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 空には金色に輝く月がぼんやりと雲に隠れようとしていた。体に吹きつける風は痛いほど冷たく、心の中まで凍らせて二度と日の温かさを味わえないような思いが現れてくる。
 前方には闇に紛れて真っ黒になってしまった外人がいた。髪の色だけが明るく月光に照らされており、真っ黒だった服はさらに黒を増し今では漆黒と呼ぶ方がふさわしいだろう。そして俺は光の魂を抱えながらも、この暗い世界の中で立ち尽くしていた。
 相手はじっとしていた。微動だにしない。無慈悲な風が俺を寒さの中に放り込む。
 何をしようとしているのか、いや何をしているのかは分かっていた。なぜならついさっき話してくれたから。彼が言うには、やはり墓参りらしかった。どうしてそこまで熱心なのかはまだ分からないけれど。
 俺は正直言って早く帰りたかった。光と闇は相反する存在だから、ここにいるだけでも辛かった。それでもこいつの後ろに立っているのは相手が心配だから? そうではない。相手の何かが分かるかもしれないから? そうなのかもしれない。
 どちらにせよ、ここまで暗くなってしまったからには一人で帰ることは怖かった。そのまま暗い闇の中に呑まれて出て来れなくなるように思えたのだ。雲の隙間から放たれる月光は弱々しく、なんだかもう朝は来ないのではないかと不安になってくる。可笑しいよな、そんなことがあるはずはないのにさ。
「ねえ樹」
 ふと風に乗って声が聞こえた。静かな空間では小さな声でも大きく響いた。
「うん?」
「ぼくがどうして大人や魔物を嫌うか知ってる?」
 突然の話題に戸惑いを感じる。なぜいきなりそんなことを話そうとしたのか、分からないようでなんとなく分かるような気がした。それでもやはり戸惑いは否定できない。
「それに呪文のことについて、ほら――呪文を使うと熱が出るっていうやつ」
 一気に辺りがしんと静まった。それを見計らったかのように相手はこちらを振り返ってくる。
 闇に紛れた相手の瞳はそれでも光を放っているかのように思えた。
「それには昔の上官がね、関係してるんだよ」
 まるで子供に言い聞かせるかのように優しい言葉遣いで言ってくる。穏やかさの裏には恐怖があり、優しさの裏には悲しみが見え隠れしていた。相手はそれを隠すために何かを必死で抑えている。
「少しくらいなら話したと思うけど、昔の上官は今のぼくと同じ職業だったんだ。だからぼくは彼の跡を継いで警察になったんだけど」
 外人はぺたんと地面に座り込んだ。俺も真似をしようと思ったが体がついていかなかった。
「ぼくがまだ子供で今の上官にも会ってなかった頃、彼は死んだんだ」
 一瞬だけ闇がざわついたように思えた。相手は片手でもう片方の腕をさすり、落ちつかない様子でそれをぎゅっと握り締める。
「上官は仕事だって言ってた。でも帰る途中で魔物に襲われた。ぼくは上官について行くことは許されなかったから警察で待ってたんだけど、上官と一緒に行った人だけが帰ってきてたから不審に思った。
 それで、ぼくは上官を捜しに行った。そしたら倒れてた。上官は逃げろって言った。でもその時に魔物に襲われた。とても大きかった。とても強そうで、太刀打ちできる相手じゃなかったんだ。上官は死ぬ間際にぼくに闇の力をくれた。闇を自在に操る力をくれたんだ」
 また闇がざわついた。空間が歪んだような、別の次元が現れたような、そんな感じで。
 何を言っているのかよく分からなかったけど、相手はそれでもまだ言葉を続けていた。
「大人は上官を見捨てたんだ。そしてあの時見た魔物の姿が今でも忘れられない。だから大人は嫌いだし、魔物は怖いんだ」
 相手はそれだけを言うと立ちあがった。俺に向けて腕を上げる。視線は自然とそちらへ向けられた。相手の腕は闇に紛れて何も見えない。
「ねえ、光の精霊様を召喚してみて」
 今度は頼みか。さっきから相手は一方的だった。一方的にわがままで、話をしてきて、最後には頼んできて。それでも俺は嫌だとは思わなかった。どうしてかは分からないけど、この闇の中では何もできないように思われた。
「……精霊よ、全てを従えし光輝なる精霊よ」
 久しぶりに紡ぎ出す召喚呪文は頭の中で知識が涌き出るように外に出てきた。何も意識していなくとも、魂が全てを知っているかのごとく。
 やがて全ての文句を唱え終えると光があふれ出す。闇の中には不釣合いな輝きは、少なくとも普通の人である俺や相手には辛いものだったに違いない。
「何の用だ」
 光の精霊の声も久しぶりに聞いたような気がする。この不機嫌そうな声色も、男か女か分からないトーンも、今では久しく聞いていなかった懐かしいもののように思われた。
 真っ暗だった周囲が少し明るくなった。光の精霊がいるからだろうか。それによって相手の――リヴァの姿がくっきりと映し出されたのは言うまでもないだろう。
 そして俺は驚くしかなかった。そうすることしかできなかった。
 相手はいつもと変わりなく真っ黒な格好をしていた。でも、その黒がまるで生きているもののように静かに蠢(うごめ)いていた。これが相手の言う闇を操る力?
