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 人にはそれぞれ事情というものがあるのだし、他人に知られたくないことは少なくとも一つくらいは抱えているものだ。
 いつも言うようだけどそれは本当のことだし、何より俺自身にも言えることなので間違っているとは思えない。
 それでも全てを包み隠さず話してくれる人というのも世の中にはいるものなんだ。
 もしそんな人に出会ったとすれば。
 人はどんな反応をすれば許されるというのだろうか。

 

「(A+B)の二乗を展開すると、Aの二乗プラス二倍のABプラスBの二乗……」
 今は五月。場所は日本。
 高校一年である川崎樹十五歳は次回のテストのために必死に勉強しなければならないのだ。
 なんて。
「分かんねえや」
 記憶を失っていたとはいえここまで理解不可能なのはやはり異常なことだ。スーリが言うにはこれは俺が欠陥品だからだと言うけど、そもそも俺の魂って力石と黒いガラスなんだろ。欠陥品とは関係ないんじゃないのか?
 自分の部屋で机に向かい合って約一時間。こんなにはかどらない勉強も久しぶりだな。高校って恐ろしい。
「君さ、本当に大丈夫なの?」
「うっさい」
 隣には外人が立っている。情けないけど教えてもらっているのだ。とは言うものの相手は自分で数字は苦手だとか言っていたのであまり適役ではないのだけれど。
「いい? 数学は暗記なんだ。解き方を全て覚えると後は計算ミスさえしなければ大丈夫なんだよ」
「それ何回も聞いた」
「じゃ覚えなよ」
「簡単に言うなよな。お前じゃないんだから」
「だって君だって召喚呪文覚えられたじゃないの」
 それを言われたら何も言い返せなくなる。
 確かにそうだ。なんでかは知らないけど俺はちゃんと召喚呪文を覚えることができたんだ。いつもならなかなか覚えられないのに二種類もの長ったらしい文句を覚えられたんだった。だけどそれとこれとではまた違うものだということを察してほしいんだけど。
 学校が始まってからずっとこんな調子だ。勉強は分からないわ皆に変な視線を向けられるわ妙なところで有名人になっているわ。もっともその大半が記憶喪失になっていたからなんだけど。まだ学校が始まってちょっとしか経っていなくてよかった。そうでなければ俺はやっていけない。間違いなく。
「今日はここまでね。ぼくちょっと出かけてくるから」
 手早く参考書を片づけながら外人は妙なことを言う。いつも思うがこいつってあまり自分のこと話さないよな。なんか、無理に隠しているようにも見えなくはないけど。
「どこ行くのか知らないけど早く帰ってこいよ。姉貴がうるさいから」
「分かってるよ」
 俺はあまり相手の言いたがらないことを聞くことはしなかった。だって俺にだって言いたくないことがあるのだから。教えたくないのなら聞くべきではない。
 リヴァは俺の部屋の窓を開けた。外からの空気が気持ちいい。空に輝くのは無数の星で、すっかり日が暮れて時計は十時を指している。
「じゃあね」
 そんな暗闇の中に外人は飛び下りた。
 なんだってそんな変な場所から外へ行くんだお前。もうちょっと常識っぽい行動しろよな。そのせいで誰が苦労してると思ってるんだ。はあ。
 常識と言えばもう一つ常識じゃないものがあった。それは他でもない、今この部屋の中にいる俺以外のもう一人の人物のこと。
「あのさあ」
 相手と向き合って声を出して話しかけてみる。
「一体君は何をしてほしいわけ?」
 口を閉ざして相手の反応を待つ。しかしいくら待っても何の反応も示してくれなかった。いいよ。もう慣れたから。
 俺の目の中に映るのは藍色の髪の毛。瞳も同じ藍色をしているが、その中に見えていた光は今ではすっかり消えてしまっているかのようだ。
「あまり俺を困らせないでくださいジェラー君」
 ふざけて言った言葉に対しても何も反応してくれない。こっちとしてはかなり恥ずかしいし、何より虚しい。
 一体どうしたんだろうな。いつもなら嫌味っぽく何かと突っかかってくるはずなのに、こう妙なほど静かにされていたらこっちがまいってしまう。それにどういうわけだか知らないけど、ここ最近ジェラーは俺から離れようとしなかった。最初は嫌われて口をきいてくれなくなったのかと思ったけど、どうも違うらしい。記憶を失ったのがいけなかったんだろうか。でもアレートの話では記憶喪失の時にはちゃんと話をしてくれたと言っていたし……。
「まあ、いいか」
 分からないことをこれ以上あれこれ考えるのは悪い癖だ。そのせいで誤解を招かれたらそれこそ大失敗ってやつ。それに考えれば考えるほど分からなくなるって場合も考えられるだろうしな。
 ジェラーだって分かってるはずだ。わけを言いたくなったら言ってくれるだろう。俺はその時まで待たなくてはならないんだ、きっと。
 勝手に結論を下すとまたシャーペンを握り直す。現代に生きる平凡な高校生にとってテストは命だ。どうしても赤点だけは避けたい。取りたくない。欠陥品だけど。
「三乗の公式なんか覚えてねーよ……」
 欠陥品だけど。努力すればどうにかなることだってあるはずだ。

