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 目を覚ますと世界には光が満ちていた。
 そう思えるのも傍に誰か一人でもいいから人がいてくれたからなのかもしれない。
 俺の中にあるのは光。足りないのは闇。
 では闇を持っているのは。

 

第三章 勇気と正義

 

88 

「樹!」
「わっ、何だよいきなり!」
 相手の勢いに押されて危うく転びそうになる。この家ってぼろそうで案外綺麗に掃除されているので床がよく滑るのだ。
「よかったよ元に戻ったんだね!」
 嬉しそうに俺の手を掴んで上下にぶんぶんと振りまわしているのは外人である。そんなに喜んでくれるとこっちとしてはどう反応していいのか分からないんですけど。
「本当にもう、心配したんだから」
 ようやく手を離したかと思うとふっと静かになった。
 俺は記憶を失っていたということになっていたらしい。実際はアレートやリヴァから聞かされるまで自分は眠りつづけていたものだとずっと思っていた。記憶を失っていた時の俺がどんな奴だったかなんて想像できないこともない。きっと光も闇も失った空っぽの器(うつわ)みたいな奴だったんだろうな。
 壁を創ったけど出られなくなって。少女と対峙しても何も感じられなくて。あの時の俺は本当にどうかしていたんじゃないかと自分でもつくづく思うんだ。まるで他の何かから勢力を受けていたような、そんな感じの。
 確か、頭に響く声が聞こえてきたんだ。もちろんそれはジェラーのものじゃない。彼のものなら声色ですぐに分かる。俺はその誰のものか分からない声によって心を失った。
 凍えそうだった。それでも光は持ち続けていた。なぜなら俺と光は切っても切れない関係だから。俺の魂は力石(りょくせき)という光だから。
 力石は光。黒いガラスは闇。だからこそ俺は闇の精霊と契約した時に身体が拒んでいるように思えたのだし、何より闇が苦手な理由はそこにあったんだ。
『もうどうなってもいい?』
 最後に聞こえた声が頭の中に甦る。
 あれは一体どういう意味だったのだろう。

 