 さっきから感じていたざわめきの正体はこれだったんだな。相手がずっと黒い服を着ていた理由もこれなのか。確かに闇を操る力が色の『黒』と通じるものがあるのだとしたら、常に黒服を着ていたいと思う気持ちは当然のものなのかもしれない。
 だけど寒気がすることは否定できない。こんなものを体に纏(まと)って、相手はよくも平気な顔をしていられるものだな。
 ふと顔を上げると光の精霊の姿が目にとまった。そういえばこの人も体に光を纏っている。だけどオセは精霊だ、リヴァは精霊じゃない。精霊なら自らの司(つかさど)るものを周囲に漂わせていたとしても何らおかしくはないわけだ。それでも闇を纏っているということは、どんな理由があってもおかしなことだと思えた。
「ぼくはもう君たちの元へは帰れないね」
 再び口を開くと外人はもっとおかしなことを言っていた。体に闇を纏っていることよりももっとおかしなことを。
「どうして?」
 問うと相手はにこりと笑う。
「だって君は光じゃない。ぼくは闇だから、君の傍にはいられないよ」
「そんなこと――」
「そうだよね? 光の精霊様」
 相手の言葉により俺は顔をオセに向ける。オセは相変わらず厳しい表情を崩さずに状況を見ていた。今は口は重く閉ざされており、鋭い視線だけが闇に負けないほどぎらぎらと輝いていた。
 理屈は分かる。でもそれはわがままだ。俺が闇を怖がることも相手が俺から離れることも、全ては自分一人の勝手な意志でしかないのだから。
 静かになった空間の中で、光を放っている精霊は口を開く。
「確かにお主の言うことは間違ってはおらぬ。しかし主(あるじ)よ、わたくしが以前言ったことを忘れてはおらぬだろう」
 リヴァに話していた相手はこちらを見てきた。最初は何のことを言っていたのかよく分からなかったけど、徐々に記憶の中に相手の言葉が現れてくる。
 人には光と闇があるけれど、俺には光しか見えないと言ったオセ。それが意味するものばかり考えていた。だけどその言葉から読み取れるものは俺のことだけじゃない。
 人には、とオセは言った。光と闇があると言った。
「そっか」
 言葉は自然に漏れた。
「人には光と闇があるから、いくら闇を体に纏っていたとしてもリヴァ自身は闇ではないっていうことか」
「左様(さよう)」
 光の中でオセは頷く。厳しい表情が少し和らいだように見える。
「だそうだけど? リヴァ」
 外人はぼんやりとした顔をしていた。何を言っているのかよく分かっていないようだ。俺は以前オセに言われたからよく分かったけど、そうだよな、いきなりそんなこと言われたって分かるわけないよな。こういう辺りは俺は兵器なんだなって思ってしまう。人よりちょっと優れていて、それでいて何かに縛られ続けていて。
「なあ。別に俺はお前がいて嫌だなんて思わないから。確かに俺は光だけどリヴァだって光を持ってるじゃないか。人なんだから、光も闇も同じように持ってるものなんだよ」
 自分で言っておきながら俺は自分の言っていることの意味がよく分かっていなかった。光だとか闇だとかさ。抽象的すぎてそれが何を指しているのかと聞かれると答えられない自信がある。そんな自信があるってのもどうかと思うけど。
「……闇は嫌いじゃないの?」
 やや控え目に声が響く。
「嫌いっていうか、怖いんだと思う」
 正直に答えるとリヴァは俯いてしまった。何度も見せられた動作だったので違和感は感じない。なんだか今日はいつもと違うように思えたのだ。何が違うのかは知らない。だけど確かに何かが、違う。
 違う。
「主よ」
 いつもと違うのはオセも同じだった。今日はなんだかよく喋っている。そんなに無口な奴でもなかったけど、進んで話しかけてくるようなことは少なかったように思えるんだ。だっていつも機嫌が悪そうだから。
「あの者は呪われている」
「うん。知ってる」
 呪いかどうかは知らないけど何かを抱えていることは知っている。最近は大人しくしてたから何もなかったけど、以前はよくそれで困らされたものだった。
 オセの声はリヴァに届かなかったらしい。それとも口出しするのを拒んでいるのだろうか。俯いたまま何も言ってこなかった。
「おそらく呪いの原因はあの闇だろう。簡単なものだ。闇を取り除けばすぐにでも呪いは解けるだろう」
「呪いが解ける?」
 相手の顔を見上げると無表情の顔があった。いつもの顔だ。
「どうする?」
 遠くを見つめてオセは聞いてくる。
 しかし、どうすると言われても俺にはどうすることもできないじゃないか。どうして俺がリヴァのことを決められる権利を有するだろうか? いくら力石の魂を持っているといってもそれが相手にとって何になる? 俺は相手にとって何だというのか?
