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『もうどうなってもいい?』
 いつか聞いた言葉が反響する。
『あなたはこの世界が嫌いなの?』
 違う。そうじゃない。
 何をすれば人は救われるのか。
 何をすれば人は光を浴びるのか?
 答えは誰が持っている?
 そして俺は何を待っている?
 目覚める。
 何が?
 そしてどうなる?
 目覚めてどうなる?

 

第四章 覚醒

 

93 

 静かな空気が流れる中、俺は一人でぼんやりと机に向かって座っていた。
 周囲には誰もいない。あれほどくっついていたジェラーも今ではすっかり元に戻り、いつものように自分勝手な行動をしている。まあ俺としてはこれがあいつらしくて嬉しかったりもするんだけど。
 正直言って暇。暇すぎる。そもそも俺がここにいる理由が納得できない。
 ここは師匠の家だった。まだこの家の持ち主は見つかっていないのだが、さすがに留守にするのはまずいだろうからとラザーが俺を無理矢理ここに連れてきたのだ。そして何か言う暇もなく留守番を任された。だから納得いかない。なぜ俺が他人の家で留守を守らなければならないのだ。
「はぁあ。ったく師匠本当にどこ行ったんだよ」
 一人で文句を呟いてそれで何かが変わるわけでもなく。相変わらず静かな空間の中で俺の発する音が妙に大きく響いていた。
 本当ならこんなにのんきに留守番をしている場合ではないのだ。俺だって忘れたわけじゃない。世界の滅亡のことや俺の故郷の世界のこと。エミュの言っていた通り、俺はカイという人を捜さなければならないのだから。
 しかし身動きが取れない。身動きが取れなくては何もできないわけで。俺にもできることがあるって言ってくれたのに何もできないのだ。本当にもう、あいつらって自分勝手だよなあ。
 なんて、俺にそんなことを言う資格なんてないか。俺だって充分自分勝手だったのだから。他人のためだと言っておきながら実はそれは自分のためだったり、自分を守りたいが故に他人を知らないあいだに傷つけていたりして。それに気づかずに暮らしていたあの頃は本当に自分勝手だった。では今はどうなのかと聞かれると、うまく答えることはできないのだけど。
「しかしまあ、なんでこんなに落ちついていられるんだろうか」
 ぼんやりと木造建築の天井を見上げる。窓から差し込む光が温かい空間を作っていた。もうすぐ日が暮れるのだろうか、光は明るいオレンジ色に染まっていた。それがとんでもなく綺麗だったのでしばらく見入ってしまう。
 今はただ、ぼんやりとしていたかった。なんだか最近はずっと切羽詰まってたようで、何かに背中を押されてばかりで、気持ちに落ちつきがないまま過ごしていたような気がするのだ。
 こんなにゆっくりできるなんて珍しいことだから。今だけでも休ませてもらいたいって思った。
 椅子にもたれかかって静かに目を閉じる。

 

