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「やっと分かった」
 空色の瞳がオレンジ色に染まっている。
「というところですかね?」
 相手の表情に、微笑みはなくなっていた。
 金色の髪は夕日に照らされてきらきらと光っている。とてつもなく綺麗だった。綺麗だけどどこかおかしいように見えた。何がどうおかしいのかなんて分からないけど、とにかく何か変なものが混じっているかのようにおかしく感じられたのだ。
「何が分かったって?」
 声を出してみると自分でも驚くほど震えていることに気づく。
 怖くて相手の目を見ることができなくなりそうだ。こんな時こそ目をそらさずに見ていなければならないというのに。
「僕がすばらしい人だということですよ」
 ――はい?
 あまりにも予想していたものと違う答えに、しばらく理解できずにぽかんとしてしまった。

 

「僕はね、あなたが知っているほど役立たずじゃないんですよ」
 遠くに沈んでいる夕日を見つめながらラスは俺に話しかけてくる。そして俺はそれを何も言わずに聞いていることしかできなかった。
 彼は一体何を言おうとして――いや、何を伝えようとしているのだろうか。
「これでも武器商人ですからね。各地の情報ならお任せあれ! ですよ。それに、子供だからいろいろと許されることがあって便利ですよねえ」
 いや、そんなこと言われても。
 相手はなんだか普段より妙な雰囲気を持っていた。
「綺麗ですか?」
 そうかと思えばわけの分からないことを聞いてきたり。
 相手は一体何について聞いてきているのかまるで分からなかった。そんな急に綺麗かどうかと聞かれても答えられるはずがない。俺は文句を言ってやろうと思ったけど、どういうわけか、思ったように口が動かずに声も外に出てこなかった。
 でも確かに、相手の金色の髪は夕日に照らされて綺麗だった。
「綺麗ですよね、この景色――」
 違っていた。
 ラスは景色のことを言っていたらしい。考えてみれば当然のことだよな。こんなに綺麗な景色を無視して自分の自慢をするなんてありえないことだ。いくらなんでもそんなことをする奴なんていないだろう。……というわけでもないか。世の中にはいろんな人がいるもんな。
「どうして人はこの美しさから目をそらすのだろう」
 オレンジ色に染まった夕日を見つめながら、ラスは呟くようにぽつりと漏らす。
「どうして人はこの美しさに気づかずに目を閉じてしまうのだろう」
 ゆったりとした時間が流れているように思えた。だけど本当にそんな時間が流れているわけではなかった。
「あなたはどう思います? この景色を見て。あなたもまた目をそらしますか? あの愚かな人間たちと同じように」
 何だ。何なんだこれは?
 流れるような静けさがゆっくりと崩れていることにようやく気づいた。
 だけど、一体何がそうさせている?
「ねえ樹さん。僕はね、人はどうしようもなく馬鹿な生き物だと思うのです。だって彼らは自らの欲望のままに生きている。それによって破壊されているものにも気づかずに、いやわざと目をそらして気づかないふりをしているのだから。
 あなたはこの景色を綺麗だと言った。僕もそう言います。本当に綺麗だ。だけどね、もしここにも人の手が加えられればこの美しさは跡形もなく消え去ってしまうのですよ。あなたにはそれが我慢できますか?
 この景色だけじゃない、人はやがて全てを破壊してしまうでしょう。それを引き起こしているのは自分たちなのに、彼らは破壊を続けて止めようとしない。分かっているのに続ける。分かっているのに、どうして? 答えは簡単ですよ、なぜなら彼らは欲を持っているからです」
 夕日を見つめる瞳の中に静かな光が燃えている。
「人は欲望など持つべきではなかった」
 相手の言葉は妙に思えるほど透き通っていた。
「そのために滅ぶなら、最初から何も無かった方が良かったんだ」
 言っていることの意味は、分からなくはない。
 分からなくはないから怖いんだ。
「ねえ! あなたはどう思いますか?」
 相手は振り返り、こちらを見てきた。
「あなたもまたこれを守ろうと考えますか?」
 俺は、俺は。
「それとも彼らと同じように知っていて目をそらしますか?」
 俺は何も答えられなかった。
 自然と視線が下へと落ちていき、地面に生えているオレンジ色に染まった草を見つめることしかできなかった。どうして言葉が出てこないのかとか、なぜ何も言えなくなってしまったのかということは、本当は心の底では分かっているのかもしれない。それでも何も言えないでいる自分が確かにここにいた。
「どうして何も言ってくれないんですか? なぜ黙り込んでしまうのです!」
 俺はもう気づいてしまった。俺はすっかり分かってしまった。
 相手は俺の肩を掴んで揺さぶってくる。