 俺は相手にとって――。
 そうだ。俺は相手にとってただの光でしかない。俺は光で相手は闇を持っている。だから相手は身を引こうとしている。だったら俺は? 俺は相手を何だと思っているのだろうか? 友達、仲間? それともただの闇?
 闇か。世界に存在する光と相対するもの。それが何だという?
 それがどうした。
「リヴァ」
 呼びかけても返事はなかった。代わりに顔を上げ、こちらを見てきた。
 視線が重なり合う。
「オセが言うにはその呪い、解けるんだってさ。だから、その。――どうする?」
「呪い? どうするって?」
「だから、解くのか解かないのかって聞いてるんだ」
 また静かになる。
 どうして悩む必要があるんだろう。俺だったらすぐにでも解いてもらいたいものなのに。いや相手には相手なりの理由があるのだろう。それは分かってる。分かってるけど、分かるだけで理解するまでには至らなかった。だって俺は相手ではないのだから。
 でも。それがどうした。
「この力は上官から貰ったもの。そう簡単に手放しちゃいけないんだ」
 呟きのような声は風に乗って運ばれてくる。俺もオセも口出ししなかった。何も言わなかった。だからなのかそうではないのか、相手は何事もなかったかのように続きを吐き出していく。
「ぼくは上官を忘れられない。ううん、忘れたくないって言った方がいいかな。だって上官は大人に見捨てられてしまったんだ。それでぼくまで彼を忘れてしまったら、上官は本当に全てに見捨てられてしまうから。そんなの悲しいでしょ? そんなの、君でも嫌だって思うでしょ?
 だからぼくは忘れないために喪に服す。常に黒服で、常に闇を纏って。そうすることが彼へのせめてもの――いや、彼に対してぼくができる唯一のことだから」
 何も間違ったことを言っているわけじゃない。だけど俺にはそれがどうしようもなく愚かなことのように思えた。
 だって。
「それがどうした?」
 ついに今まで抑えていた言葉が口から出てきてしまった。そうなるともう止まらないことを知っているというのに。
「お前はそう言うけどそれとこれとでは話が違うだろ。人のことを覚えていることも忘れることも、形にして置いておくべきものじゃないんだ。そりゃ、確かに……お前の言うことが間違ってるわけじゃない。形にして置いておきたいと思うのも、自分だけでも覚えておきたいと思うことも当然のことだ。だけどそれは本当に自分を犠牲にしてでも続けるべきことなのか? そうじゃないだろ? 自分を犠牲にしてまで続けることなんて、そんなもの、あってはいけないんだ。そうだよあってはいけないのに!」
 頭が混乱してきた。また一点しか見えなくなって馬鹿なことを口走ってはいないだろうか。誰か止める人がここにはいてくれるだろうか。オセは、光の精霊は俺を止めてくれるだろうか。
 自分を犠牲にすることはあってはいけないことなんだ。そう教えてくれたのはつい最近のこと。その時も一点だけを見つめて他のものが見えなくなっていた。自分や親しい者たちが救われるならそれでもいいと思っていたから。
「だから何が言いたいかって、それは」
「もういいよ」
 途中で口を挟んできた。そのおかげで行き場のなくなった言葉は口の中で消化し切れずに漂う。
「君はやっぱりお人好しだね」
 どうしてこんな時にそんなことを言ってくるんだろう。俺は何を言ったんだろう。相手は何を感じたのだろう。
「ちゃんと分かってたよ。このままじゃいけないってこと。でも本当に呪いが解けてしまったならぼくは上官のことを忘れてしまいそうで、怖かったんだ」
 そう、俺も怖かったんだ。怖い思いは何度も経験した。危機に不可解、裏切りに真実。それら全てに怖いという感情を抱いてきた。
 忘れられるのは怖い。でも忘れることも怖いことだ。消えるのは怖い。でも、現れることも怖いことだ。
 ……何を考えているんだ俺は?
