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92 

 彼は静かに眠っていた。闇の中で光に包まれた後に意識を失ってしまったのだろう、地に倒れてそのまま起き上がってくることはなかった。
 さすがに俺の家に連れていくのはまずいと思ったのでジェラーを呼んで師匠の家まで運んでもらった。ラザーにはこんな真夜中にいい迷惑だと言われるかと思ったが、どういうわけか誰も文句を言わずにすぐに受け入れてくれたのであった。
 家に帰ってからぼんやりとそのことを考える。部屋の中で電気を消して、それでも眠る気にはなれなかった。そりゃそうだよな、あんなことがあった後ですんなり眠れるほど俺は丈夫にできてはいないのだから。欠陥品とか出来損ないとかは関係なしに、だけど。
 それでも眠気には勝てなかった。いつのまにか布団も被らずに眠ってしまったらしい。朝に目覚めると見慣れた部屋が光に照らされていた。
 あいつは何を思い、何を考え、何を正義として今まで生きていたのだろうか。
 そして俺は。
 何を思い、何を考え、何を正義としているのだろう。

 

 そういえば今日は土曜日だった。学校が休みだ。昨日あんなことがあったからそれだけで心が癒されるようだ。いいよな土曜が休みって制度は。本当に感謝するよ日本の教育委員会さん方。
 となればやることは決まってる。まずはあいつがどうなったか見に行ってやらないとな。これで俺だけがのんきに休みを堪能していたらそれこそあいつに失礼だから。こういうあたりがお人好しと呼ばれる原因なんだろうな、きっと。
 はあ。いいよもう。お人好しだって悪いわけじゃないんだから。
「ジェラー」
 呼びかけた相手は相変わらず俺の部屋の中で居場所を陣取っていた。この状況にもすっかり慣れつつあるがこのままじゃいけないのも分かってる。だけど今はそれをどうこう言っていい時じゃないからな。
「しばらくしたら呪文頼むな」
 それだけを言い残し、俺は姉貴と顔を合わせるべく下の階へ下りていった。

 

