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死――って、何なんだろう。
彼はどういう意志があって命を奪おうとし、そして俺はどういう意識があって命を守ろうとするのだろう。
それぞれ違う個体だから、考えも意志も意識も価値観も違うことは分かってる。悲しみを憎悪にしか変えられない人もいれば、悲しみを力に変える人だっているということも分かってる。相手の考えに納得できない人もいれば、自分の意志を押し通さなければならない境遇に立たされた人だっている、そしてそれは俺の中でぐるぐる回っては脅威的に全ての思考を支配していた。それらからは逃れられなかった。ただぐるぐる回り続けるだけだった。
もしかしたらここまで深い恐怖を感じたのは初めてかもしれない。そう思えるほどこの状況や心情は尋常なものではなかった。
思わず目を閉じてしまったが、それもまた慣れたことだった。だけどそこから先はきっと慣れることなど不可能なことだと思っていた。
それがどうしたことだろうか、何も感じられない。
怖い思いは薄れることはなかったけど目を開けてみる。真っ先に飛び込んできたのは夕日の鮮やかなオレンジ色だった。そしてそれによって光を帯びている輝かしい金色――。
でも、なんだかそれはどうでもいいことのように感じられた。俺は生きている。死んでいない。そりゃそうだ、こんな理由だけで殺されるなんていくらなんでも納得できるものか。だけどだったら一体どうして生きている?
答えは簡単だった。
「去れ」
短い一言。
上の方から聞こえてきた声には鋭いものが含まれていた。聞いたことのある声。親しみを込めて話してくれる声。
「……分かりました。あなたが相手では厄介ですものね。いいでしょう、引くことにしましょう」
なんともあっけないものだった。だけど大きくてぐるぐるした脅威が去っていったのもまた事実。
相手は――ラスは姿を消してしまった。俺の命はそのまま取り残されていた。
「……はあ」
彼が去ると一気に力が抜けた。地面に力なくぺたんと崩れ落ちる。
でも力よりももっと抜けたものがあった。それはとても大きくて、大切で、守り続けようとしていたもの。
「驚いた」
驚いた。本当に驚いた。
そうだとしか言い様がなかった。
言い様がなくって。
どうしようもなくなって。
「う――」
緊張した空気の中だったので出せなかった感情が一気に襲いかかってきた。同時に俺の中にあったものが一気に崩れ去ってしまった。
崩れてしまって。壊れてしまって。
もうどうしようもなくなってしまって。
「また?」
気づけば口に出して言っていた。
「また俺は、騙されていたの?」
呟いた途端、どうしようもない思いが爆発しそうになった。だけどそうはならなかった。なぜなら俺の隣に誰かがよろめいて地面に崩れるように座ってきたから。
隣に目をやると久しぶりに見る顔があった。
「師匠……?」
でも相手は俺の知っている相手ではなかった。
しきりに何かを口の中で呟いている。顔に手を当てて目を隠しており、いつものあの気楽そうな相手はどこにも見えなかった。
そっと口元に耳を近づけてみると、風に乗って相手の声が聞こえてきた。
「長い時間をかけてまで俺は何をしていたんだ。自分の目的だけに目がくらむなんてとんでもない愚か者だ。どうしてこんなことになってしまったのか。どうしてもっと早くに行動に移せなかったんだ。ああ、俺はもう誰とも顔を合わせられない――」
そのまま両手で顔を覆ってしまった。
俺はどうすればいいんだろう。
全てに対してまいってしまった。どうすればいいのか分からなくなってしまった。でもどうにかしなければならないことだけは嫌というほど分かっていた。どうにもできないのにそれだけは可笑しいほどに分かっていた。
俺がなんとかしなければならないんだ。
他の誰でもなく俺が。
意を決めて立ちあがる。夕日はほとんど山に隠れてしまい、もうすぐ夜の帳(とばり)が下りてしまいそうだった。
さっと座り込んでいる相手の方へ視線を向ける。はたしてそこには普段と違う相手の姿が――なかった。
あったのは影だけ。そして。
「何をしているの?」
目の前に立っていたのは水色の髪の人。
「あ――、あ」
「どうしたの?」
水色の色彩がオレンジに染まっている。それは目に焼きついた光景と全く同じであった。
……この世の中は。
「いや、違う」
頭を振って否定する。よく見れば明らかに違うというのに、よく見なくても全く違うのにどうしてこう姿を重ね合わせてしまうのだろうか、ただ水色の――空色の髪を持っているからといって!
