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『思い知れ! 己の愚かさを思い知れよ!』
 いつか聞いた言葉が頭の中で反響する。
 力石と黒いガラスを破壊したかと思ったら急に襲われて。
『気にするな』
 遠い過去ではこんなにも優しい言葉を持っていたのに。
 遠い未来ではこんな言葉を聞くことができないのかな。
『どうして生きてはいけないんだろう』
 シン・ベセリア。
 俺の兄。欠陥品。出来損ない。家族。
 その人の兄は今、俺の目の前にいる。

 

「何も変わってないのね」
 場所は俺の家の中。傍にはくっつくようにしてジェラーが立っており、俺はその傍で目の前の状況を必死に理解しようと努めている。
「そんなに驚かなくてもいいじゃない」
 目の前のいる人。俺の部屋の中に突然光と共に現れた人物。それは長い水色の髪を持つ未来が見えると言った少女だった。
「驚くなって言う方が無理があると思いますが」
「失礼な人ね。こういう場合は嘘でも謝っておくものなのよ」
 なんでそうなるんだ。俺にはわけが分からないのですが。
 師匠の家から俺の家に呪文で送ってもらった後、自分の部屋でゆっくりしていようと思ったらなぜかジェラーがついて来ていた。どうしてここに来たのかと聞いても何も言ってくれないし、姉貴は姉貴で家に入った途端にリヴァのように手を握ってぶんぶんと振りまわしてきたのでもうどうでもいいような気がした。そんな中を疲れているという言い訳で抜け出してくるとこれである。どうでもいいけど人の家の中に勝手に入るのはいけないことなんだぞ。
 などという文句も口の外までは出ていかなかった。なぜなら今目の前にいる人物はロスリュだけではなかったのだから。
「ずっとこんな調子なのよ、この人」
 ロスリュの背中には青い髪の青年、スーリが背負われていた。目は閉じられて眠っているかのようだ。少女の話からしてずっと気を失っているか眠っているかし続けているらしい。
「それってやっぱりシンの――」
「そう考えるのが普通ね」
 スーリはシンに力を奪われたという。シンにとってスーリは邪魔な存在だったんだ、力を奪ってしまって相手を弱らせる理由としては充分だ。だけど二人は歪んでいるとしてもちゃんとした兄弟だったはずなのに。それほどまでにシンは相手のこと、嫌いだったのかな。
 悲しいよな。家族なのに。
 辛いんだ。俺の兄弟だから。
「どうするんだよ、この世界に来て」
 アユラツは静かで落ちつける世界だ。それをわざわざこっちへ運んできたということは何か思うところがあるからなのだろう。
 ロスリュはスーリを背に背負ったままの体勢で俺と話をする。
「そうね。どうするかなんてちゃんと決めてなかったわ」
「え?」
 決めてなかった? 思いがけない答えに何も言えなくなる。だったらどうしてこっちへ?
 俺のその思いを察したのか察しなかったのか、相手はちょっと間を置いてから再び口を開いた。
「あの世界ね、全く安定していないのよ」
 言葉の意味が読み取れない。安定していないとはどういうことなのか。
「不思議だとは思わなかったの? なぜあの世界には色がないのか。なぜあの世界には人が生きていないのか。そしてどうして力石と黒いガラスのような物ができてしまったのか」
 そう説明されると確かに不思議なことだ。他の世界とは明らかに違う俺の故郷の世界のこと。考え始めたらきりがないほど謎は出てきて止まらなくなる。そしてその答えを知っているものはきっと誰もいないだろうから。
「ロスリュは何か知ってるのか?」
「その前にこの人、どうにかしたいんだけど」
 ……そうだった。
 仕方がないので俺はまた皆の集まっている場所、つまりは師匠の家へ行くことになったのである。

 