「光の精霊様。お願いしてもよろしいでしょうか?」
 いつになく真面目な口調になるリヴァにオセは視線を投げかける。
「よいのか?」
 俺が言いたかった言葉をオセが先に言ってしまった。再び行き場がなくなってしまった言葉があふれる。
 このまま相手の呪いが解ければそれは俺の責任になるのだろうか。そして俺はその責任を生涯ずっと背負い続けることに堪えられるのであろうか。
 どうすることがよいことで、どうすることが悪いことなのかすら分からないのに、それでも人の運命を左右するようなことを言ってしまって、俺はこれでもお人好しと呼ばれるのか。一体この世の中の何がよいことで、何が悪いことか分からないのと同じように、何も教えてくれない兵器を恨むのではなく、自ら知ろうと努力しなければならないのだろうか。
「いいよ。だって」
 月が雲を避けるように輝きを増していく。
「だってこのままだと――」
 先の声は聞こえなかった。聞かれたくなかったのか、それともただ単に小さすぎただけなのか。
「承知した」
 一つ頷くとオセは光の中から本を取り出した。その光がどこから現れたのかはよく分からない。しかしオセが片手を上げると光が現れたのだ。
 本を開いてリヴァの前に立つ。そしてそれ以上のことは何も必要ないと言わんばかりに、聞いたことのない言葉を次々とつまることなく吐き出し始めた。
 ああ、これだ。違和感を感じたのはこれだった。
 いつもなら自分の邪魔をするなと言っていたオセが他人に協力するなんて。増してや自分の主人でもないただの他人なんかに。そうする理由というのはやはり相手が闇を持っているからなのだろうか。
 闇は嫌いだから消すのだろうか。いや、そうじゃなくて、光と闇は引き合うから闇を求めているのだろうか? 闇を手にすると光に近づくと考えているのか。そこまでしてどうして光にこだわるのだろう。
 ううん、光を求めている理由は知ってる。真っ暗の中に置き去りにされたら光を求めるのは当たり前だもんな。二度と光を感じられないって寂しいことだ。だからこそ余計に求めて止まなくなってしまうのだろう。
 真っ黒の中に現れた光から様々な色彩が彩られていく。以前に白黒の世界へ行こうとした時に見た光景が甦ってくるようだ。輪を描く青い光。赤い光。そして黄色い光。不思議な模様を記した輪がゆっくりと回転する。
 闇の中にぽつぽつと小さな白い光が浮き上がってきた。次第に一つ、二つと数を増していく。炎が揺らぐように光は縮んだり大きくなったりし、それらは一定の場所から動かずに静かに佇んでいた。
 小さな光に気を取られていると、様々な色彩を有した輪がなくなっていることに気がつかなかった。それに気づいた頃には輪は模様や色はそのままで、長くどこまでも続くような帯になってかすかな光を放出していた。
 地面の底から白く細かい光が急速に天に向かって昇っている。静かに佇む光には何も変化がなく、天に向かう光は数え切れないほど数を増していった。
「光は闇に。闇は光に」
 理解できない言葉に混じってオセの口から分かるものが出てきた。しかしそれは一度だけで、また分からない言葉が吐き出されていく。
 見える光景は幻想的だった。白黒の世界よりも、分からない魔法の力よりも、その他どんなものにも勝るほど深く輝き続けていた。まるで夢の中にいるようで、深く沈んだいろんな思いを全て優しく包み込んでくれるように思えた。
 空はどこまでも高く、光は天へ辿り着こうと勢いを落とさずに昇っていた。闇の中で輝く光は普段のものよりも煌きを増しており、その中に見えるものがどうしようもなく儚(はかな)くて、神秘的な側面の他に隠された意味を見出したような気がした。
「闇は光に。光は闇に。暗き深淵に終焉を。時の橋は誠へと続く。
 暗きものを絶ち切れ。輝きを忘れるな――」

 

 

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