「あ、樹だ」
 師匠の家には居候のラザーとアレートがいた。声をかけてきたのはアレート。もっともラザーが声をかけるようなことはしないと予想はしていたけど。
「あいつ起きた?」
「うん。今は部屋の中にこもってるけど」
 こもってるって。なんか誤解を招きそうな表現だなそれって。
「じゃあ会いに行ってくるわ」
「分かった」
 短い会話を後に俺はリヴァのいるだろう部屋へ向かう。木造建築の木の匂いが朝の清々しさに混じって、なんとも言えない心地よさを形作っていた。
 とか言ってるけどこれってよく考えたら毎回味わってる感覚だよな。どうして今に限ってこんなにも意識しているんだろうか俺ってば。まあそんなことはどうでもいいんだけど。
 部屋に着くとあいつはちゃんとそこにいた。今まで部屋を訪れてみたら捜していた人物がいないという状況に何度も出くわしたので少し警戒していたのだが、今回は何の問題もなくその場にいてくれたのでいささかほっとする。というかこれが普通なんだよな。どこへでもうろうろする方がおかしいんだ……って断言することもできないんだけど。難しいなぁ。
 外人は椅子に座ってぼんやりと花瓶の花を眺めていた。なぜ部屋に花があるのかというとそれは師匠が置いていたから。あの人って結構お茶目なのかもしれない。あの顔には似合わないけど。あ、でも性格には似合ってるかも。
 なんてどうでもいいことを考えていたら相手と目が合った。よく見てみると顔色が良くなっているような気がする。前まで倒れたら真っ青だったもんな。やっぱり呪いを解いたからこうなったのだろうか。
「わざわざ来てくれるなんて、やっぱり君はお人好しだね」
「うるせーな。俺が巻いた種なんだから最後まで見届ける義務があるんだよ」
 態度は相変わらずだった。それによって少しほっとする。
 いつも通りならそれに越したことはない。でもいつも通りじゃなかったら、とどうしても考えてしまう。もちろん今ではその不安はきれいさっぱり消し飛んでしまったのだからいいんだけど。
「何か変化とかあるか?」
「闇の魔法が使えなくなっちゃったよ」
 いささか不満そうな顔を向けられてちょっとむっとする。
「仕方ないだろ。これがお前のためだって思ったんだから。それにあの高慢なオセだってお前のために力を使ってくれたんだ、少しは我慢しろよな」
「そっか。そうだよね。あの光の精霊様が力を貸してくれたんだからこれ以上の幸福はないものね」
 なんだかずれているような気がしたが納得してくれたのでよしとしよう。しかし本当に精霊が好きなんだなあ、こいつって。俺にはあのオセが好きになる理由なんて少しも予想できない。かといって嫌ってるわけじゃないけど。
 ただ苦手なだけだった。まるで自分中心のような物言いや振るまいが、自らの幸福だけを望んでいるような言動が俺には理解できないだけだった。それでも相手には相手なりの何か譲れないものがあって、それを必死になって抱え込み守っているということだけはよく分かる。だってあの人はそういう点ではとても分かりやすい人だから。あの人はそういう点ではとても強い人だから。
 ふと目をやるときらりと右腕の腕輪が光った。それが何を意味するか分からないほど学習能力がないわけではない。つまり。
 部屋中に光があふれて目をぐっと閉じる。眩しすぎて見ていられないんだ、仕方がないだろう。そして目を開くと案の定と言うべきなのだろう、召喚呪文も唱えていないのに勝手に出てきた精霊の姿があった。
 しかし俺の予想は少し外れた。
「あの、樹さん」
 出てくるのはさっきまで噂をしていたオセだと思っていた。だが今目の前にいるのは明らかに異なる人物。薄く光を纏ったあたりは同じだけど、オセとは似ても似つかない星の精霊が一人だけぽつんと佇んでいた。
「樹さん、どうか聞いてください」
 星の精霊、エミュはぽかんとした表情の外人を見事に無視して俺に言い寄ってくる。さて一体これはどうしたことか。
「聞いてください、世界が、世界が滅亡しようとしているんです!」
 ――はい?
 何を言うのかと思いきや。全く意味が分からないことをエミュは必死になって言ってきていた。
「あのさエミュ、ちょっと落ちついてくれよ」
「でもでも! 早くしないと大変なことになっちゃうんですよ! そんなのんきにおしゃべりしてる場合じゃないんですよ!」
 だから落ちつけっての。そうしてくれないと困るのは俺なんだから。
「リヴァ、どうにかしてくれよ」
「そんなことぼくに言われたって。精霊様の話を聞かせてもらえばいいんじゃないの?」
 ああ、助けを求めた相手が悪かったようだ。
 一瞬だけ意識が別の方向へ飛んでいきそうな気がしたがなんとか立て直し、再び必死になっているエミュと顔を向き合わせる。そういえば相手の顔をこんなに間近で見るのは初めてだな、なんて余計なことを考えつつも落ちつかせるように相手の肩に手を置いた。
「エミュ。お茶を入れてくれないか」
 これだけを発すると急に場はしんと静まり返った。
 エミュは慌てた様子がなくなり、ふっと静かになる。そればかりかぴたりと動作を止めて微動だにしなくなってしまった。俺は予想外の行動にちょっと驚いてしまって少しばかり後悔する。
「い……」
「ん? 何だって?」
「いいんですか樹さん! うわあ嬉しいです、お茶を入れてもいいだなんて! 最近皆さん冷たいんですよ、私がお茶を入れても誰も飲んでくれなくって! そんな時にあなたという人は、なんって優しい人なんでしょう!!」
 後悔なんかするんじゃなかった。と後から後悔してしまう。変な話だがそう言う他に今の俺の心情を的確に表すことができる表現はないのだ。
 エミュはさっきより落ちつきがなくなってしまった。俺の作戦は大失敗。こんなことなら何も言わない方がよかったよ、まったく。

 