『ねえ』
 ――澄んだ声。
『僕らは何をすればいいのかな』
 霞みの中にうっすらと姿が浮かび上がってくる。
 目に入ったのは見たことがない空色。
『どうしてそんなことを聞く?』
 もう一つ、深い藍色のような色彩。
 これは。
『だって僕らには居場所がない。居場所がないってことは、存在してはいけないってことでしょ』
 これは何だろうか。誰かの記憶? だとしたら一体誰の?
 次第に姿がはっきりとしてくる。
『居場所がないわけじゃない。居場所を奪ってしまったんだよ、我々の仲間が』
 よく考えてみると聞き覚えのある声だった。一つは俺の故郷で聞いた本の中での声。だけどもう一つは……どうしても思い出せない。
 これは彼の記憶?
 だけど、どうしてこんな時に、こんな場所で。
『あなたは彼らとは違う』
 思い出せない声は言う。
 そこに見えたのはかつて見たことがある俺の親の姿。以前見たものより遥かに若い。髪は藍色と言うよりも青と言った方がいいだろうか。
『だけど俺も間違いなく彼らのうちの一人だ』
 そしてもう一人。短い空色の髪を持った少年がいた。
『そんなことはない』
『そんなことあるって』
『だって!』
 姿は明らかに知らないものだった。だけどどうしてだろう、俺はこの少年を見たことがあるような気がした。どこで見たのかとか誰なのかは分からない。でも確かに俺の中にある記憶の片隅に、彼のことを知っているものがあるはずなんだ。
『だってあなたは僕を――僕らを助けてくれたのに』
 少年は瞳まで空色をしていた。
『うん。そうだ。俺は君たちを助けたね』
『だからこそ――』
『だけどね、考え方が違うからといって変えられるものなんてたかが知れてるんだ。そしてこれはどう足掻こうとも変わらないんだ。どんなに否定しても変えられないんだ。俺は人だし、君は一族。どこまで行こうとも変わることはないものだ』
 視界が霞んでいく。
『じゃあ、どうしてあなたは人で僕は一族なの』
『それは分からないことだ。でも人でも一族でも、どっちでもいいと思うけどなあ』
『どうしてそう思うの』
『さっきからどうしてばかりだな。まあいいや。……人でも一族でも命の尊さは同じだからだよ』
『どうして命は尊いの?』
 空色が霞んで本物の空みたいに見えてくる。
『おかしなことを聞くなあ。生きているものにとって、命より大切なものはないって思わないのか? 俺はそう思うんだ。だって命がなくなったらもう何もできなくなってしまうんだから』
『……だったらどうして人は!』
『うん。それはおかしなことだ。本当なら互いに支え合って生きていかなければならないのにね。俺はそれが納得できなくて』
『そうじゃない、僕が言いたいことは、どうして人はあなたを見捨てたのかって思って――』
 見捨てた。
 別の意味で視界が歪んでいく。
『あなたの言う通り全ての命が同じ尊さを持っているのなら、どうして人は僕らを虐げたり、同じ人であるあなたを遠ざけたりするんだろう。僕らもあなたも同じように彼らの妨げになるようなことをしていないはずなのに。僕らと彼らは全く別のもの、僕らと彼らは違うものだ』
『ああ、確かにその通りだよ。だけど人も君たちも同じように頭でものを考えることができる。そして同じように何かを望んでいる。望みとは言い換えると欲と同じだ。君も何かを欲しているだろう? そういうことなんだよ』
『あなたは――あなたの言うことは綺麗事ばかりだ』
『そうだね。でも、世の中綺麗事を言わないとやっていけないこともあるんだよ』
 誰かの記憶は遠ざかり、それはやがて霧のように消えてしまった。
 後に残ったこの気持ちは何だろう。

 

 人が、大勢の人が俺の隣を通り過ぎていく。
 よくある表現では砂のように感じると言うのだろうけど、今は砂ではなく影のように感じられた。
 何かよく分からない黒いものが通り過ぎていく。その真ん中で俺は何もできずに立ちつくしている。どうしていいのかも分からない。
 これもまた誰かの記憶なのだろうか。そしてこの誰かはこんな目で世の中を見ていたのだろうか。こんなまるで、人なんて影の一部に過ぎないと言わんばかりの目で。
『僕は一族の中でも異端者だ』
 ふと響いてきたのはさっきの少年の声。相変わらず澄んだ声色をしている。
『一族の中でもこんな容姿の者は誰もいないのだから。こんな水色の髪を持ってるのは僕だけなんだから』
 大勢の人の群れは止まることを知らないかのように隣をすり抜けては消えていく。彼らがどこへ向かっているかなんて誰も知らないだろう。
『同じでなければ、全て同じにしなければ一族は滅んだことになってしまうんだ』
 影のような人の群れの中から一人だけ違う姿に見えた者が出てくる。その人は俺の前まで来るとぴたりと足を止め、じっとこちらを見てきた。
「ねえ……」
 見据えるのは空色の瞳。

 

