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 地面を踏みしめると足が沈んでいくように思える。周囲に見える色彩はほんのわずかな種類のみ。これが彼の中に見えるものなのかということを考えるとやり切れない気持ちが押し寄せてくる。
 またここへ来てしまった。ジェラーの手を借りて、自分の力だけで来ることもなく。だけど私にはそうする以外に彼に会う方法を知らないから仕方がない。
 彼は私を見て何を思うだろう。嬉しいのか、邪魔だと思っているのか。私は相手ではないから何を考えているかなんて分からないけど、こんな世界を形作ってしまうくらいなら私が相手をどうにかしてやりたいと思うのはごく自然なことであるはずでしょ?
 なんて。それはただの言い訳か。
 ふう、と息を吐くとそれは冬の日のように白くなった。

 

 壁まで辿り着くと彼はいなかった。
 きょろきょろと周囲を見回してみたけど影も形もない。そりゃこの世界は広いんだからどこかに散歩にでも行ったのかもしれないけど、こう辿り着いてもいないとなるとなんだか心配になってしまうのだ。それは考えすぎだろうか。
 手の中には石の欠片――力石と黒いガラスの破片が握られている。粉々になっていたので探すのには苦労した。それでもどうにかしたいという一心でたくさん集めてきた。集める時に悲しくなって少し苛立った。でもその全ては、この壁を壊すために。
 この壁を壊す。
 彼を閉じ込めてしまったもの。彼を外に出さないように邪魔しているもの。それが彼自身から作られたものだから最初はどうしていいか分からなかった。だけど今だってどうしていいか分からないのに。
 あなたがいない時に壊したら怒る?
「だって仕方ないじゃない」
 自分に言い聞かせるように呟くと目の前の壁を思いっきり蹴った。大きな音が周囲によく響いた。壁は壊れなかった。
 分かってるよ、こんなことで壁が壊れるわけがない。この壁を壊すためには――。
「何してるんだ」
 ふと聞こえた声に顔をそちらに向ける。
 黒い髪に茶色を帯びた黒い瞳。何の感情も見せない無表情。以前会った時と変わらない彼の姿。
「あなたを外に連れ出そうと思って」
 私がそう言うと相手は訝しげな顔をした。でもそんなことを説明できるほど私は安定してはいなかった。
 手の中に握り締めていた石の欠片を目の前の壁に押し当てる。壁に触れた瞬間に二つは一瞬だけ火花を散らし、すぐに眩しい光が現れて手の中から感触が消え去った。力石と黒いガラスがなくなってしまった――いや、吸収されたのか。
 だけど壁はまだあった。
 言葉も出なくなる。
 まだ? まだ何が必要だというの? これ以上どこを探せばいいと思ってるの? どうしてこんなに厚い壁を作ったりなんかしたのよ。これじゃいつになっても外に出られないじゃない。
「樹」
 名前を呼ぶと相手は目を合わせてきた。
 その時ふと気づく。
 もしかして壁が薄くなってる? あれは――私の行動は無駄じゃなかった?
 だったら。
「私もっと力石と黒いガラスを探してきて、きっとあなたを外に出してあげるから! だからそれまでどうか待っていて」
 少しだけ希望が見えてきた気がする。
「……俺は?」
 帰ろうと相手に背を向けた時に小さな呟きが耳に入ってきた。それによって私は全ての動作を止める。
「俺のことは無視か?」
「無視? どうして」
 こんなにもあなたのために行動しているというのにどうして。
「俺の考えは無視なのか?」
「そんなわけないじゃない」
 ゆっくりと首を振って否定する。
 大丈夫、まだ忘れてないから。あなたの考えも考慮に入れていた。だけど私はあなたじゃないからあなたの本当の考えは分からないの。分からないものをどうやって知れというの? あなたが教えてくれるなら私は静かに聞こう。そしてそれを真に受けることもなく、何が正しいのか見極めなくてはならない。
「やっぱり俺は出ていったらいけないと思う」
 静かに相手の告白が始まる。
「俺がいることで皆が幸せを奪われるんだ。俺さえいなければ、いや俺がちゃんとした兵器だったら誰も不幸になんかならなかったのに。俺が欠陥品だったからスーリはわざと悪役になった。あいつは本当はそんなことには耐えられないはずなのに。俺が兵器だったからウィーダは――君は鍵を身体の中に入れられた。何も関係ない他人だったはずなのに。そして、俺が俺だったからシンは孤独にならざるをえなかった。あの人は、俺のせいで自分というものが分からなくなってしまったんだ」