「世界は崩壊しようとしています」
 とりあえず落ちついてくれたエミュは静かに俺とリヴァに向かって話を始めた。
「この世界のどこかに何か世界の危機となるものが現れました。このままだとこの世界は確実に崩壊します。いいえこの世界だけじゃない、他の全ての世界も崩壊してしまいそうなのです!」
「だから、落ちつけって」
 エミュはお茶の入ったコップを片手に力説してきた。最近この人と話をしたことがなかったから忘れてたけど、そうだよエミュってなんだか知らないがかなり感情を込めて話をしてくるんだよな。だから落ちつけと言っても少しのあいだしか落ちついてくれないのだ。
 だけどその話の内容が今回はとんでもないもののような気がするのもまた事実。
「世界が滅亡だの崩壊だのって、一体どういうことなんですか? それに世界の危機となるものって?」
 俺の隣で静かになっていた外人が口を挟んでくる。俺も疑問に思い聞きたかったことだったのでわざわざ台詞を止めるような真似はしなかった。
「それは、詳しくは分かりません。ですが樹さんがあの世界――つまりアユラツへ行って帰ってきてから世界の空気の様子が変なんですよ。何かに怯えたようにびりびりしていて、それがまっすぐ私の元に伝わってきて。オセも言っていました、何か巨大な魔力を感じると。
 それで少し様子を見ていたのですが私は世界の核から声を聞いたんです。核は言いました、誰かがこの世界全てを滅ぼそうとしていると。そしてその力は今まで封印されていたものだけどつい最近になって解放されたものなんだと。私は思いました、もしかしてそれはアユラツで封印されていた力石と黒いガラスのことではないのかと」
 静かに語る様は強い意思を宿した精霊のようには見えない。それでもエミュは必死になってこの事実を俺に知らせようとしていたことだけはよく分かった。
 世界の滅亡や世界の核。俺の知らないものはまだまだたくさんあるらしい。それでも分かるのは、今目の前で一人の女の子が俺たちに何かを伝えようとしているということだ。
「世界の核から話を聞いた後、他の精霊たちにもこのことを話しました。世界の滅亡を止めるにはどうすればいいか話し合いました。オセは言いました、確かにこの強い魔力の源は力石と黒いガラスに通じるものがあると。そしてそれを制御するにはカイという人の協力があればどうにかできるかもしれないと言いました。しかしカイという人は今どこにいるか分からなくて、それならばまず樹さんたちに話をした方がいいのではないかと私は提案しました。
 ですが、世界の危機の力はすでに巨大なものになっていました。他の皆も石の外に出ようとしたのですが出られなくなっていたのです。外に出られるのは元から強い魔力を持っていた私とオセだけ。他の皆は精霊としての力を失いつつあるんです」
 相手の言葉を聞き、俺は胸を剣で貫かれたように苦しくなった。精霊たちがそんな状況になっているなんて少しも気づかなかった。それでも力を貸してくれたオセは、一体どんな気持ちであの場所に立っていたのだろう。
 後悔しても遅い。分かってる。それでもやるせなかった。俺はまた馬鹿な行為をしてしまったのだから。
「エミュ、俺はどうすればいい? 俺にできることはあるのか? 兵器の力が必要なのか? 何をすれば、何をすれば皆を助けられる?」
 知らず知らずのうちに俺の手は、兵器として与えられた強い力で相手の肩を掴んでいた。それでも少しも同じない星の精霊は静かに俺の目を見つめ、いくらか落ちついた様子で再び口を開く。
「私たちが必要としているのはあなたの兵器としての力ではありません。私たちが必要としているのは、今どこにいるか分からないカイという人の力なのです。
 樹さん。あなたにはカイという人を捜す手伝いをしていただきたいのです。私たちの主であるあなたにお願いをするというのは恐縮なことなのですが、私たちだけじゃなく、世界のためだと思ってやっていただけないでしょうか――」
 俺の中にその申し出を断る理由はなかった。

 

「カイ……か」
 机を挟んだ先の相手は目を閉じて難しい顔をしながら唸る。
 俺はラザーとアレート、それにジェラーにもこのことを伝えた。ロスリュにも伝えようと思ったが、どういうわけか家の中のどこを捜しても姿が見えなかったので先に三人に話してしまったのだ。エミュは俺の隣に座り、話を聞いていなかった三人はちょうど向かい合うようにして座っている。
 難しい顔をしているのはラザーラスだった。この中で最も世界のことをよく知っている人物である。もっともここに師匠がいたらそうではなくなるのだけど。そういえばあの人は今頃どこで何をしているのだろうか。
「少なくとも俺は知らねえな、そんな奴は」
「そっか」
 知らなくても相手を責めることはできない。でも今は相手の無知が、経験が、顔の狭さが嫌だと思った。
 切羽詰まったように頭の中が混乱してくる。どうにかしなければならない。どうにかしなければ世界が滅ぶ。世界が滅んだら何もかもなくなってしまうんだ、何も知らずに滅んでしまう人々だって大勢出てきてしまう。そんなことには絶対にならないで欲しかった。でも、どうすればいいんだ。どうすれば世界が滅ばずにすむんだ? そもそもエミュの言うことは真実性に欠けているじゃないか。こんな何の根拠もない話をいきなり持ってきて、それで誰だか知らない人を捜せと言ってきたりなんかして一体俺にどうしろと言っているんだよ? 俺は相手の話を信じるのか? 俺は相手をどうして信じなければならないのか? 俺はどうして人を信じられるのか? 俺はどうして何かを信じるという行為をしているのだろうか? 俺はどうして何かを考えているのだ。俺はどうして、どうして。
 どうして。
 どうしていつも俺は他人のことを気にかけて、いつも他人のために力を貸すことができたのだろうか。その中で見つけたものが自分のためのものであってもそれに気づかないふりをしていたのはなぜだったのだろうか。そして切羽詰った今となってからどうしてこんなことを考え始めたのだろうか。
『なぜ、どうして。そんな言葉だけでお前は全てを質問できるというのか』
 そうだ。その通りだ。俺はとんでもなく浅はかな物質だ。俺はとんでもなく軽率な愚か者だ。
 急がなければならない。急がなければとんでもないことになってしまう。その事実を受け止めてしまえば俺は堪えられなくなるから、きっと目をそらしてしまうだろうから。だから俺は認めたくないのだろう。認めてしまえばどうしていいか分からなくなるから。認めてしまえば全てが俺一人の責任として重くのしかかってくるように思えてしまうから。
 それだけのことを分かっていて尚も頭の中でいろんな思いが交差するのは一体どうして?
 気分が悪くなってくる。なんでもないのに頭がくらくらしてきた。吐き気がする。胸がむかむかしてどうしようもない。
 俺は静かに立ち上がり、家の外へ出ていった。誰も俺を止めるようなことはしなかった。それぞれ何か思うことがあったのだろう、気づいていない者すら何名かいた。
 だけどそれでよかった。そうしてくれる方が今の俺にとっては何よりも嬉しかったから。