 場所は師匠の家だった。しかしこの家の持ち主である師匠の姿はどこにも見えない。
「どこ捜してもいねえんだよ、あいつ」
 いささか苛々した様子でラザーは今の状況を説明してくれた。相変わらずな態度だったのでなんだか安心できた。見た目は俺のことなんか心配してくれてなさそうだけど、こうして普通に接してくれることが今はただ嬉しかった。
「こんなに何の知らせもなしに家をあけることなんてなかったのにな」
 ふう、と一つのため息。
 周囲にはラザーの他にはジェラーしかいなかった。リヴァは姉貴に伝えてくると言って止める暇もなく出かけていき、アレートは外の空気を吸ってくると外出したきりだ。
 とりあえず今までのいきさつはアレートやラザーから聞いた。アユラツの世界が崩れかかっていたこと。ラザーがこの世界へ帰してくれたこと。ロスリュやスーリ、それにシンの消息は不明だということ。ラスがこっちに来ていることには驚いたが仕方がないということも分かった。
 今日はちょうど日曜日なので学校は休みらしい。そうでなければ俺は今頃普通の奴らのように学校に通っていた。そうしなければならないから。俺はこの世界ではあくまでもただの一般人なのだから。
 いいよな。この世界だけでも一般人でいさせてほしい。ここでは兵器の力なんて必要ないのだから。
「こうなったらあいつの力を借りるか」
「あいつ?」
 ラザーは厳しい表情を俺に向けてきた。その中には何だか知らないがかなり嫌そうな光も見えなくはない。
「警察の野郎だ」
 警察? って。
「ラザーって警察嫌いなんじゃなかったのか?」
 彼は昔は犯罪者だったと言う。泥棒で人殺し。それが人に命令されてしていたことだとしても決して良いものではないのは分かってる。だけど今は命令から逃れてやめようと努力してる。それを分かっているからこそ俺は相手のことを怖れずに見ることができるのだ。
「俺は警察なんざ大嫌いだ」
「だったらなんで」
 相手はますます機嫌の悪そうな顔をした。まるで苦いものでも噛んだような、非常に嫌そうな表情だったので俺は何も言えなくなる。
「一人だけ知ってる奴がいる。執拗に俺のこと追いかけまわしてた奴だ。でもあいつは他の警察の連中よりいくらかましな奴なんだ。嫌いなことに変わりはないが」
 やっぱり嫌いなのかよ。俺には相手の言っていることの意味があまり理解できなかった。嫌いなのに手を借りようとするなんてなんだか変な話じゃないか。
「でもそもそも、師匠って出かけるような用事なんかあったのかな?」
 なんとなく思い立ったことを口にしてみた。言っちゃ悪いがあの人ってかなり暇そうなのにこんなに家をあけるような用事があったのかどうか怪しいと思う。そりゃ、俺は何も知らないから何も言えないけどさ。
 ラザーは俺の言葉を聞いて何やら考えるような仕草を見せてきた。思い当たることでもあったのだろうか。それならそれでいいんだけど。
「あいつ、あほだからな」
 かと思えばそんな言葉が。
「能天気で楽観的で何考えてるか分からなくて。自分のことすらろくに知らないのに他人のことや世界の事情にはかなり詳しくて。にこにこしてたと思ったらいきなり怒ったり、人のこと机で殴ってきたかと思えば今度は子供みたいに頭をなでてきたり。本当に何を考えてるか分からないあほなんだ」
 普段と変わらない様子でラザーは言う。俺はそれをぼんやりと聞いていることしかできない。
「それでも実力はあるんだ。精神だって強い。そうやすやすと折れたりするようでは師匠は務まらないと言っていたほどだし、何より俺の何倍もいろんなものを見てきているから」
 ふと隣を見ると藍色の髪が目に入ってくる。いつもなら文句の一つでも飛んできそうな彼の言葉を俺はまだ聞いていなかった。それでも今は何も言う気になれなかった。
 これが彼の本音?
「俺だけじゃ、無理なんだ。頼むしかねえだろ。少なくとも警察なら俺には入り込めない場所にも侵入できるだろうから」
 それだけを言うとラザーは俺に背中を向けてしまった。どうやらよほど恥ずかしかったらしい。いや、合わせる顔がないと思ったのかもしれない。だって彼自身、自分だけの力では無理だと断言したのだから。