 振り返ると相手の姿が見えた。相手はまるで何かに耐えるように下におろした手をぎゅっと握り締めている。
「あの人たちを今の姿にしてしまったのは俺がいたからなんだ。俺が俺として生まれてきたからこんなことになってしまった。これが俺の『存在』なんだ。これが俺の『価値』なんだ。今まで何度も考えては頭を振り、改めて新しい考えを組み込ませては多いに悩んだ。だけど行きつく先は結局ただ一つだけなんだ。その一つというのが、このとても単純で分かりやすい答えだったんだ。そして俺はそれを知ってしまった」
 自然と足が相手の傍へと進む。壁に手を触れるとそれはとても冷たくて凍ってしまいそうだった。
 相手は俯いて頭を抱えるような体勢になる。
「あの人は――シンはきっとどうしていいか分からなくなってるんだ。自分がどうして生きているのか分からなくて。自分が何のために存在しているのか分からなくて。きっと心の中では自分は全てに捨てられたと思ってるんだ。だから自分を捨てた全てを嫌っている。嫌悪を抱いている。憎悪も憤りも全て。あの人は孤独なんだ」
 壁越しに見える相手の姿はひどく小さく見えて。
「でも俺だってもし相手の立場に立たされていたと考えると、ああそうさ、きっと相手と同じ思いを抱くに違いない! 後から生まれる兵器を欠陥品にして、その出来損ないに怒りの感情をありのままぶつけてやって。だってそうでもしなきゃ俺は誰にも必要とされない、誰にも見られることなくただの欠陥品として扱われるんだぞ! これが人に耐えられる? これが人のあるべき姿なのか!? 俺はそんなもの認めない」
 次第に相手は感情的になってくる。私はそれを静かに眺めていることしかできない。
「分からないならそれでもいい。でも俺はあの人の言葉や行動によって皮肉にも分かってしまったんだ! 分かってしまったから、そう、あの人だって言っていたじゃないか、分かってしまったからこそ感じるものがあるんだ。だけど俺の場合は分かってしまったことによってこの目に見える世界が変わった。たくさんの人が生きている平和な世界。多くの人が傷つきながらも支え合っている温かい世界。それらの世界が求めているのは何? それは決して俺じゃない。俺のような欠陥品で周りに迷惑しかかけることのできない兵器なんか要らないんだ。最初から俺なんて、いない方が全てにおいて都合がよかったんだよ」
 足下に雪が降り積もっていく。いや、降っているのは雪だけじゃない。
「だから俺は、出られない。出ても否定されるんだ。何にかって? 世界に、だよ。こんなことで出られると思う? 世界に否定されるんだぞ。世界に否定されたら次はどこへ行けばいい? そんなの自ら自分を消す以外に方法はないじゃないか! だけどそれが怖い。怖いからこそ俺は壁を作って世界から離れた場所で静かにしていることしかできないんだ」
 風は吹いていない。彼の足下に落ちるのは涙。
 ああよかった。あなたにはちゃんと感情がある。あなたにはちゃんと心がある。それが何よりもあなたにとっての救いとなるということにちゃんと気づいてる?
「ねえ」
 声を出して初めて自分が何かを怖れていることが分かった。
「あなたは本気でそんなことを考えているの?」
「本音に決まってるだろ」
 いつか聞いたことのあるような答えが返ってくる。
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、あなたは誰も信じてないんだね」
 私の言葉に相手はぴくりと反応した。そして言葉を失ったかのように黙り込む。
 ちゃんと私は笑っていられただろうか。笑って相手を安心させることができていたのだろうか。それは相手にしか分からないこと。
「ねえ、あなたに必要なのは孤独じゃないのよ。あなたはもっと他人を信用しなければならない。あなたは自分だけに全て責任を押しつけようとして周りが見えなくなっている。あなたの周りにはたくさんの人がいるのに。そう、こんなにもたくさん、たくさんの」