 家にはアレートしかいなかった。ただ一人だけ椅子に座り、なんとものんきそうにお茶を飲んでいる。
「ロスリュ? どうしてここに」
 アレートもまた驚いているようだった。やっぱりこの状況を驚くなという方が無理があることだったんだ。っていうかこれを驚かずしてどう反応しろと?
 俺の家からここへ来たのはジェラーの呪文である。そしてその呪文を唱えた当の本人は相変わらず無表情で俺の隣に立っており、やはり何も言ってこようとしなかった。すっかり無口になってしまってこっちとしてはかなり怖い。言いたいことがあるならちゃんと言ってくれなきゃ困るというのにさ。
「師匠は?」
 アレートの歓迎をさらりと無視したロスリュは家の中をきょろきょろと見回す。そういえばラザーの姿もないな。でも今はそれでちょうどよかったのかもしれない。
「師匠は行方不明中。今はラザーとリヴァの上官の人が捜してくれてるんだ。俺は明日から学校があるから何もできないんだけどな」
「行方不明ですって?」
 説明するとロスリュはむっと顔を歪めた。そんな顔を俺に向けられても困る。仕方ないだろ、事実なんだから。
「まあいいわ。とりあえず部屋を貸してちょうだい」
 ずるずると長い髪とスカートを引きずりながら少女は勝手に部屋の奥へ入っていく。勝手に借りちゃっていいものなのだろうか。もっとも持ち主を待つとなればいつまでかかるかは分からないのだけど。
 ロスリュの後に続いて俺も部屋の中に入る。少女はスーリを背から下ろし、誰のものか分からないベッドの上に無造作に横たえさせた。表情はいつもと変わらない冷淡なものだった。スーリもまた何をされてもその目を開くことはなかった。
 俺の後ろにはアレートもついてきていた。横には無言のジェラーが陣取っている。この二人だったからスーリを家の中に連れてきてもいさかいが起きなかったのだろう。ラザーも師匠もスーリのことは嫌っていたみたいだから。
 そう言う俺だって最初は――この人と初めて会った時はとても怖かった。変な思いが頭の中を支配して、恐ろしさと悲しさとが混じりあって気分が悪くなることだってあった。今思えばあの変な思いは懐かしさだったんだろう。相手に対する懐かしさ。俺の中の兵器は、魂は、光は、ちゃんと全てを分かっていたのだから。
 分かっていなかったのは俺だけ。そしてあの時から変わったのも俺だけ。
 師匠はなぜスーリを嫌っているのかちゃんと教えてくれていない。ラザーの昔話で彼がスーリを捜していた理由は分かったけど、師匠は何も話してくれていない。ラザーのためにという理由ではないだろう。それに、なんとなく分かるような気もするから。
 多くの人の命を奪って。たくさんの人に嫌われて。それでも俺のために悪役を演じ続けた兄。彼はどんな気持ちで今までの時を過ごしてきたのだろう。
 辛くはなかっただろうか。悲しくはなかっただろうか。嫌になってやめてしまいたいとは思わなかったのだろうか。そこまでしてどうして悪役を演じなければならなかった? 俺のために? いやそうじゃない。彼の行動は全て、ダザイアのために。
 自分の弟と対峙して。共に暮らしてきた家族を傷つけてきて。挙句の果てには反発していた年の近い兄弟に力を奪われて。
 奪うことと奪われることの連発だ。人の命や心を奪い、他人からの信用や愛情を何かに奪われていく。身近な者の自由を奪って縛りつけ、役割に自分の中の正直な気持ちを奪われる。彼は何のために創られたんだ? 失敗作? 出来損ない? 欠陥品?
 兼ね備えるは、人を奪う力。
 感情のない束縛された兵器だ。
 だったら俺は? 俺は彼らの目から見たらどんな奴に見えるのだろうか?
 世界の兵器? 変革のための道具? それとも何も知らないただの子供か。
 大人なんて――。
 スーリを見下ろすと師匠によく似た顔がある。だけど本当は似ているのは師匠ではなくて、シンや俺の顔とよく似ているようだった。当然だ、だって彼もあの人も俺も同じ場所で創られたのだから。
「アユラツは非常に不安定な世界だった、それこそ遠い遠い昔から」
 静かな空間の中に響くのはここまでスーリを連れてきた少女の声。
「その理由はいろいろと研究されてきたけれど、最終的に力石と黒いガラスができたことが直接の原因だと考えられるようになった。この二つの物質は強大な力を秘めているが、そのせいで本来世界にあるべき色彩や生命に力が及ばなくなったと考えられている」
 淡々と語る様はどこか今眠っている人を思わせるところがある。
「私はそこまで詳しくは知らないわ。知っているのはこのくらい。後は彼に直接聞いてみなさい」
 少女は振り返ってこちらを見てきた。俺は相手の言葉に一つ頷く。
「さて、じゃああなたはもう帰りなさい。明日は学校という場所へ行かなければならないのでしょう? ここのことは私に任せておいて。大丈夫、おかしなことはしないから」
 それだけを言うとロスリュはすたすたと部屋の中から出ていった。何か声をかけようとしたが何を言っていいか分からなかったので結局何も言えずに部屋の中に取り残されてしまった。
 まあ、今なら信用できるしな。
「帰ろっか、ジェラー」
 隣にいる少年に一声かけると藍色の大きな瞳と視線が重なった。

 