 

 俺は無力な子供だ。
 何の力もない子供。人から頼まれごとをされても、役割を与えられても、何もできずに終わってしまう小さな子供だ。
 だから兵器としては欠陥品になったのだし、いつになっても強くも賢くもならない魂なんだろうな。
 なんで?
 なんで俺はこんなにも駄目なの?
 知らないことを知ることで、真実を受け止めることで、少しは強くなれたと思ったのに。
 それもまた、ただの偽りだったとでもいうの?
 やっと静かになったと思ったら、世界は崩壊すると知らされて。
 信じていた行為を振り返ってみれば、それは世界の危機を作っていたと知って。
 挙句の果てには人に疑いの眼差しを向けた。今まで力を貸してくれていたのに。今までずっと傍で見守ってくれていたというのに!
 子供。子供!
 馬鹿な子供!
 スーリ。あんたの言うことは正しかったよ。
 シン。あんたの言うことも、正しかったよ。
 そして。
「また土足で入ってきたのか」
 視界に映るのは深い藍色。

 

 真っ暗闇だった。少しの光もない闇の中で俺はさ迷っていた。
 途方に暮れて、光を探し続けていた。俺と同じ、いや俺自身である光を探し続けていた。
 しかしここはどこへ行っても光はなかった。まるでたくさんある窓を全て閉じてしまったように一筋の光すら見えない。
 すぐに分かった。ここは精神の世界なのだと。
「そうやって君は、いつでも何でも、俺が弱くなると土足で入り込んでくるんだな」
 俺は相手のことを君と呼んでいたことに気づかなかった。気づいたのは言ってしまった後だった。
「束縛された兵器には光は必要ないんだってさ。だからこんなに真っ暗なんだ。何の力もない子供は用済みなんだってさ。だから誰も、俺に言葉を与えないんだ」
 藍色の髪の少年は首を横に振った。否定している。
 何を。
 何を否定する。
「なんでとか。どうしてとか。俺は子供だったから、分からないことは誰かに聞けば教えてくれると思っていた」
 少年はまた首を横に振る。
 なぜ否定する。
 なぜ。
「だけど聞かせて。君はなぜ、それでも生きているの?」
 どこか遠くの方で鐘の鳴る音が聞こえた。
「そして聞かせて。俺はなぜ、これでも生きているの?」
 少年は首を横に振った。
 どうして。
 どうして何も答えてくれない。
 どうして光を見せてくれない。
 光を――。
「え?」
 光を見せて、くれない?
 見せてくれないって、どういうこと?
 ここは。
 そっか。ここは。
 ここは、俺の精神の世界じゃなかったんだ。