「何もないよ」
呟いた言葉は相手に向けていた。だけど本当は俺に向けていた。
「何もないから」
そう言って相手の――ロスリュの顔を見る。こちらもまた久しぶりに見る顔だった。ずっとこの家の中にいたのだろうけど、実際にこうして顔を合わせるのは久しぶりなことだったのだ。だって彼女は部屋に閉じこもっていたのだから。
「そう? そうは思えないけど」
「いいからほっといてくれよ!」
言ってしまってから気がついた。わけもなく大きな声を上げてしまっていたことに。慌てて口を塞いでももう遅い。一度外に出てしまったものは二度と元には戻らないのだから。だから我々は各々の言動全てに責任を背負う覚悟をしなければならない。
質素な家のドアは開いたまま放置されていた。
「彼は?」
俺はわざと『彼』と呼んだ。相手はちょっと訝しげな表情を見せてきた。
「さっきすれ違っただけよ」
うん。そうだ。きっとそうだと思っていた。
しかしそんなことはどうでもいいことだった。誰が何をしようと自分には関係ないはずだった。彼が何をしようと俺には関係ないはずだった。そしてあいつがどんな考えを持ってどんな悲しみを抱えて、どんな怒りを内に秘めていようとこの世界やあの世界には関係ないはずだった。関係ないはずだったのに。
それを無理矢理に関係付けてしまったのは他でもないこの俺。
俺が欠陥品でなければ。俺が出来損ないでなければ。
悩んでも何も変わらないのは分かってる。でもそうでもしなければ今にも全てに押しつぶされてしまいそうで、全てのものの視線に堪えられなくなりそうで、常に自問自答していれば少なくとも周りに気を配らなくてもよくなるからと逃げていた。それだけ分かっていて尚も考え続けるのはやっぱり、自分のことが可愛いから。
嫌な思いをしたくないとか。幸せになりたいだとか。
子供だから? そんなわけない。だって世の中には子供みたいな大人だっている。
じゃあ大人なのか? そんなわけでもない。どうしてこんな奴が大人だと呼ばれることがあるだろうか。
内に潜んでいる兵器は分かってるんだろうか。あいつを『敵』だと認識しなかったあの兵器は!
そうだ、俺は、いやおれは、あいつのことを敵だと見ていなかった。俺の身体は麻痺したように動かなくなったが、それは恐怖のためだけじゃなかったんだ。本当なら機能しなければならない兵器が認めなかったために、俺は死を身近に感じなければならなかったんだろう。
一体何をしていたんだ、いや、そうじゃなくて。そうじゃなくて……ああ、もういい。もうどうだっていいじゃないかそんなことは。これ以上何をしても無駄さ。無駄なのになんで身を粉にして何かのために働かなければならないんだ。何かのために、何かのためにって?
ラス・エルカーン。
あんた一体なぜそんなに必死になってるんだ。
陽光が室内を染めている。
入り口で立ち止まって室内を観察してみた。さっき家に入っていった師匠は椅子に座って机に顔を埋めており、いつか見た壊れた教会の中でのあの人のことを思い出してしまった。彼と全く同じ格好をしている。
しばらくぼんやりとその様子を眺めていたが、いきなり右腕の腕輪から光があふれ出た。そうなれば次に起こることは容易に予想できる。また勝手に精霊の誰かが出てくるのだろう。
予想通りだった。今はなんだかいろいろあるらしくて外に出られる精霊はエミュとオセだけだとか言っていたよな。でもエミュは外に出てどこかへ行ってしまった。きっとカイって人を捜しに行ったのだろうけど、だとしたら残っている外に出られる人はオセだけになる。
そういうわけなので出てきたのはオセだった。これで他の精霊が出てきたら数限りない文句を飛ばしてやるところだった。
オセは無言でこちらを見下ろしてきた。何か言いたそうな様子はない。相変わらず薄い光を帯びていたが、いつもよりいくらか光が薄くなっているような気がする。
ふっとオセは俺から視線を外し、今度は机に突っ伏している男の方へそれを向けた。そして音もなくそちらへ近寄っていく。
師匠はそれに気づいているのか気づいていないのか、オセが近づいても少しも動じることはなかった。だけど反対に俺は言い様のない不安を感じ始めた。なぜいきなりオセが出てきたのか。なぜ師匠に近寄っていくのか。よく考えればこれほどおかしなことはないじゃないか。
俺は止めるべきなのだろうか? でも一体何を? まだ誰も何もしていないのに。
……まだ?