「あれ? あんた部屋にいたんじゃなかったっけ」
 家に帰ると姉貴に遭遇した。なんともタイミングが悪いもんだな。っていうかジェラーの奴、俺の部屋に送ってくれたらよかったのに。
 なんて文句を言っている場合ではない。
「ちょっと外の空気を吸ってきたんだよ。悪いか」
「なぁによ、悪いなんて言ってないじゃないの」
 口を尖らせて言ってくる様はいつものものと変わらない。長年一緒に住んでいたから見慣れてしまったこの表情も、今はただ懐かしいと感じる他はなかった。
「姉貴って俺の本当の姉じゃないんだよな」
「どしたの、いきなり」
 言ってしまってから気づいた。心の中だけでとどめておこうとした言葉がつい口に出てしまったらしい。姉貴は目を丸くしてかなり驚いているようだ。そりゃそうだよな、だって俺って今までそんなことを口にしたことなんてなかったのだから。
「なんでもねーよ。忘れてくれや」
 いつものように冗談めいた口調で軽くあしらう。それでもまだ妙な視線を感じたが、自分で引き起こしてしまったのでこれ以上何か言ったらいけないということがよく分かっていたので黙っておいた。
「まあそれはいいんだけど。樹、あんたの後ろにいるその子、誰?」
 へ? 後ろにいる?
 まさかと思いながら振り返ってみる。
 少し下に視線を落とすと藍色の髪が目に入った。
 何やってんだよお前。なんだってそんなに俺にくっついてくるんだよ。俺を困らせて何が楽しいんだよ、まったく。はあ。
 ため息と同時に諦めの気持ちが膨れ上がってきたので、俺は仕方なく適当に嘘をついておくことにした。
「こいつはリヴァの友達の弟だってさ。今日はリヴァに用があって来たらしいけど、あいつまだ帰ってないよな」
 もうこの際おかしな設定でも何でもいい。とにかく何か繋がりを作らなくてはやっていけないんだ。
 姉貴は一つまばたきをしたかと思うと納得したかのように「ふうん」と呟いた。納得してくれたならそれでいい。っていうか納得してくれなきゃ俺が困る。
「リヴァセール君ならさっき帰ってきたわよ」
「あ、そーなんだ。……って、え? 帰ってるって?」
 やけに早い帰宅だな。あいつ確か上官についてどこかへ行ったんじゃなかったっけ。もしかして邪魔だから追い出されたとか?
「じゃあ俺あいつに会ってくるわ」
「そう。あ、これからは外出する時はちゃんとあたしに知らせてね」
 自分の部屋へ帰ろうとしたら姉貴は妙なことを言ってきた。そのせいでぴたりと足を止めてしまう。
「……なんでそんないきなり」
「だっていきなり記憶喪失なんかになっちゃって、本当にびっくりしたんだから」
「あれは――その」
「お願い。あたしが父さんや母さんの代わりにあんたを守らなきゃならないんだから。あんたが記憶喪失になったのもあたしのせいなんだから」
 驚いた。びっくりした。本当に心の底から驚愕(きょうがく)して息が詰まったように何も言えなくなってしまった。
 違う。姉貴のせいなんかじゃない。姉貴は何も関係ないから。これは俺だけの問題なのだから。
 昔の俺ならそう言っていただろう。だけど本当のことが分かってしまった以上、嘘は通せないということも理解していた。
「姉貴」
 声を出すとちょっとだけ心が安定した。これもまたいつだったか味わったことがあるような気がする。
「悪いのは姉貴じゃねーよ。増してや俺でもない。悪いのは、本当に悪い人なんてどこにもいないんだ」
 俺を創ったダザイアが悪いわけじゃない。だからといって世界を滅ぼそうとした少年が悪いわけでもない。力石と黒いガラスによって安定していないアユラツという世界のせいでも、出来損ないとして生まれてきて多くの人を巻き込んだ俺のせいでもない。全ては全てであるのと同じように、悪いのは何かと決めつけることは不可能なんだ。
「樹、あんた」
「ん?」
 俺の言いたいこと、分かってくれただろうか。
「あんたいつから思想家になったの」
「――は?」
「やっぱり病み上がりね。まだ寝る必要があるんだわ。そうと分かればさっそく寝なさい。明日も学校休むべきなんじゃない?」
 あの、ちょっと。
 姉貴は何も分かってくれなかった。いや本当は分かってくれたのかもしれない。でも、そうだよな。昔から俺はこんな台詞を吐き出すような奴じゃなかったもんな。病み上がりだととらわれても当たり前なのかもしれない。
 相手は何も知らない。俺の生まれた場所のことも、兄弟のことも、抱えている問題のことも。だけど知らない方が良いことも世の中にはあるものだ。姉貴だってそれが分かっているからこそ何も問いただしてこようとしないのかもしれない。もしかしたら何も感づいてないだけなのかもしれないけど。
 また帰ってきたこの家は、色のない世界とはまた違った懐かしさを俺に与えてくれた。それを受け取ると心が安定できるようで、とても心地のよいものだった。

 

『思い知れ! 己の愚かさを思い知れよ!』
 俺は愚かなのかもしれない。
『気にするな』
 俺は優しくされたいのだろう。
『どうして生きてはいけないんだろう』
 つい重ね合わせてしまう自分の姿。

 答えはいまだに闇の中だ。

 

 

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