「あなたはやはり事実から逃げるのですか!」
 声は怒っているようには聞こえなかった。むしろ叫んでいるように聞こえてならなかった。
「……本当に帰ってしまいますよ? 僕はあなたが気づいたと思ったからここに残ったんですから。あなたが何も望まないようなら、僕は何もする気が起きないのです」
 分かってしまったこと。それは。
「ラス」
 声を出して相手の名前を呼んでみる。そうするとだんだんと心が安定してきた。
 少し間を置いてから静かに尋ねる。
「君は何者なんだ?」
 正直に言った。そうすることで俺の気持ちが相手に伝わってくれるならそれでいいと思った。今はそれだけでいいとも思った。これ以上に望むものは何もないから。
 いや、本当はもっともっと望むものはある。だけど今はそれはただのわがままだから。
「何……者? ですって?」
 空色の瞳が俺の視線の中に映る。それは夕日のオレンジに染められてもまだ空色を保っていた。
 まっすぐ相手の目を見つめてみる。
 ラスは一瞬だけ表情を歪ませた。その中には疑いとか悲しみとか、負の感情が宿っているように見えたけど本当に一瞬だけだったので実際には何も分からなかった。
 次に作られた仮面は微笑み。
「商人ですよ」
 納得いかなかった。
「それだけじゃないだろ」
「ええ。それだけじゃありません」
 そしてその微笑みの中には怒気が含まれていた。
「異端者です」
 怒気は表に出ることはなかったけど彼の影に静かに潜んでいた。さらに怒気の後ろには何か狂気のようなものが漂っているような気がした。
「水色の髪に水色の目。こんな容姿の者は誰もいなかったのです。だから異端でした。でもあの人たちはそれでも僕を仲間として迎え入れてくれたのですよ」
「あの人たちって?」
「分かってるくせに」
 微笑みはもはや微笑みではなくなっていた。
 急にラスは声を上げて笑い出した。ものすごく可笑しそうに笑っていた。彼の周りの空気がびりびりと振動しているようだった。それは俺の元へ届くことはなかったけど、それでも狂気じみた声だけは頭の奥底まで響いていった。
「それとも何です? 一から説明しないと分からないとでも言うのですか? あなたはそこまで馬鹿じゃないと思っていたけど、本当にそんな馬鹿だったのですか?」
 相手に馬鹿と言われても反発する気分にはなれなかった。むっとしなかったわけではない。否定したくないわけでもない。だけどそれよりももっと大きく感じるものがあったから、それが邪魔をして俺の言動を全て止めてしまっていたのだ。
 だって、だって分からなかったんだもの。信じたくなかったんだもの。彼があの『少年』だったなんて。ラスがあの世界を滅ぼそうとしていた一族の少年だったなんて!
「悲惨な生活をしている者もいれば、裕福すぎて困ると笑っている者もいる。他人のことを気にしてばかりの者もいれば、人のことなどお構いなしに自分のやりたいことをやっている者もいる。なにも否定しているわけではありません。だって人ですものね、欲望の塊ですものね! 彼らが何をしていようと僕らには関係のないことですよ。でもね、許せないことだってあるんです。いくら頭がよくても世界の全てを支配してしまうのはおかしなことです。あなただって分かるんじゃないですか? だってあなたもそんな思想の中から作られたものですものね! 僕は、そう、そんなあなただからこそ注目したのですよ、樹さん。あなたのお兄さんのスーリさんやシンさんはどうでもよかったのです。でもあなただけは違っている。あなたは彼らとは明らかに違うものを持っているのだから!」
 それだけを一気に吐き出すとラスは声を高らかに上げて笑い出した。静かな空間の中で笑う声はどこまで逃げてもついてきそうで、耳を塞ぎたい思いが涌き出てきたけれど体が麻痺したように動かなくなっていた。
「この、この世の中は」
 笑いすぎたのか、ラスは咳き込んだ。痛々しくて目をそらしたくなる。
「この世の中は限りなく不公平なんですよ」
 微笑を浮かべながら口元を拭う。その目は別の方向へ向けられていたが、俺の姿は筒抜けになっているような気がして胸が苦しくなった。
 よく見てみると空色の瞳に涙が滲んでいる。
「人は愚かで醜い。分かるでしょう、あなたも人ではないのだから。人は心を持ったために愚かになった。どうして神は人に知識や感情などを生じさせてしまったのでしょうね? そのせいで愚かな人間たちは自らばかりでなく全てを破壊しているのにね! ものを考える力があるから破壊を生む。欲望が現れるから何もかもを巻き込んでいく。まったく、どうして! 最初から心なんてなかった方が良かったんですよ! いいえ人自体がいなければよかったんだ! 人なんかいなければ、いやあなたも僕らも全てがなくなってしまえば! あはは、そうさ全てなくなってしまえば世の中は『平和』になれるんだ! 人もあなたも僕らも全てなくなってしまえば、全てなくなって、全て、全て!!」