 俺はそれでもラザーは頼りになると思うんだけどな。俺なんかよりずっと力があって冷静で、だけどちょっと弱いところがあって。俺から見ればラザーだって俺よりいろんなものを見てきているんだし、師匠には敵わないかもしれないけどいつも守ってもらっていたから。
「そういうわけだから俺は行ってくる」
 靴音を響かせながらラザーは部屋の中から出ていった。去り際にも俺と顔を合わせまいと気をつけていたことがよく分かる。それがなんだか可笑しくて、相手には悪いけど少しだけ笑ってしまった。
 さてこれで残ったのは。
「お前にはまた迷惑かけちゃったかな」
 視線の先にあるのは藍色の瞳。人の心が読めるという少年。彼にはまた人一倍迷惑をかけてしまったように思える。アレートの話では今回の移動はほとんどこいつに頼んでいたと言うし。
 それにしてもやっぱり精神の世界にまで入り込めるなんてすごいことだよな。前は恐ろしいことのように思っていたのかもしれないけど今回はそのおかげで助かったのだし。正直ジェラーがいてくれてよかったと思ってる。でもこれもまたきっと、あいつらの『計画』に含まれている内容なんだろうな。
 計画、か。
 スーリはどうなったんだろう。シンに力を奪われたらしいけど大丈夫なんだろうか。傍にロスリュがいてくれていたけど彼女もどうなったか分からない。本当ならアユラツまで行って様子を見たいんだけど、とても怖くて行けないんだ。情けないとは思ってる。でももし今行って何も分からなかったとしたら、もっとどうしようもなくなって途方に暮れるだろうから。
 アユラツは俺の故郷とも言える世界だった。故郷があんなにも遠い場所にあるなら探しても見つかるはずがなかったんだよな。それでも小さい頃はよく探していたっけ。本当の父さんや母さん、それに自分の兄弟のこと――。
 結末がこれか。俺に母はなく、父はすでに他界していた。兄弟たちは互いに敵同士で仲が悪く、姉は自分のせいで巻き込まれた一人の一般人だった。そして俺は人ですらなかったんだ。本来持つべき闇はなく光だけの塊だった。これが俺。これがヴェイグ・ベセリア。
 何も変わりはしない。
「向こうでは兵器だろうと何だろうと、こっちでは俺は樹なんだ」
 呟くと涙があふれた。でもそれは下に零れることはなかった。もうこれ以上無意味に泣いてはいけないから。涙を使いすぎては本当に泣きたい時に泣けなくなってしまうから。
「な」
 俺より背の低い少年に同意を求めても何も言ってくれなかった。相変わらず厳しくて冷たい奴だなぁ。相手の態度に涙は引いて笑みが現れる。
 ジェラーはじっとこちらを見上げてきていた。何か言いたそうな顔だが何も言ってこない。心の中から話しかけてくることもない。それがちょっと不思議に思えたけどいつもそんな感じだったのであまり気にとめるようなことではなかった。それでも気になってしまったのは、彼が俺の服を掴んできたからだ。
「どうしたんだよ?」
 問いかけてみても無言で返される。表情を変えることもない。それは相手の場合では当たり前のことなんだけど、今は感情が出てきそうな気がしたのだ。
 まさかとは思うけど、俺、本気で嫌われた?
 それならそうと言ってくれればいいのに。嫌われたって無理はないことをしてきたんだから。自分でもちゃんと分かってる。いろいろ酷いことを言ってきて、それでもまだきちんと謝ることができなくて。本当なら全員に嫌われててもおかしくはないのだから。それでも傍にいてくれるのはやっぱり許してくれているからなんだろうと思う。俺は甘えてばかりだ。
 このままじゃいけないと思っていても俺にはどうしようもなかった。この先どうすればいいのか分からないのだ。いつまでもここで安全に過ごしていたいというのも本音だけど、それでは何も解決しないから。何よりこれ以上俺のせいで誰かを犠牲にすることが嫌で嫌で仕方がないのだ。
 そう思うのはおかしいのかな。ジェラー、あんたならどう思う?
「なんて、な」
 少年から視線を外して壁に背中をつけ、天井を見つめる。木造建築の家から出る木々の匂いが心地よかった。日本ではあまり感じられないこの感覚に心が落ちつくようだ。
 相手の少年は俺の服を掴んだままだった。