 

 決められた道しか歩めないはずがない。
 自分の故郷のこと、与えられた役目のこと、そして全ての存在について知らされたこと。それらによって俺は深くそう思わざるをえなかった。
 なぜならその言葉を信じなければどうしていいか分からなくなるから。
 いつも分からないと言ってしまえばそれまでだ、けどそれでも今までなんとかやってくることができた。それは他人の助けがあったから。これは間違いない事実のうちの一つ。
 事実はまだある。俺が欠陥品だということも変えられないものだし、故郷の世界で繰り広げられた過去の出来事も決して変わらないものだ。たくさんの人の思いが交差する。頂点に立っているのは自分だと思っていたけど、実はそうじゃない。そこに立っていたのは俺じゃなかった。そこに立っていたのは、かつてそこに立っていたのは世界を滅ぼしたという少年だった。
 少年、と一言で言ってしまっても俺はそれが誰なのか知らない。見たこともなければ名前すら教えてくれなかった。話の内容からすれば彼はまだ生きていると推測することも可能だ。だとすれば、また近いうちに俺の前にも現れるかもしれない。
 全てに挟まれていたのは彼。彼を挟んでいたのは全て。しかしここで言う『全て』とは所詮アユラツという名の一つの世界にすぎない。ではもしアユラツではない他の違う世界に生を受けたとすれば、彼は少しでも変わっていたと考えられるだろうか。――いや。
 何だろう。俺はなぜ見ず知らずの少年のために頭を悩ませているのだろう。それは俺とよく似た人であると勝手に思い込んでいるからなのか? 変だよな、何も知らないくせにさ……。
 今どこかの世界で生きているとしたら何を望んでいるだろう。アユラツへの復讐とかかな。もう終わってしまっているのに? それとも人への復讐? なんだ、復讐ばかりなんだな。そう思わせておいて実は今を楽しんでいるなんてオチだったら、ちょっと笑ってしまう。そんなオチだったらどんなによいことか。
 そう、どんなに。
 俺はもうこれ以上あの世界を嫌いたくない。
 頼むから。嫌わせるようなことを二度としないでくれないかな。

 

