってもいいかな?」
私をここまで連れてきてくれたのはジェラー。毎度のことなのでもう慣れてしまったかのように思えるが、それでも相手に対して感謝の意を忘れてしまってはならない。
「なんで?」
「だって――」
ちらりと横に目をやると輝かしい金色の髪が目に入る。自称武器商人の少年はジェラーの顔をまっすぐ見つめて落ちついた様子で口を開いた。
「よくもまあそんなことが言えますね。こんな何もない世界に置き去りにされた僕の気持ちがあなたには分かります? いーえ分かるはずがありませんよね、まったく!」
「ふぅん」
ラスの文句の言葉でジェラーは全てを理解したらしい。その後は何も言わずにすぐに私たちを樹のいる世界へと飛ばしてくれた。
淡く温かな光が体を包み込む。
「もう崩れてしまってもいい?」
頭の中で声が響いた。知らない人の声だ。
「もう壊れてしまってもいい?」
これは聞こえるはずがない言葉。きっと何かの間違いなんだ。
「もう何もかもが滅茶苦茶になってしまっても構わない?」
駄目よ駄目。だってまだ。
「どうせあなたには関係ない世界なのに! やっぱり臆病で愚かで卑怯で意気地なし!」
私は目と耳を塞いで意識を手放す。