 分かった途端、涙があふれた。だけどそれは下に零れることはなかった。
 悲しくなった。だってこんなにも真っ暗なんだもの。
 悲しくて仕方がなかった。だって一筋の光すら見えないんだもの。
 それでも俺がここで泣いて、相手を心配させてしまうのは、もっと悲しいことだと知っていた。
 だから必死になって我慢した。我慢して、無理に笑ってみせた。
 そしたら気づいた。笑うことって難しいことだったんだな。泣くことも、怒ることも、難しいことだったんだな。
 喜怒哀楽より我慢することの方が簡単だったんだな。
 君はずっとこんな暗闇に閉じこもっていたんだな。そしてずっと我慢していたんだな。自分を狭い部屋の中に閉じ込めて、たくさんある窓を全て閉めてしまって。
 だけどあの鐘は君の中に残っている。
 俺は覚えてる。あの鐘の音(ね)。世界中に響き渡っていた、深くて尊大で希望に満ちていた大きな音。
 あの鐘は君の心にも響き渡っていたんだ。あの音は君の中にも届いていたんだ。
 悲しかった? そうだよな。
 辛かった? そうだよな。
 だけど我慢してたんだ。悲しいことも辛いことも、全部なかったことにしようとしていたんだな。
「我慢しなくてもいいんじゃないのかな」
 闇の中に閉じこもってばかりいちゃいけないから。
「泣いてもいいんじゃ、ないのかな」
 一筋だけでもいい。光を持ってほしかった。
 もし自分だけの力で出られないなら、俺が喜んで力を貸そう。かつてあの人が俺を助けてくれたように、今度は俺が君を助けてあげよう。
 そうするのは嫌なことだと感じる?
「違う」
 声は俺に届いた。
「出たいと望まないわけじゃない」
 声は静かに響いた。
「だけどこれは君には破れない。これは君なんかに破られるほど薄いものじゃない」
 藍色の瞳は限りのない闇を見つめている。
「これは昔から定められたものでね。僕が知らないあいだに作られた壁でね。……誰が何をしても壊れないものなんだ。君のような光の塊に出会っても少しも動じないものなんだよ」
 自分の中に自分で理解できないものがある。それって辛いこと?
 知らないあいだに作られた壊れない壁が邪魔をする。それって悲しいこと?
「うん。辛いよ。悲しいよ。だけど僕はそれを表現するすべを知らないから」
 相手の声は普段通りだった。相手の表情も普段通りだった。
 俺は、俺にはどうしようもないことだった。俺は相手のことを理解したつもりでいたのかもしれない。相手の何もかもを分かってやって、それで相手を救おうと必死になっていたのかもしれない。だけどそうではなかった。俺はただ、勝手に自分一人だけの頭の中で相手と会話をして、それでも理解できないものがあるという事を知らなくて、本当は何も分かっていなかったんだ。
 この思いをどうすればいい。誰かに伝えるべき? それとも自分の中に閉じ込めておくべきなのだろうか。
「世界が崩壊するって話だけど」
 暗闇の中から聞こえてきたのは、最も聞きたくなかった話題だった。
「君にもできることがあるはずだよ」
 それでも今は相手の言葉が俺を救ってくれたように思えたのはなぜだろう。
「僕は君の中の勇気と正義が何なのか、見届けさせてもらうことにするよ」
 それだけを言うと視界が急に明るくなった。精神の世界から抜け出したのだ。目の中に映るのは、みずみずしい緑の草原。

 この思いは胸にしまっておこう。
 今回の件で分かったことがある。俺は相手のことを何一つ理解していなかったということ。そして相手は俺が思っていたほど冷淡な人間じゃなかったということ。
 嫌っていたわけじゃない。むしろ好んで傍にとどめていたのかもしれない。便利だからとか、強いからだとか、そういう理由からではなくて。
 今では昔のことが全て色あせてしまったように思えて鮮明に思い出せなくなっているけど、それでも俺は世界が崩壊することだけはどうしても嫌だった。
 俺なんかにできることなどないと思っていたけど、あいつは俺にもできることがあると言っていた。それが何なのかは知らない。それでも切羽詰まって頭が混乱しそうだった俺にとっては嬉しいことだった。
 だって、俺のせいで世界が崩壊するんだ。こんなことに人は堪えられるだろうか? 自分一人のせいで全てがなくなってしまうんだぞ? 自分が今生きているこの場所も、別の次元の場所も、そして全ての生命も。もちろん自分自身だって。後に残るものがはたして存在すると予想できるだろうか?
 しかしそう考えると一つの疑問がふと浮かんでくる。
 一体何が世界を崩壊させるのだろうか? もしかしたら誰かの思惑なのかもしれない。そしてあの世界と関わっていた者。あの世界と――。
 静かに目を閉じる。暗闇の中でも光が見えた気がした。大丈夫、まだ落ちついていられる。今ならきっと受け止められるだろう。

 

 なあ。
 そんなに、世界が嫌いなの?

 

 しかし疑問に答えてくれる者は誰もいなかった。

 

 

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