 思い出せる人の名前は途切れることなくあふれてくる。こんなにもたくさんの人の名前。それはあなたに限ったことじゃない。それは全ての人において言えること。
「リヴァは記憶を失ったあなたの傍にずっといる。ジェラーは心を乱さないように見守ってくれてるし、ラザーは彼なりに大切なものを守ろうとしている。ここにはいないけどロスリュだってあなたのことをいつも見てくれていたじゃない。それに、私だってあなたのこと――」
 私だってあなたに守られていたんだから。そんなことは恥ずかしくて相手に言えるわけがない。
 だってあなたって私より弱いじゃない。誰かに守ってもらわないとここまで辿り着けなかったでしょう? そんな人に守ってもらっていただなんて考えると本当に情けなくて仕方がない。でもきっと強さというものは、肉体的なものだけじゃないんだ。だからこそ。
「私にはあなたが必要なの」
 だからこそあなたに傍にいてほしい。
「あなたが大切なの」
 恋愛感情を抱いているかどうかは分からない。好きかどうかは分からない。でも大切だから。傍にいてほしいから。
「きっと他の人たちもそう思っている。だからこそ今もあなたを見捨てずにあなたの傍にいてくれている。あなたはそれに応えなければならない。自分の責任が何だって言うの? それによって縛られすぎてはいけない。だけどだからといってそれを忘れることも駄目なこと。あなたは逃げてはならない。なぜなら逃げることなど不可能なのだから」
 厳しいように聞こえるかもしれないけれどそれが本当のことだから。無理に隠せば相手に対して失礼だから。そして隠すことは私自身をも偽る結果となるのだから。それだけはどうしても嫌だった。
「あなたがあなたとしてこの世に存在している限り、同時にあなたにしかできないことが必ず存在するのよ」
 そしてそれはあなただけに言えることではないんだよ。全ての人にとって自分にしかできない何かがある。人はそれを常に目指して、何かを達成するべくいつも努力を惜しまない。もしかしたらそれが本来の人の姿なのかもしれない。今の時代では、それから逃げている人も少なくはないのだけど。
「だったら!」
 相手は顔を上げてこちらを見てくる。その瞳はまるで睨んでいるかのように鋭く尖っていた。
「だったら俺はまた世界へ戻れと言うのか? そんなことをしたって過去は変えられないのに!」
「だからこそあなたは帰らなければならないんじゃないの?」
 あなたは過去に捕らわれすぎているのではないの?
「大切なのは過去じゃない。過去はいろんな姿を見せてくれるけど、それは所詮昔に起こったことであって今から変えられるようなものじゃない。大切なのは、本当に大切なのは過去じゃなくて未来なんじゃないの?」
「未来なんて――」
「お願い。どうかもうやめて。一度でいいから戻ってきてちょうだい」
 そろそろ限界だった。言いたいことを言ってしまって何も残らなくなってしまった。これ以上は何を言っても意味の分からないものしか出てこないだろうから。
「ねえ、意地を張らないで素直になってよ」
 私の言葉がちゃんと相手に届いたかどうかは分からない。
「あなたの光はまだ輝ける」
 まだ全てが終わったわけじゃないから。
「お願いだから――」
 胸の奥が熱くなるのを感じた。
「お願いだから、生きて!」

 その時。
 目の前に立ちはだかっていた壁が音を立てて割れ、地面の雪が風によって持ち去られていった。
 地面に新しく彩られたのは、みずみずしい緑の草原。

 私はとてもびっくりしてしまったが、もっと驚いていたのは相手の方だった。
 自分のことなのにそんなに驚くなんてすごく変。なんだかそれが可笑しくて思わず声を上げて笑ってしまった。
 相手は――樹は私の行動にまだ困惑していたようだけど、いつものようにふわりと優しく笑ってくれた。

 

 確かに人は愚かで醜い。同じ過ちを平気で繰り返す。
 だけどそんな人をあなたは信じた。
 そう、あなたは――。

 ううん、違う。あなたは信じていなかった。きっとずっと迷っていたんだね。
 人だもの、迷うことは当たり前。あなたはただ当たり前のことをしていただけなんだから。 
 あなたはあなた。

 

 だから、ね。

 

 

 

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