 待ち伏せとは時に恐ろしいものになるものだ。
 翌日になってから気がついたのだが、どうやらまだリヴァが帰ってきてないらしかった。どこに行ったのかなんて知らないから俺にはどうしようもない。いつものように自転車で学校へ向かおうと家の外に出た。
 そうしたら待ち伏せされていた。誰にされていたかってそれは例の幼馴染にされていた。
「おはよう、我が親友よ」
「何の用だよ」
 俺の幼馴染。名前を川崎薫という。名字が同じということでよく間違えられた過去を持つ。
 朝っぱらからつきまとわれたらこっちの身が持たない。ここは適当にあしらってやろうかと思ったけど、同じ高校に通っている以上それは限りなく不可能なことだと察すると何もやる気が起きなくなってしまった。ったく面倒だったらありゃしない。
「何の用だとはご挨拶だね、樹君てば」
 とりあえず薫の文句は無視して自転車に乗る。今日は追い風か、それとも向かい風か。追い風であってくださいお願いだから。
「今日は一人なんだな。リヴァセールは一緒じゃないのかい?」
「見りゃ分かるだろーよ」
 こいつはやたらと俺の周りをうろついてくるので外人ともすっかり仲良しさんになってしまっていた。それだけならまだしも、なぜかあの他人とは仲良くしなさそうなラザーとも友達だと言い張っている。どこまでが本当なのか俺には知る由(よし)もない。
 こいつってただ単純に変な奴に寄って行ってるだけじゃないのか? などという基準を定めてしまっては、俺自身も変な奴として扱われるのでなんとも複雑な気分になる。
「樹だけなんてつまんねーな」
「ならもう来るなっ!」
 ああもう。泣くぞ俺。
「なんてね。冗談冗談。実は昨日とある場所でリヴァを見たんだよ」
「へっ?」
 急に話は別の方向へと走り出した。思わず相手の顔を見てしまう。
「見たってどこで?」
「近所の墓場。なんか一人でたそがれてたって感じで」
 墓場、ねえ。
 少しは気になったものの、そんなに大層なことでもなさそうだったのであまり気にとめるようなことはしなかった。あいつ確か言ってたもんな、お墓参りがどうとかって。意外と熱心な奴なのかもしれない。
 なんてどうでもいいことを考えながら自転車を進めていると、よそ見をしていたせいか溝の中にタイヤが落ち込んだ。本当今日ってついてないかも。学校に行ってもまた何かやらかしそうで怖い。
 だけど本当に恐ろしいものは何なのかということを、この後になってから知らされることになるとは思ってもいなかった。

 

 学校に外人は来ていなかった。だいたい予想はできていたのであまり驚かなかったものの、家に帰ってそのことを姉貴に話すとリヴァを捜してこいと言われた。昨日から一度も家に帰っていないらしい。姉貴が心配するのも無理はないことなので、俺は仕方なく夕方になってから家を出ることにしたのである。
「って言ってもなー」
 夕日に映る影は大小二つ。言うまでもなく俺のものと藍色の髪の少年のものである。こいつってなぜか学校以外の場所にはやたらとくっついてくるんだよな。
「捜してて文句言われたら嫌だしなぁ」
 人気のない場所でうろつくこと約十分。今朝の薫の話からすれば墓地に行くのが妥当なんだろうけど、今はどうしてもそんな気分じゃなかった。そう簡単に行っていい場所じゃないだろ。用事もないようなら尚更だ。
 しかし時間は無慈悲にもどんどんと経過していくものである。こればかりは誰にも止められはしない。それにもしそんなことができるとしても、俺には一切関係ないことだ。
 赤々と燃えていた夕日は勢いをなくしていき、気がつけばすっかり辺りは暗闇に呑み込まれていた。
「もう帰ろうかな」
 俺は光だ。だから闇の中でいることは良いことじゃない。故郷で教えてくれたことの一つがこれ。闇を苦手とする原因がちゃんと分かっていると不思議なことにあまり心が動揺しなかった。これって『病は気から』ってやつかな? ちょっと違うような気もするけどさ。
 何はともあれ今の時代、学生の一人歩きは危険を伴うものなのだ。俺はこの世界ではまだ平凡でいたい。だから帰る。いーだろそれで。
 くるりと踵(きびす)を返して足を家のある方角へ向ける。そして一歩踏み出そうとすると。
「あれ?」
 見覚えのある影がそこにはあった。
 間違いない。これはあいつ。今まで気が乗らなかったけど捜していた人物の影。
 だけどどうしてこんな場所にいる? 墓場にいたんじゃなかったのだろうか? ……っていくらなんでもずっと墓場でいるわけないよな。ここにいることの方がむしろ常識のあることなのかもしれない。
「おーいリヴァ」
 とりあえず声をかけてみる。もうさっさと帰りたいんだよ俺は。
 なんて。
「あれ、樹だ。どうしたのこんな場所で」
「それはこっちが聞きたいっつの」
 相手はいつもと変わらない顔をしていた。それが当然と言えば当然。だけどこの状況でそんな顔をされたら、今まで捜していた俺にとっては何とも言えない効果を与える他はないのだ。
「なんか不満そうだね君」
 そしてすぐにばれるし。
「あーもう。それはいいから。帰るぞ」
「ごめんそれは無理」
「……はい?」
 わけが分からず相手の顔を見ると、そこにはいつもとちょっと違う雰囲気があった。
 少し視線をずらして相手は口を閉ざす。次に視線を合わせてきた時にはすでに、俺の知っているあいつはどこにもいなかった。

 

 

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