 

「人捜し?」
 家の外には何やら人が集まっていた。そのうち眉根を寄せて訝しげな顔をしているのはいつか見たことがある金色の髪の男の人だった。確かこの人は――そうだリヴァの上官だ。
 彼のことが大好きだと言っていた外人もその場にちゃんといた。上官の横に並んで立っている。そしてその二人と対峙するかのように向き合っているのは他でもない、つい先ほどまで俺と話をしていたラザーラスだった。彼の隣にはなぜかアレートまでいる。本当に何やってんだろうこの人々は。
「本当はあんたなんかに頼みたくはないんだけど。長年ご苦労なことに追いかけまわしてくれやがったよしみで頼んでやってんだ」
「なるほど。お前では無理だったから俺に頼んでいるわけか。お前にしては適切な判断だな」
 二人ともあくまでも強気だった。俺はこんな状況の中に入り込んでいくほどの勇気など持ち合わせていないのですが。
「上官ラザーのこと知ってたんだ?」
 なんとものんきそうな口調の外人の問いに相手は静かに答える。
「俺はあいつだけは許さん」
 一言で。それだけかよ。
「って言うけどヤウラ。俺の罪はもう終わったはずなんだけどなぁ?」
 銀髪の不老不死の青年はおどけるように言っていた。本当に仲がよろしいことで。常に臨戦体勢だけど親しみと嘲(あざけ)りのこもった台詞にはそう思わせるふしが確かにあったのだ。もしかしたら師匠より仲がいいんじゃないのか?
 対するヤウラという名の警察はますます表情を厳しくしただけだった。しかしその中にはラザーと同じように親しみと嘲りとが混じっている。警察ってそんなもんだっけ。何か違うような気がするんだけど。
「お前の罪が終わろうとどうなろうとそんなことは知ったことではないんだ」
「は?」
「社会では無意味な行動なのかもしれない。だが、何と非難されようとも俺は自分の正義を貫くつもりだ」
 リヴァの上官はあまり警察っぽくはなかった。
 ちょっと驚いた。社会に非難されても自分の正義を貫く、って。そんな言葉は簡単に警察の口から出てくるようなものじゃない。ラザーが彼に頼もうと思った理由もなんとなく分かるような気がした。確かに普通の人よりも強い人だ。
「お前は罪が終わろうとどうなろうと危険人物に変わりはない。危険な奴を放っておくことがどうしてできよう? だから俺は絶対にお前を許さん。次に何かしてみろ、地獄の底まで追いかけて捕まえてやるんだからな!」
「あんたなんかに誰が捕まるかよっ!」
 そうかと思うとまた喧嘩が始まった。なんか二人とも子供みたいだ。もしかして子供みたいだから親しみが見え隠れしているんじゃないだろうか。だとしたら、ちょっと情けないかも。
「あのー、上官。今は喧嘩してる場合じゃないと思うんですが」
 口を挟んだのは外人だった。それによって反省したのか、二人とも急に静まり返った。それがあまりにも急だったので逆にこっちが驚いてしまった。口出しした当の本人までぽかんとしてなんとも情けない表情をしている。
「で? 捜してほしいのはどこのどいつだよ?」
 落ちつきを取り戻した様子でリヴァの上官はラザーに顔を向ける。
「この家に住んでた奴」
「名前は何というんだよ。それだけで分かるか」
 さてどうしたものか。
「……俺に聞くな」
 ラザーは振り返ってこちらを見てきた。ってなんで俺の方に向いてくるんだよ。俺だって知らないよそんなもん。
 いつのまにか俺に視線が集中していた。リヴァの上官は不機嫌そうな顔で俺の口から出る言葉を今か今かと待ち構えているように見える。そんなに期待されても困る。っていうかどうしよう。
 ちらりと横に視線を向けた。そこにはアレートがいる。アレートは俺の顔を見るとすぐにリヴァに視線を向けた。外人は外人でさっと上官の顔を見る。
 何やってんだろう俺たち。
「なんだよ、誰も知らないのか?」
 かなり不機嫌そうになった声が周囲に響いた。その声に皆が一斉にこくこくと頷く。そもそも師匠は自分で自分の名前を忘れたと言っていたんだ、それで俺たちの誰かが知っていたらそれこそ奇跡だ。最初から誰も知ってるわけがないんだよ。
「じゃあ仕方ないな。外見は?」
 こうして説明が始まっていく。

 

 一通り説明が終わるとリヴァの上官は不機嫌なまま帰っていった。リヴァは上官にくっついていった。どうやら本当に捜してくれるらしい。二人の姿が消えるとラザーは大きく息を吐いた。
「これだから嫌なんだ警察の野郎は。何でもかでも他人のことを聞きまわる」
「それが警察ってもんだろ」
「嫌なもんは嫌なんだよ」
 ラザーは地面にぺたんと座り込んだ。なんだか知らないが疲れてしまったらしい。そこまで疲れるようなことをしたわけではないんだけど、彼にとっては警察と一緒にいることが疲れる原因になるんだろうか。
「明日は行くのか?」
 下から声が聞こえた。
「行くってどこへ」
「学校」
 ああそっか。ラザーも学校あるんだった。
「まあ、行くよ。記憶を失ってた時に何してたか知らないけど」
 きっと俺ってば学校では有名人だな。記憶をすっかりなくして別人になっちまったんだし。またしても平凡から遠ざかってしまったというわけか。ああもう本当になんで俺ばかりこんな目に。
 なんて嘆いても仕方がないか。なるようにしかならない世の中だ、計画通りだろうと非平凡だろうと後悔して何かが変わるわけじゃない。大切なのはこれからどうするかということ。
 未来。
 また一つ俺はそこへ近づいたのかもしれない。

 

 

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