 目を開くと見慣れた天井が映っていた。
 頭がぼんやりする。足下がふわふわしているようで、朝に目が覚めた時のようにぼんやりとしていた。
 さっきのは夢だったんだろうか。俺はあのまま眠ってしまったとでも言うのだろうか。それにしては不思議すぎるような気もするけど。
 いや、別に不思議なことではないのかもしれない。俺はあの人に作られたものなんだから、あの人の記憶が俺の中に植えつけられていたとしても何もおかしくはないわけだ。だけどそうする意味が分からない。どうして彼はそんなことをする必要があったのか。
 なんて悩んでも仕方がないか。ちょっと外の空気を吸ってこよう。
 床の上に足を下ろすとなんだか安心できた。俺はここにちゃんといる。ここにちゃんと存在する。今はそれがとんでもなくすばらしいことのように思えた。
 木造のドアを開けると光が差し込んできた。その眩しさが目に染みる。とても温かくて明るいオレンジ色をしていた。とんでもなく綺麗な光景だった。
 夕日が山に隠れようとしている。まるで日本の景色だな、と思うとちょっと可笑しかった。ここはアメリカであるはずなのにどうしても日本だとしか思えなかったのだ。どこにいても世界は同じなんだなと改めて感じたような気がした。
 本当に綺麗な空。青く澄んでいるものもいいけど、こんなオレンジ色の空も負けないくらい綺麗だよな。
 そういえばさっきの夢の中の少年、空みたいな奴だったな。空色の瞳と髪に澄んだような声。あの少年が本当に彼らの言う『少年』なのだとしたら、どうしてあんなことを――。
「こんにちは」
 ――誰だ?
 声をかけられた途端、何かに怯えているかのようにびくっとした。自分でもどうしてそんなに怯えているのか全く分からなかったのは言うまでもないだろう。
 声は隣から聞こえた。そちらに目をやると、何もおかしなことはない、声の主は普段通りの表情で立っていた。
 夕日に混じるのは輝かしい金色。
「なんだかお久しぶりですね、樹さん」
「そう、かな」
 相手は自分のことを武器商人だと名乗っていたラスだった。なんだかいつも以上に輝かしい笑顔を見せている。何がそんなに嬉しいんだろう。
 俺には何も嬉しいことはないのに。
「どうしたんですか? またそんなにしょげちゃって。よし分かりました、あなたにいい物を差し上げましょう」
 しょげる、って。俺はそんな顔をしていたのだろうか。
 でもなんだか元気がないのは当たっていた。さっき変な夢を見たせいだろう。それがあの人の記憶のようなものだったから余計に気になるんだ。あんな夢を見て気にならない方がおかしいって。
「手を出してください」
「ん?」
 目の前に立った少年は口元を微笑ませている。いつも笑ってるよな、ラスって。真面目な顔なんてあまり見たことがない。
「こう?」
 言われた通り右手を前に差し出した。夕日を浴びてはめられていた腕輪がきらりと光ったように見えた。
 ラスは俺の手に自分の手を重ねた。何かを俺の手の上に置かれるのを感じる。商人は一度にこりと笑うと、さっと手を引っ込めて手の上が見えるようにしてくれた。
 だけど俺は、相手の優しさが崩れてしまったように感じられた。
「これは」
 心臓の鼓動が高鳴る。
 信じられなかった。にわかには信じられない光景だった。
「どうしてこれを?」
 俺の手の上に置かれた物とは俺自身と言ってもよい物。つまり、力石の欠片だった。
 しかし俺の驚愕にも気がついていないのか、ラスはいたって落ちついてにこにこしながら説明してくれた。
「ちょっと前にね、アユラツの世界でアレートさんに会ったんですよ。アレートさんはなんだか知らないけどこれを集めてたんです。それでとっても綺麗な石ころだったから、ちょっとだけ頂いてきちゃったんですよ」
 目を細めて、笑顔で。
「ね、ちょっと、これで夕日を見てみてください」
 俺の手の上から力石の欠片を取り上げる。そしてそれを通して沈んでいる夕日を見ているようだった。
 すぐにまた俺の前に持ってくる。相手の言う通りそれを手に持ち、オレンジ色の夕日がすっぽりと入ってしまうように持ち上げた。
「どうです? 綺麗でしょ」
「……うん」
 鮮やかな色彩も、温かい光も、この石ころの欠片を通して見ると何倍も綺麗なもののように見えた。これに勝るものはないと思えるほど綺麗だったので、大好きだったものが俺の中で次々と崩壊していくように思われた。
 温かい光も冷たくって、オレンジ色も歪んでいるようで。わけもなく視界が滲(にじ)んで見えた。
「それじゃ僕はこれで帰りますね」
 相手の声を聞いてまたびくりとした。そしてどうしてこんなに怯えているのかわけが分かった。
 なぜなら、相手は空色の瞳をしていたから。

 

 

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