 彼の言葉はどこまでも透き通っていた。そこに含まれる意味も、感情も、何もかもが汚れのない綺麗なガラス玉のように煌めいていた。そして俺にもその輝きは充分に行き届いてきた。相手の思いがそのまま頭の中を支配した。すぐにこうなってしまった理由はごく簡単なものである。なぜなら俺自身も相手の意見を理解できないではなかったから。確かに俺はニヒリズム――つまり虚無主義ではない。しかし相手の主張に見える正当性だけは否定できなかった。むしろ、俺は相手の意見に同調して賛成し、相手と共に道を歩んでいくことだってできそうなのだ。それでも踏みとどまっていられるのは、正当性の裏に隠れたものをちゃんと理解するまでには至らなくても、それに気づきそれを知ることを通り過ぎてしまったからだ。
 しかし理解の後に残るものとは何なのだろう。気づくことも知ることも越えた後に残るものは。
「もういいでしょう。もういいでしょう! あなたは思った通りに動いてくれたのですから、そしてあなたはもはや用済みになってしまったのだから!」
 相手の言葉が聞こえた後のことだった。目の前で何かが風を切った。そして気がついたら首に剣の刃を突き付けられていた。
 後ろは壁。剣は壁に突き刺さっており、少しでも動かせばすぐにでも切られてしまいそうだった。
 今まで抑えていた恐怖が湧きあがってくる。
「あなたは本当によく働いてくれました。まあ、あなたからすれば自分のためにやっていたことなんでしょうけど、僕らにとってはとても助けられてしまったのですよ。よくぞ力石と黒いガラスを解放してくださいました。そしてよくぞスーリさんを止めてくださいました。
 だけどもうお終いです。もうあなたにできることはありません。残っていたらいろいろと邪魔になるのであなたにはここで消えてもらうことにします。本当ならシンさんに頼もうと思ってたんですが、あの人にもいろいろと思うことがあるそうなのでやめちゃいました。それに、僕もあなたに会いたいと思っていましたからね。
 さて、これで本当にお喋りはお終いです。樹さん、今までお世話になりましたね。下手な芝居に付き合ってくださりありがとうございます。これでも感謝しているんですよ? でも用済みになってしまったんですから仕方がありません。あなたにも思うことがあると思いますが、僕にはどうしても譲れないものがあり、それを守ることで精一杯なのです。他のことに頭が回るほど賢いわけじゃないのです。僕は異端者ですから。だけど僕は一族ですから。だからこそ僕は一族の最後の者として、全てを完璧にこなしていかなくてはならないのです。少しの失敗も許されません。だから今のうちにあなたを消しておくのです。分かりましたね? あなたにこんなことを知らせた理由も。何も分からずに死ぬなんて納得いかないことですものね。僕だってそんなことはまっぴらごめんですよ。だから僕はあなたに全てを話そうと思いました。そのために眠らせる魔法と記憶を見せる魔法まで使ったのですから、本当に僕はご苦労様でした。僕は自画自賛しなければならないのです。僕を認めるということは即ち一族を認めるということなのですから」
 怖い。怖かった。だけど怖い気持ちよりももっと悲しかった。認めたくなかったわけじゃない。信じられなかったわけじゃない。本当にただ単純に、悲しくなっただけだった。
 それを察したのか、相手はさっと表情を変えた。訝しげな目でこちらを睨みつけてくる。
「何か言いたいことでも?」
 問われた内容はよかったものなのか、それとも。
「俺は必死なんだ」
 口は勝手に開いていた。自分でも何を言っているのかよく分かっていない。
「俺は生きることに必死なんだ。自分の存在とかがよく分からなくて。確かにみんななくなってしまえばすっきりするかもしれない。何の問題もなく全てが巧くまとまるかもしれない。だけどそれって、ただ逃げてるだけなんじゃ――」
「分かりました。あなたもやはり事実から逃げるのですね」
 俺の言葉を制して相手は早口に言う。そして何もない空間から一本の剣を出した。
 両手に剣を握っている様はまるで俺みたいで。
 剣を高く振り上げながら相手は言葉を漏らす。
「さよなら」
 そして光が煌いた。

 

 俺は、動けなかった。
 動かないと死ぬと分かっていたけど動けなかった。
 どうしても体が動いてくれなかったんだ。怖くて仕方がなかったから。
 でもそれ以上にどうしようもなかったことがある。
 同情とか良心とか、そんなものはもう捨ててしまっていた。
 それでも動けなかった理由とは。
 理由とは――。

 

 目の前で金属音が響いた。

 

 

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