そうか、そうなんだ。そうだったからこそ俺は駄目だったのか。そりゃそうだよな、当然だ。俺は何かが起こることを待ちすぎていたんだ。
何かが起こってからそれをどうにかしようとするのは、本当にどうしようもないことだ。事前に知らせがなくてもそれを察知することくらいできるだろう。俺は今までそんなことをしなかった。そりゃ常識外れのことをされたら困るけど、でもはたして今までの出来事は予想できないことばかりだったであろうか?
何かが起きてから行動するのでは間に合わないんだ。
再びオセの方へ目をやると不思議なものが目に入った。
「は?」
思わず口から声が漏れてしまう。慌てて口を塞いだが、それにもお構いなしにオセは『それ』を実行した。
がんっ、といういい音が部屋の中に響く。
オセがおこなったこと。それは、本の角で師匠の頭を殴るという行為であったのだ。
ああもう一体何がどうなってるんだよ。俺を困らせてそんなに楽しいか! 泣くよ。もう泣くよ俺。
殴られた相手はしばらくじっとしていたが、少しするとゆっくりと体を起こした。そして殴られた部分を手で触る。
オセはじっと師匠の動作を見ていた。睨んでいたと言った方がいいだろうか。そんな妙な空気の中に俺が入る隙など存在するわけもなく、俺は入り口から一歩も動けずに硬直してしまった。自分で自分が情けない。
ゆっくりと師匠はオセの顔を見た。あんなことをされたんだ、きっと怒ったんだろうな。いくらなんでもあんなことをされて怒らない人はいないだろう。まったくオセは何を考えているんだか。だから俺はあの人は苦手なんだ――。
「何をぼんやりとしている?」
妙な空気の中で最初に口を開いたのはオセだった。一瞬俺に向けられたと思った言葉だが、それは俺の勘違いだった。
「お主がそんなことでどうするというのだ」
偉そうな態度で。
「情けない」
軽蔑を込めて。
再び訪れるのは沈黙。誰も何も言わなかった。
「カイ」
唐突にオセは誰かの名前を吐き出した。
「おい、カイ」
もう一度呼ぶ。はっきりとした声で呼ぶ。
明らかにこれは師匠に向けられていた。オセの言っていたカイという人って、師匠のことなんだろうか。
「誰――」
小さな呟きのようなものでも静かな空間ではよく響いていた。それを吐き出したのは師匠であり、何もかもがよく分からないというような表情をしていた。
オレンジ色が鮮やかさを失っていく。
「何も思い出さなくても良い。だがお主は一体何をしている? そのまま逃げ続けて本当に後悔しないのか?」
何を言っているんだろうか。俺にも師匠にもよく分かっていないらしい。オセは何を知っている? そして俺は何をしている?
何を。
「まあ、わたくしには関係のないこと。何もする気がないのならそれでも良いだろう。お主が自分で決めるならばそれで構わぬ。そのまま進まぬ時を過ごすのも、あの者との契りを破るのもお主次第」
それだけを言うとオセは光に包まれて姿を消してしまった。石の中に戻ったのだろう。途端に俺はもう一度オセを召喚したい思いに駆られたが、今はそれを抑えなければならないということを知っていた。
光の消えた室内を師匠はぼんやりと眺めていた。
そして俺も、どうしようもなかった。